近代国家という新しい日本の地図を描き出したニッポン。
武士の時代は西南戦争最大の激戦地・田原坂(たばるざか)の戦いで終えようとしていました。
田原坂の戦いは、本当に今もな、お語り継がれるほどの戦争だったのか?
一体どんな戦いだったのか?田原坂の戦いの過程をみながらどんな戦いだったのかを見ていきたいと思います!
西南戦争へ古い勢力地図代表・西郷隆盛立つ!!
「おいの体はさしあげもんそ(俺の体は差し上げましょう)」
西郷隆盛は西南戦争へ向かう気持ちをこう表現しました。
明治10年2月15日、60年ぶりに降った大雪の鹿児島を出発した西郷隆盛軍。目指すは東京政府軍の九州方面隊が置かれていた熊本。
総大将でありながら西郷隆盛自身は、本当に戦う気はありませんでした。
西郷隆盛・話し合いで解決を望んだが・・・
西郷隆盛が西南戦争を起こした目的は、東京政府と日本の国造りについて話し合うことだったからです。
日本最強の戦闘集団「薩摩隼人(さつまはやと)」で構成された西郷隆盛軍が戦う気を見せれば、東京政府軍も話し合うことを考えるはずだと思っていました。
今は日本国民同士で戦うときではないことは、東京政府も知っているからです。
さらに、西郷隆盛軍の幹部たちも、九州において戦闘はないと考えていました。
なぜなら、総大将は明治のヒーロー・西郷隆盛なのです。
ヒーローを歓迎する人はいても抵抗する人などいないと考えるほど、気楽な気持ちだったのです。
九州全土を無抵抗のうちに西郷隆盛軍が進むことがあれば、西郷隆盛の考えたとおりになったかもしれません。
しかし、東京政府軍九州方面隊である熊本鎮台(くまもとちんだい)司令官であった谷干城(たにたてき)は、そんな単純な男ではありませんでした。
「この戦いに負ければ、東京政府中心の国づくりが崩壊する」
谷干城にとっては絶対に負けられない戦い、西郷隆盛の話し合いで解決できるものではなかったのです。
新しい日本地図を作り上げる先駆けに!熊本鎮台善戦す!!
「鎮台はほんに、戦をする気か」
熊本城に立てこもった熊本鎮台軍からの射撃を受けた西郷隆盛軍は、こう言って驚いたといいます。
西郷隆盛軍は、一応熊本鎮台に対して戦う姿勢を見せましたが、おそらく戦わずに降伏すると思っていたからです。
東京政府軍が西郷隆盛軍と戦うつもりであることを、初めて知ったのはこのときでした。
熊本鎮台司令官・谷干城は土佐(今の高知県)出身です。
西郷隆盛たち薩摩隼人と幕末を一緒に戦ってきたのですから、その強さもよく知っていました。
最新式の軍隊・熊本鎮台軍といっても、正面からの戦いで勝てるわけはないことはわかります。
戦国武将・加藤清正が建てた鉄壁の城である熊本城に立てこもり、東京政府からの大規模な応援軍を待つ作戦を計画します。
西郷隆盛・敗北?
戦闘では負けを知らないほどの強さの西郷隆盛軍は、熊本城を三日で降伏させるとヤル気でした。
連日連夜、西郷隆盛軍は熊本城を攻撃しましたが、一週間経っても熊本鎮台軍を降伏させることはできませんでした。
「おいは官軍に負けたとじゃなか。清正公に負けたとでごわす。」
西郷隆盛に負けを認めさせた谷干城の熊本城立てこもり作戦。
西南戦争序盤の戦いは、田原坂の戦いを前に東京政府軍勝利に大きな影響をあたえることになります。
新しい勢力地図と古い勢力地図の激突!田原坂の戦い!!
