群雄割拠の戦国時代、織田信長や豊臣秀吉のように勝つ者もいれば、敗れる者もいました。
各武将にそれぞれのドラマがあるのが戦国時代の面白いところです。
しかし涙なしには語れない、あまりにも可哀想な武将も中にはいたのです。
戦国時代には色々な武将がいましたので、可哀想なポイントはその人ごとに違います。生い立ちだったり、境遇だったり、悲運だったり、最期だったり…。
今回はそんな、可哀想な武将を厳選してご紹介します。
皆さん、ハンカチのご用意は良いですか?
それでは、どうぞ。
浅井長政(あざいながまさ)

可哀想な武将の1人目は、浅井長政です。
現在の滋賀県湖北町に位置した小谷城・城主の浅井長政は、悲劇の武将と言われています。
織田信長の妹であるお市の方を妻にしながら、信長と戦わなければならなかったからです。
最後には信長の軍勢に追い詰められ、29歳で切腹しなければならなかったことも悲劇の武将と言われるゆえんの1つです。
もともと浅井長政は人望のある智将でした。織田信長からの信頼も厚かったといいます。
なぜ浅井長政は義兄である織田信長に逆らい、敵対しなければならなかったのでしょうか?
そして浅井長政の死後も、涙なくしては語れません。
織田信長は浅井長政の裏切りに心底激怒しており、戦に勝っただけでは収まりませんでした。
浅井家を根絶やしにし、長政の頭蓋骨を漆で固めて金箔で飾り、宴の席で酒の肴にしたというエピソードもあります。
これは苛烈な性格と言われた織田信長らしい逸話でもありますし、浅井長政がどれほど悲劇的な武将かを語るにはうってつけの話でもあるのです。
不遇の生涯
浅井氏は初代・2代のころ、北近江(現在の滋賀県北部)の大名として発展しました。
しかし南近江(現在の滋賀県南部)の六角氏と対立関係にありましたが、2代目・久政の代でやむなく傘下に入ってしまいます。
浅井長政は久政の子でした。
1559年の正月に15歳で元服した浅井長政は、六角義賢(よしかた)から1字もらって賢政と名乗らざるを得なかったのです。
その上、義賢の重臣だった平井定武の娘と結婚までさせられました。…もうすでに可哀想な状況ですよね。
ところが半年も立たないうちに、賢政は妻と離縁して実家に送り返し、さらに父の久政から家督を譲り受けて長政と名も改めてしまいました。
勇猛で血気盛んだった浅井長政は、六角氏の傘下にいることが我慢できず、独立しようとしたのです。
1560年8月、浅井長政は1万1千人の軍勢を率いて、宇曽川畔の野良田(現在の滋賀県彦根市野良田)を戦場にして2万5千の六角軍に戦を挑みました。戦死者もかなりの数にのぼった激戦の末、浅井軍が勝利しました。
しかし六角軍がいつ攻勢に出てくるかわからない状況で、浅井長政は六角軍を牽制するために尾張(現在の愛知県西北部)の新勢力と手を結びました。それが織田信長だったのです。
かくして浅井長政は信長の妹であるお市の方を妻に迎えました。2人の間には、茶々・初・江の3人娘が生まれたのでした。
義兄に逆らい悲劇の最期!
浅井長政と織田信長が同盟を結んだ一方で、古くから浅井氏は越前(現在の福井県北東部)の朝倉氏と深い繋がりを持っていました。
1570年4月、朝倉義景が織田信長の上洛要求を無視したため、織田信長は朝倉攻めに踏み切ったのでした。
この出来事により、浅井長政は信長と朝倉の二者択一を迫られます。
おそらく長政は、相当悩んだに違いありません。結果、長年の関係を重んじて織田信長を裏切り、朝倉攻めをしていた織田軍の背後を攻撃したのです。
信長軍は敗走しましたが、近江の姉川で再び合戦となり、徳川家康の援軍を受けた織田軍が圧勝しました。
そうして浅井長政は1572年8月27日、お市の方と三人の娘を小谷城外に送り出すと、無念にも切腹。
29歳の若さでこの世を去ったのでした。

佐々成政(さっさなりまさ)

