井伊直弼とは?簡単にわかりやすくその生涯を解説!

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井伊直弼(いいなおすけ)っていうとどんなことをイメージしますか?

幕末を描く時代劇なんかでは自分に逆らう人には容赦ない、自己中心的で権力を振りかざす極悪人として描かれることが多いですよね!

井伊直弼と言えば、「安政の大獄」「桜田門外の変」が有名で、その生涯を語る上で欠かせない重要な出来事です。

この重要な2つの出来事を絡めながら井伊直弼は本当はどんな人物だったのかをご紹介します

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目次

井伊直弼と言えば!「安政の大獄」

安政の大獄とは、当時幕府で将軍に次ぐ最高権力の地位である大老という職にいた井伊直弼が、対立していた人々を激しく、傍若無人に処罰・処刑した出来事です。

これだけ聞くと、「自分に逆らう者はみんな処罰じゃー!!殺せ殺せえ〜〜」というめちゃ最悪な輩ですよね。

ではなぜ井伊直弼はこんなことを始めたのか?

ことの発端は、1853年にアメリカの黒船が来て開国を迫ったことにあります。

200年以上も平和な世の中だったので、急に外国からの脅威に幕府は大慌て。結局幕府は開国を認め、その後日米の貿易や治外法権に関する条約にも調印することになったのです。

アメリカの進んだ文化や武器の力を目の当たりにして、平和に慣れきった日本にはもはや戦って打ち勝つ力はないことを痛感します。アメリカの申し出を受け入れなければ、やられる・・・と危機感を抱いたわけです。

不本意ながらジャイアン・・・ではなくアメリカの申し出を受けれいてしまったことでのちのち大波乱が起きます!

井伊直弼・勝手にアメリカと条約

ここで問題になったのが、井伊直弼が本来は必要な天皇の許しである勅許なしに通商条約に調印してしまったことです。

その時の天皇、孝明天皇は外国がキライだったので、勅許を出さなかったんですね。

「外国人は日本に入れるな!打ち払え」という攘夷思想だった名門の水戸藩(現茨城県水戸市)

水戸藩は孝明天皇に働きかけて「幕府は勝手なことをしてけしからん。水戸藩が攘夷を推進し幕政を正すように」と天皇に指示(勅書)を出させます。

このやり方は200年余り武士を取りまとめて政治を行ってきた幕府をないがしろにし、その政治体制の秩序を乱す重大なものでした。

そこで井伊直弼は幕臣の最高権力の大老として、その勅書に関わった人々を処罰・処刑したのです。

これが「安政の大獄」です。

桜田門外の変

「安政の大獄」では水戸藩を中心に多くの人が謹慎や追放、投獄や処刑されました。

対象は武士や朝廷の貴族のみならず町人にまで及び、その数なんと100人以上。

そんな状況ではとても攘夷を進めていくことはできません。

攘夷を断行するには大老の井伊直弼が邪魔者だということで元水戸藩士17名と元薩摩藩士(現鹿児島県)1名の総勢18名が、井伊直弼の襲撃を計画するのです。

井伊直弼・暗殺される

安政7(1860)33日、季節外れの大雪に見舞われた江戸城桜田門の前で、籠に乗り藩士に囲まれて進む井伊直弼は襲撃され命を落としました

大老という幕府の中心的重要人物の行列が、白昼堂々と襲われて落命するなんて前代未聞の事件でした。それほど、すでに幕府の威光は落ち込んでいたんですね。

井伊直弼は藩主になれないはずだった?

井伊直弼は1815年、彦根城で生まれました。母親の富は側室で、さらに十四男でしたので到底藩主になる見込みはありません。

元藩主の父親が死んだ後は、「埋木舎(うもれぎのや)」と名付けた城郭内の邸宅で17歳から32歳まで過ごしました。

跡継ぎの影で生きていかなければいけない生活を、花の咲くことのない埋もれ木に例えた名前と言われています。

この埋木舎で過ごした時期に、直弼は文武両道を極めていきます。

学んだことは、国学、和歌、俳諧、狂歌、鼓、禅、兵学、古典文学、剣術、鎗術、馬術や禅、居合術では自らの流派を創設するほどの腕前だったそうです。

学ぶ意欲や才能とともに、それだけ時間もあったんでしょうね・・・。

そんなある時、直弼に藩主の跡継ぎとなる話が舞い込みます。当時は兄が藩主でしたが、その跡継ぎの子どもが亡くなってしまったため、直弼が兄の養子となり後継者となったのです。

嘉永3(1850)に兄が亡くなったことで、十四男で跡継ぎの見込みがなかったはずの直弼が彦根藩主となったのです。

吉田松陰に名君と言わしめた彦根藩主時代

藩主となった直弼は、藩士の意見を広く聞きいれ、良い意見には褒美をあげ登用したりしました。

人材育成のための教育に力を入れて、努力して能力を高めれば道が開けることを藩士に示し、士気を高めていったのです。

さらに藩のお金15万両を士民に分配するなど、民のための政治を行っていました。

彦根は30万石の藩です。

一石はだいたい一両なので、国の1年間の収入の半分を分け与えてしまうなんて太っ腹ですね~。

代替わりの慣習でもあったようですが、前藩主はあまり評判がよくなかったので、「前藩主とは違うよ!」といういいイメージを植え付けたい思惑もあったのかも知れません。

そんな直弼は仁政の藩主として藩外でも有名で、後に安政の大獄で命を落とす吉田松陰が「稀代の名君である」と評し、「領民に対する哀れみの心を持った」人であると賛辞を送ったほどです。

それなのにまさか後年自分が捕えられるとは、思ってもいなかったでしょうね・・・。

井伊直弼は名コピーライター?井伊直弼の残した名言・名句

学問にも優れていた井伊直弼は、数々の名言・名句を残していますので、ご紹介します。

「一期一会」

今でもよく使われていますね。この四字熟語を最初に表したのは井伊直弼と言われています。

「上なるも下なるも楽しむ心がなくては一日も世を渡ることは難しい」

身分の上下に関わらず、何事にも楽しむ心がなければ一日だって過ごすことはできない、といった意味です。

この気持ちがあったからこそ、15年にも及ぶ埋木舎での生活で文武両道を極めることができたんですね。

「咲きかけし猛き心の一房は散りての後ぞ世に匂いける」

自分の熱い想いは今世では成し遂げなかったが、きっと後の世に身を結ぶであろうという意味です。井伊直弼が桜田門外の変で命を落とすその前日に詠んだ辞世の句です。

実は直弼は命を狙われていることを知っていたようです。でも護衛を増やすこともなく、逃げ出すこともなく、いつも通りの生活を送っていた直弼。

決して間違ったことをしていない、やましい事がないから逃げも隠れもしない、という、彼の実直な性格が伺えます。

井伊直弼とは?簡単にわかりやすくその生涯を解説・まとめ

安政の大獄は、幕府の威厳が一つの藩によってないがしろにされたことで井伊直弼が行った処罰や処刑のことを言います。

桜田門外の変はそれに怒った武士たちによる井伊直弼の暗殺ということでした。

幕末という大きな時代のうねりの真っ只中に生きた井伊直弼。

天皇の勅許なしの条約締結や安政の大獄など敵を多く作ることにもなりましたが、そうせざるを得ない時代の流れだったとも言えます。

彦根藩主の時も大老だった時も、井伊直弼が1番に考えていたのは、きっと民のことだったのではないでしょうか。

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