大友宗麟は、近年、その能力と功績が急速に見直されている戦国大名です。
豊後府内(現在の大分市)を本拠として九州北部の大半を支配し、名門・大友氏の最盛期を築きました。
キリシタン大名としても知られています。
それだけを聞くと、絵に描いたような強靭な武将を連想しますが、宗麟の生涯は波乱万丈であり、よく耐え抜いたと思わせる苦難の連続でした。
宗麟の苦労は、現代人が抱える苦労と何ら変わらず、周囲に助けられながら苦難を乗り越える姿には、感動すら覚えます。
今回は、そんな大友宗麟の生涯を詳しく見てみましょう。
なお、宗麟の本名は義鎮(よししげ)ですが、出家後の宗麟の名がよく知られているため、ここでは宗麟で統一します。
大友宗麟の生い立ち
大友氏のルーツには諸説ありますが、源頼朝に仕えた有力一族に始まるとする点は共通します。
現在の神奈川県小田原市が発祥で、初代・能直(よしなお)は頼朝から九州地方の役職に任命され、現在の大分県の一部である豊後国(ぶんごのくに)に移住したと言われています。
宗麟と父・義鑑(よしあき)
宗麟の本名である義鎮は、当時の室町幕府第12代将軍の足利義晴(よしはる)から1字を賜った名前です。
それだけ、大友氏は名門に位置付けられていたということです。
しかし、父・義鑑との関係は悪かったようです。
具体的な内容は伝わっていませんが、宗麟には奇行が多く、家臣たちの信望も薄いため、義鑑は宗麟の弟に家督を継がせようとし関係が悪化したようです。
後で述べますが、宗麟は何事にも熱中する、今で言うオタクの傾向があったようです。
そのため、奇行が多いとか信望が薄いといった評価は、そうした趣味嗜好への無理解が生んだ偏見であったと推察されます。
二階崩れの変とは?
いつの時代にも親子のすれ違いはありますが、義鑑と宗麟の関係は最悪の結末を迎えます。
弟に家督を継がせたかった義鑑は、一部の家臣に宗麟を正式に排除する計画を漏らします。
しかし、宗麟を支持する家臣たちはきちんと存在し、この計画の阻止に動きます。
そして、居館の2階で就寝していた義鑑や弟たちを殺害するという、いわゆる二階崩れの変が起きます。
宗麟自身がどこまで関与していたかにも諸説ありますが、内なる才能を秘めた後継者と見る家臣もいたことは確かです。
大友宗麟はどんな性格?
宗麟の人生は、すでに幼少期から波乱含みだったことになります。
今の感覚で考えれば、何かしらネガティブな影響があったとしても、おかしくはありません。
宗麟は、まず自分自身で己の弱さを克服しようとし、それでも足りない部分を家臣たちに補ってもらっていたように見えます。
キリシタン大名
宗麟は、30歳を過ぎた頃に仏門に入り、剃髪しています。
有名な肖像画や銅像も、いわゆる入道姿で描かれています。
他方で、宗麟がキリスト教と出会ったのは20代前半の時です。
つまり、段々と仏教に冷めてしまい、キリスト教に傾倒したという経緯があります。
宗麟の宗教への高い関心が、青年期までの辛い体験に影響されていると見るのは、決して不自然な推察ではありません。
家臣たちからの信頼
宗麟が家臣に恵まれたのは事実ですが、大友家の家臣団を見ると、見事に2つのタイプに分かれていました。
まずは宗麟を個人的に慕う、言い換えると、忠誠心の篤い家臣が一方にいます。
それに対して、宗麟の当主としての実績を評価していた、言い換えると、魅力がなくなれば忠誠心も途端に下がるような家臣が、もう一方にいました。
後に豊臣秀吉から激賞される立花宗茂(むねしげ)のように、前者の典型とも言える忠臣がいたのは事実です。
しかし、現実には、キリスト教改宗や対・島津の敗北を機に離反する、後者のタイプも多かったようです。
対・島津と対・毛利
宗麟の生涯には、栄光から没落へという表現がぴったり当てはまります。
確かな実績のもとに家臣団も団結していた前半生から、失敗が重なって求心力を失った後半生へという流れです。
前半生の主敵は毛利氏、後半生の主敵は島津氏と言えますが、両者では接し方が異なり、このあたりに栄光から没落への転落の原因がありそうです。
豊後府内の繁栄
現在の大分県は、佐賀県と並んで、九州の中ではあまり目立たない県です。
しかし、宗麟が統治していた頃の豊後府内は、博多に勝るとも劣らない国際都市でした。
大分県内の遺跡からは、戦国時代の陶器や古銭に加え、キリシタン関連の遺物も多数出土しています。
まさに、宗麟の深い教養とキリスト教への帰依により、豊後府内は日本有数の商業・文化・国際交流の拠点となったのです。
南蛮貿易
日本史に興味がなくても、戦国時代の宣教師フランシスコ・ザビエルはご存知でしょう。
わずか2年3ヶ月ほどの滞在期間中、豊後府内で宗麟にも謁見しており、いかに宗麟が一目置かれていたかがわかります。
宗麟の目は、明(中国)や朝鮮といった伝統的な貿易相手国だけでなく、カンボジアやポルトガル等にも向けられていました。
当時の別府湾には商船が絶えず行き交い、その中には巨大な南蛮船もあったということです。
毛利氏との共存戦略
宗麟に対しては、信仰心の篤い人徳者というイメージを勝手に作ってしまいがちです。
しかし、栄光に満ちた前半生は、冷徹な判断を下す戦国大名そのものでした。
関門海峡を挟んだ中国地方には、もともと大内氏という超名門大名が存在しました。
その当主に大内義隆(よしたか)という人がいましたが、実は宗麟の弟を養子にしていました。
その後、紆余曲折を経ながらも大内氏の新当主となり、大内義長(よしなが)を名乗ります。
ところが、毛利氏が台頭すると、義長は兄・宗麟に助けを求めます。
宗麟は弟・義長を助けたでしょうか?