次にご紹介するのが佐々成政です。
佐々成政は織田信長に仕え、信長の死後は豊臣秀吉の元で手腕を振るいました。
最後は責任をなすりつけられる形で死に追いやられます。
まさに、上司の責任は部下の責任というやつです。この時代は責任の取り方が主に切腹だっただけに、たまったものではなかったでしょう。
しかもその上司の豊臣秀吉ですが、佐々成政はぎりぎりまで秀吉の配下に下ることに抵抗していました。泣く泣く従うしかなかった経緯を考えると、無念さもひとしおではなかったでしょうか。
泣く泣く秀吉の傘下に
佐々成政は、親兄弟とともに家族ぐるみで織田家に尽くした真面目な武将でした。
佐々成政は織田信長に仕え、北陸平定で手柄を立てたことから、越中に54万石をもらって富山城主となりました。
内政面では度重なる水害に悩まされていた領民のために大規模な堤防工事を実施しました。それによってわずか数年で問題を解決したことから領民に慕われていたといいます。
その堤防は佐々堤と名付けられ、現在でもその遺構が残っています。
本能寺の変により織田信長が死亡した際、跡取りに考えていた養子の佐々清蔵も討ち死にしてしまいます。
清州会議にて柴田勝家と豊臣秀吉が対立した際は、佐々成政は柴田勝家に味方しました。
その柴田勝家は賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いに敗れ、そのため佐々成政は娘を人質に出して秀吉に降伏したのでした。
責任転嫁で無念の最期!
佐々成政の最期は、不憫なものでした。
佐々成政は肥後に入国して間もなく検知を実行したのですが、隈部親永がこれに応じなかったため攻撃します。
これによって国人一揆が起こり、小早川隆景らの救援を得てやっと鎮圧することができたのでした。
豊臣秀吉は「一揆の原因は成政の悪政である」と決めつけました。
佐々成政は弁明のために大阪城に向かったものの尼崎に幽閉されてしまいます。そこで秀吉の命令によって切腹させられたのでした。
じつは国人一揆の原因は、秀吉の指示を受けた成政の政策にあったのでした。豊臣秀吉は佐々成政に不穏勢力を一掃させて、その上で責任を成政に負わせたと考えられます。
佐々成政にすれば責任転嫁以外の何物でもないでしょう。可哀想な最期でした。

吉川元春(きっかわもとはる)

最後にご紹介する吉川元春は、律儀で義理堅い性格のために命を落としました。
性格の良さが命取りになったのです。
吉川元春がどんな武将かと言いますと、「3本の矢」の逸話で有名な毛利元就の息子の1人です。
毛利元就の言う3本の矢のうちの1本が、吉川元春ということですね。
吉川元春はもともと強健な体質でしたが、1578年、49歳のときに瘧(おこり)という病を患いました。
瘧というのは間欠熱の一種で、多くはマラリアを指します。
吉川元春の死因は鮭を食べたことで病気が悪化したものと言われています。
なぜ吉川元春は鮭を食べてしまったのでしょうか?
その理由は、後述いたします。
戦上手で勇猛な人物像
吉川元春はもともと毛利元就の次男で、17歳のときに吉川家に養子に入りました。
吉川元春の戦に臨む心構えは、「小敵を侮ってはならず、大敵を恐れてはならず」でした。
元春は弟の小早川隆景にこのように言ったと伝えられています。
「小敵に対しては謀略を先にして戦闘を後にすることが肝要。負けない工夫をすれば、小敵ゆえに相手は次第に衰えていく。逆に大敵に向かうときは十死一生の戦いを覚悟しなければならない。
戦に敗れることを恐れて身をかがめていると相手は威勢を増し、味方は気後れして、刃を交える前に敗北するだろう。大敵に対しては決して恐れず、奮起することこそ肝要である」と。
豊臣秀吉の時代になると、吉川元春は秀吉と戦ったことがあるだけに、臣従するのを潔しとしませんでした。長男の元長に家督を譲って早々に引退してしまったのです。
しかし1586年、豊臣秀吉が九州征伐に出陣したとき、甥の毛利輝元や弟の小早川隆景に依頼されてやむなく参戦しました。
そして悲劇は起こりました…。
律儀さが命取りに!?
甥の毛利輝元や弟の小早川隆景に依頼されて出陣した九州征伐で、吉川元春は小倉城を攻略しましたが、その城中で病気を患いました。背中に悪性の腫れ物ができたといいます。
小倉城にとどまって養生していると、まもなく快方に向かいました。この調子ならじきに戦場に行けると思っていたある日、親友の黒田孝高が鮭を料理して振る舞ったといいます。
当時、鮭は血を破る魚で、腫れ物には悪いとされていました。元春はそれを知っていたので食べるのを一瞬ためらったでしょう。
しかし、料理に手を付けないのは、せっかくもてなしてくれた友人に失礼だと思い、鮭料理を食べたのでした。
案の定、夜になると吉川元春の容態は悪くなり、症状は次第に悪化していきました。
そして吉川元春は小倉城で息を引き取りました。57歳でした。
せっかくの友人の厚意を無駄にしたくないという律儀さが、かえって命取りになったとも言えました。

最もかわいそうな戦国武将3名を紹介!まとめ
以上が、涙なくしては語れない、可哀想な武将3選でした。
末路は三者三様でしたが、3人とも自業自得というよりは不運だったり、人間関係の落とし穴に嵌ってしまったと言えるのではないでしょうか。
末路だけでなく、その武将の人生全体を通して見ていくと、さらにその不憫さが浮き彫りになったのではないでしょうか。
戦国時代は選択を1つ間違えただけで一族が滅びることも珍しくない世の中であったため、同情してしまうような武将はご紹介した以外にもたくさんいると思います。
そのような武将のことを知って思いを馳せるのも、歴史の楽しみ方の1つですよね。

【参考文献・参考サイト】
『読むだけですっきりわかる戦国史』後藤武士 宝島社
『2時間でおさらいできる戦国史』石黒拡親 大和書房
『戦国武将あの人の顛末』中江克己 青春出版社
『浅井長政はどうして織田信長を裏切って朝倉義景に味方したのか?』歴史の読み物
https://app.k-server.info/history/nagamasa_nobunaga/
『佐々成政の解説 織田家のエリート武将も最後は悲劇な人生を送る』
『猛将・吉川元春の死因は鮭?』授業で教えてくれない戦国武将と歴史の話