安土城はなぜ焼失したのか?幻の城を築いた信長

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安土城、みなさんも耳にした事がある有名な城ですよね。

あの織田信長が造った最後の城です。

しかし安土城は信長が亡くなるとなぜか焼失してしまい、現在は石垣などを残すのみとなっています。

なぜ安土城は焼失してしまったのか?

今回はそこに触れると同時に、当時安土城がいかに規格外の城だったのかにも触れていきましょう。

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目次

炎に消えた幻の安土城

織田信長は斎藤家より奪った稲葉山城を岐阜城と改めて、岐阜城を拠点としていました。

ですが、より京へと近い場所へと居城を移す事にします。

その際に造られたのが安土城です。

しかし、当時まさに規格外と呼ぶに相応しい城だった安土城の面影は現在、どこにもありません。

宣教師達が残した文献に書かれたものが唯一、当時の姿を物語るものとなります。

まさに「幻の城」と呼ぶに相応しいですね。

「天守」と「天主」

実は天守閣という字には、二通りの書き方が存在するのを皆さんは知っていますか?

天守閣」、こちらが普段私達がよく目にする字の方ですよね。

ですがこちらは意外と見慣れない人も多いのではないでしょうか?

天主閣」、こちらはとある城にのみ使われる表記です。

そう、安土城の天守閣をさす場合にのみ、使用されます。

実際に安土城の天守台跡地にはしっかりと、天主台と書かれています。

これは信長が当時いかに、天下にもっとも近い存在であったかの証明とも言えますね。

天下の主の城なので、安土城のみ天主閣と表記されるのです。

名前の1つを取っても、その規格外さが伝わってきますね。

信長最後の居城・安土城

信長が安土城へと拠点を移す前に使われていた岐阜城は、難攻不落の城として有名です。

山の上にあり、その難攻不落さから城主である斎藤龍興が「この城は誰にも落とせない」と豪語するも、家臣の竹中半兵衛の手によって落とされた話もとても有名ですよね。

そんな難攻不落の城からより京へと近い場所へ拠点を移す事は、信長の天下への野望がどれほど強かったかを物語っているとも言えます。

筆者が信長であれば、難攻不落の城にこもっていたいところです。

そして図らずも、信長最後の居城となってしまった安土城。

ここからは、安土城はなぜ焼失したのかを安土城のエピソードに触れながら探っていきましょう。

宣教師も驚く豪華絢爛な天主閣

安土城以前の城にも櫓などがありましたが、石垣で天主台を造りその上に天主閣を建てるという、現在の私達が知る城の形は安土城から始まりました。

日本で初めて天主閣が建てられた城です。

信長の威光を存分に示すため、豪華絢爛に造られた天主閣。

それは当時キリスト教の布教に訪れていた宣教師ルイス・フロイスも「こんな建物は見た事がない」と驚くほど。

それもそのはず、5層の天主閣は当時の木造建築の最大規模でした。

金色や朱色を使った色鮮やかな天主閣が山の頂上にあるのです、現代の私達が見ても驚くものでしょう。

また安土城は望楼型と呼ばれる造りの天主閣ですが、その中でも異彩を放つほどの不整形さを持っています。

その不整形さと豪華絢爛さ、そして当時最大規模の木造建築は信長の威光を存分に示したと言えるでしょう。

大胆な吹き抜け構造

吹き抜け構造と聞くと、とても現代的な雰囲気を感じる人も多いのではないでしょうか。

ですがその吹き抜け構造が、実は安土城の天主閣にあったのです。

4層分も吹き抜け構造になったそこには宝塔があったとされ、当時の建築技術の高さを証明しています。

しかしこの吹き抜け部分にあったとされる宝塔。

これは仏教の物であり、比叡山を焼き討ちした信長がなぜ自身の城に設置したのかは不明です。

安土城で信長は「神になる」と宣言したという文献もあり、もしかしたら死後神になるために設置したのかもしれませんね。

まるでエジプトのピラミッドのようで、面白いエピソードの1つです。

天主閣に住んだ唯一の城主信長

引用元:Wikipedia

実は天守閣というのは人が住むようには造られていません。

信長の死後も各地で天守閣が造られましたが、城主はみんな本丸御殿などの、居住のための建物で暮らしていました。

現存する天守閣に行った事がある人なら「こんな所に住めるわけがない」と思えるはずです。

ほとんど直角のような急な階段しかない6階建て7階建ての建物に住みたい物好きはそうそういませんよね。