下した決断は、大内氏を見捨てて毛利氏と盟約を結び、大内領は分割・併合するという冷酷なものでした。
後に、義長は毛利氏に強制される形で自害します。
政治とは時に非情なものであり、非情な決断が繁栄をもたらしたりします。
弟を見捨てた宗麟の決断はその典型であり、栄光に満ちた前半生の1つの頂点でした。
島津氏との対立と敗北
大友宗麟という戦国大名の評価を難しくしているのは、後半生の没落があるからです。
後半生の没落を決定的にしたのが、南方の脅威である島津氏への敗北です。
対・毛利では冷酷な決断を下し、大友領に繁栄を導いた宗麟が、どうして対・島津では判断を誤ったのかという点は、今も議論の的です。
大友氏と島津氏は長らく友好関係にあり、相互不可侵の状況にあったのが、日向国(ひゅうがのくに)に侵攻した島津氏に追い出された伊東義祐(よしすけ)という大名を宗麟がかくまった頃から、不穏な関係になります。
この義祐というのは少々困った大名だったので、対・毛利の頃の宗麟であれば見捨てたかもしれません。
ところが、宗麟はかくまい続け、1578年、日向の耳川近辺で島津氏と戦火を交えることになります。
結果は大敗で、複数の忠臣や多くの兵力を失うことになりました。
大友宗麟と宗教
対・毛利の頃には研ぎ澄まされていたはずの戦略眼が、対・島津の頃には衰えてしまったのは、なぜでしょうか。
学問的にはタブーかもしれませんが、宗麟のパーソナリティからの説明は避けられないでしょう。
宗教勢力との関係
当初は仏教を深く信仰した宗麟ですが、キリスト教に改宗してからは仏教寺院を破壊したりし、だいぶ家臣や領民の反感を買うようになります。
その絶頂に達したのが、先に紹介した耳川での合戦であり、日向に入った宗麟は、ぬかるんだ道を通りやすくするため、寺院の仏像や神社のご神体を並べさせ、その上を兵に渡らせたとのことです。
戦国時代はもちろんのこと、今の時代でさえ、決して気分のよい行いではありません。
それを見た大友軍の士気は下がり、敗戦の遠因になったと見る向きもあります。
敗戦との関係は何とも言えませんが、宗麟の人格が様変わりし、統率力が鈍っていたと推測することは、決して的外れではないでしょう。
そこに影響したのがキリスト教勢力だったとすれば、戦国時代の九州は、間違いなく世界史の一部であったと言えます。
大友氏のその後
島津氏に敗北した宗麟を見て、領内の有力豪族は次々に離反します。
最終的に、宗麟が守るのは豊後1国だけという悲惨な状況となり、風前の灯となった大友氏を救ったのが、豊臣秀吉でした。
宗麟本人が停戦の呼びかけをお願いしたのですが、宗麟は島津氏の降伏直前(1587年)に亡くなりました。
宗麟の子・義統(よしむね)や孫・義乗(よしのり)は、朝鮮出兵や関ヶ原の戦いにおける失敗を重ね、大友氏はいよいよ滅亡寸前という状況になりました。
しかし、名門だったことが幸いし、徳川幕府のもとで儀礼・式典を司る高家(こうけ)として存続することを許されました。
宗麟は、最後の最後で、世界を見渡すという持ち前の戦略眼を発揮したと言えるかもしれません。
大友宗麟って、どんな人?まとめ
大友宗麟は、間違いなく、最も人間臭い戦国大名です。
華々しい成功と痛い失敗を数多く経験し、家族の縁は薄く、その鬱憤を晴らすように宗教や文化活動に傾倒しました。
他方で、終生、有能な家臣たちに恵まれ、自身は戦国大名として生涯を閉じることができました。
宗麟の生涯を見渡すと、知識・経験を人格にうまく結び付けるという、今日のリーダーシップ論にも関わる問題が浮かび上がります。
宗麟は、頭はいいが周りを振り回すタイプだったと言えるでしょう。
心理学や経営学の観点から、宗麟の人生や領国経営に迫ってみるのも面白いかもしれませんね。
【参考文献・参考サイト】
玉永光洋・坂本嘉弘『大友宗麟の戦国都市 豊後府内』新泉社、2009年
鹿毛敏夫『大友義鎮』ミネルヴァ書房、2021年
加来耕三『立花宗茂 戦国「最強」の武将』中公新書ラクレ、2021年