西南戦争最大の激戦地である田原坂は熊本城の北側にあります。
福岡に入った東京政府軍は、熊本鎮台応援のため南へと進んでいることを西郷隆盛軍は知ります。
熊本への侵入経路のうち田原坂は、道幅は狭いですがなだらかな斜面になっていました。
最新式の大砲なども持ち込んでいた東京政府軍は、運搬のしやすさなどを考えると田原坂を通るはずと西郷隆盛軍は考えたのです。
西郷隆盛軍は、田原坂周辺に強力な防御陣地を配置して東京政府軍に備えました。
幕末最強の戦闘集団「薩摩隼人」は1日千回も木刀を振って訓練するという刀剣流派・示現流(じげんりゅう)によって鍛えられています。
示現流は刀で斬るというよりは刀で殴るといわれるほど激しい戦法なのです。
1対1の戦闘では、勝てるものはいないといわれたほど。
熊本鎮台応援に向かう東京政府軍は、西郷隆盛軍に対して最新式の武器で対抗しました。
射程距離の長い大砲や最新式機関銃ガトリング砲を持ってきていたのです。
各兵隊にも西郷隆盛軍の持つ銃より早く打てるスナイドル銃を装備させており、最強の武士VS最新の兵隊は、激しい防御陣地の取り合いとなりました。
今日は西郷隆盛軍の陣地は、次の日には東京政府軍の陣地になり、その翌日にはまた西郷隆盛軍のものになるほどの激しさだったのです。
「雨はふるふる人馬は濡れる、越すに越されぬ田原坂」
のちに田原坂の激戦はこのような歌にされました。
田原坂の戦いだけでも、西郷隆盛軍・東京政府軍の両方合わせて15,000人もの死者となったといいます。
3月のまだ冷たい雨の中、両軍の兵隊が激突した場面が伝わる悲しい歌ですね。
東京政府軍の決死部隊・警視庁抜刀隊登場!!
田原坂の戦いは、東京政府軍・西郷隆盛軍の激しい戦闘で、ひとつも進むことがありません。
最新兵器で西郷隆盛軍を圧倒した東京政府軍も、1対1の戦いとなると負けてしまうのです。
東京政府軍は、1対1でも西郷隆盛軍と同等に戦える部隊を作ることにします。
通称「抜刀隊」。
今の警視庁を創設した川路利良が部隊を作りました。
なぜ、抜刀隊が西郷隆盛軍と対等に戦うことができたのかには、秘密があります。
川路利良の出身は鹿児島。
ですから、抜刀隊のメンバーには同じく鹿児島出身の人を多く採用しました。
抜刀隊のメンバーも、西郷隆盛軍と同じく示現流を使うことができたのです。
そのかわり、同じ故郷の出身者どうし。
実際の田原坂の戦いでは、親や兄弟・親戚や友人が敵と味方に別れて戦うことになったといいます。
戦場で相手を斬ったときに、その相手は知っている顔という悲惨な話がたくさん生まれたそうです。
最新式の兵器と抜刀隊の活躍で約1ヶ月もの間続いた田原坂の戦いも、西郷隆盛軍が負けてしまいます。
熊本城のまわりの西郷隆盛軍も、撤退するしかありませんでした。
幕末最強といわれた西郷隆盛軍に勝った東京政府軍は、田原坂の戦いのあとからは有利に戦いをしていくことになります。
それでも、西郷隆盛軍はさらに半年もの間戦い続け、鹿児島で最期を迎えることになるのです。
西南戦争の田原坂の戦いとは?日本の勢力地図を変えた戦いだった!?まとめ
刀を持って相手を威圧しながら戦っていた武士の時代から、最新武器を使った集団戦闘を利用した戦い方で勝利した東京政府軍。
地方が活躍する時代は終わり、首都・東京を中心とした日本へと勢力地図は変わっていったのです。
時代の変化に残された武士たちを連れて、西郷隆盛は一緒に旅立っていきました。
西南戦争が終ってから140年あまりが経っていますが、今でも東京中心に日本は動いています。
地方の時代と言われる現代。
また、日本の勢力地図が変わろうとしているなら、西南戦争のような戦いにならないことを願うばかりです。