そう、天守閣は威光の象徴であり、あくまで巨大な櫓の1つに過ぎないのです。

しかし唯一天守閣に住んだ城主がいます、それが信長です。

なぜ信長が天主閣に住んだのかも不明ですが、住んでいたと記述された文献が存在する以上、信長は確かに天主閣に住んでいた事になります。

山頂に位置する天主閣に住むよりも、近くに住みやすい平屋を建てた方がいいのではと筆者も思いますが、きっと信長にしか分からないこだわりがあったのでしょうね。

庶民にも一般公開

安土城が完成した際に信長は、一般庶民を城に招いています。

城とは本来、他人に見せていい部分の方が少ないものです。

自分の領地を守るための重要な要塞ですからね。

ですがそれを大胆にも一般庶民に公開する信長の行動はまさに、常人には理解ができないものと言えます。

しかも公開の際、庶民から入場料を取っています。

まるで現代のテーマパークのような扱いに、驚きを隠せませんよね。

信長がいかに常識という枠にとらわれない人だったのかを感じさせるエピソードです。

日本初のイルミネーション

イルミネーションなんて戦国時代とは到底無縁の言葉に聞こえますよね。

ですが日本で初めて電気も使わずにイルミネーションを行ったのが信長です。

宣教師の見送りの際に、信長は城下のほぼ全ての家を消灯させ、真っ暗な夜に提灯や松明で安土城を浮かび上がらせました。

琵琶湖の湖面にも映るほど綺麗なその景色を信長は宣教師とともに楽しみ、見送ります。

単なる見送りでは満足しない信長の人間性が垣間見えますね。

攻めやすい造り

城というのはいかに「攻めにくいか」考えて造られます。

自分の領地を守る要塞です、当然攻めにくく落とされない城を目指して造ります。

階段の段差や幅を変えたり、石垣を高く積んだり、橋を切り落とせるようにしたり。

そうして試行錯誤して攻めにくい城が造られるのですが、実は安土城は攻めやすい造りをしています。

大手門から続く道はまっすぐで道幅も約6メートルもあり、攻め入る側からすればとても進みやすい道です。

また天主閣そのものもいざという時の備えに乏しく、攻め落とそうと思えば攻めやすい城でした。

ですが攻められない理由は、飛ぶ鳥を落とす勢いの信長の居城である事はもちろん、周辺には重臣の支城があった事が大きな理由の1つでしょう。

周辺の支城を無視して安土城のみを攻め落とすのはほぼ不可能です。

そういった理由から、安土城は攻められる事を想定して造られていない城とも言えます。

実は本能寺の変の後も使われていた

信長の死後、安土城は焼失して使われていない、廃城となったと思う人は意外と多いです。

ですが実際は信長の死後も安土城は使われていました。

本能寺の変の後もしばらくは織田氏の居城として使われています。

実は焼失したのは安土城すべてではなく天主閣と本丸部分のみで、清州会議の後に織田秀信が二の丸に入城しています。

天主閣の焼失後は主に、二の丸を中心に城として十分な機能を果たしていた証拠ですね。

しかし、豊臣秀次が八幡山城を築城するため、その際に廃城となったとされています。

新しい天下人にとって信長の城は、例え天主閣がなくとも邪魔だったのかもしれませんね。

未だ不明の消失原因

そして、肝心の焼失原因についてお話しましょう。

と言いたいところですが、実は未だに安土城が焼失した原因は分かっていません。

明智秀満が逃走の際に火を放った説。

織田信雄が明智軍の残党をあぶり出すために火を放った説。

野党が略奪目的で安土城に侵入し火を放った説。

落雷によって焼失した説。

さまざまな説があり、これだと決定的に言えるものはありません。

なぜ焼失したのか分からない、それはまさに未だに首の見つからない信長そのもののようです。

安土城はなぜ消失したのか?幻の城を築いた信長まとめ

いかがだったでしょうか?

安土城という規格外の城はまさに、幻の城と呼ぶに相応しい城だったと思えたのではないでしょうか。

ちなみに安土城の天主閣はもちろん現存しませんが、原寸大で復元されたものが伊勢忍者キングダム(三重県伊勢市二見町三津1201-1)にあります。

向かう途中で山の上にある安土城が見えてくるその様子は、当時の雰囲気をうかがい知れますので、今回安土城に興味が湧いた人はぜひ見てみてくださいね。

【参考文献・参考サイト】

『城の造り方図典』著:三浦正幸 小学館

滋賀県立安土城考古博物館 https://azuchi-museum.or.jp/

ともいきの国 伊勢忍者キングダム https://www.ise-jokamachi.jp/

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