「山」について考えてみると、何だか不思議な気持ちになりますよね。
美しい反面、どこか不気味なような……
自然に富んだ美しい山。春は草木が芽吹き、夏は草木が生い茂る一面の緑。秋は紅葉で鮮やかに照り映え、冬は白と黒のコントラストが素晴らしいものです。
しかし、中に一歩入るとどうでしょうか。
昼でも光の射さない薄暗い場所があります。夜になると、あちらこちらからよく分からない音が聞こえます。ときには、誰もいないはずの後ろの方から、声のようなものが聞こえたりして。
山の中に入らずとも、夜遅くに山の際をドライブしていれば、木々が覆いかぶさってくるような、少し恐ろしい気分になってしまいます。
こんなことを考えていると、私達人間にとって「山」とはどんなものなのかを知りたくなります。
そこで今回の記事では、人と山の関わりや、それを表す神話や伝説について語っていきたいと思います。
人にとっての山とは?
いつからかそこにあって、いつまでもそこにある山。
山は瑞々しい緑を持ち、食べ物をもたらしてくれる生命の源でした。また、それと同時に恐ろしい獣や遭難の危機が付きまとう、恐ろしい場所でもあります。
人々はそんな山に、一種の宗教的な観念を抱いてきました。
と言っても、「宗教」という言葉から想像される確固とした神の姿ではありません。もっと身近で生活に密着した、もっとも基本的で原始的な宗教観です。
この章では、人が山に感じる宗教観をご紹介していきます。
山そのものが信仰の対象
ものすごく原始的な宗教の形に、「アニミズム」というものがあります。
あまり耳慣れない言葉だとは思いますが、わかりやすく言うならば「自然信仰」になります。この世のあらゆるものに精霊が宿っている、という考え方です。
小さい頃、「お米の一粒一粒に神様が宿っている」、と諭されたことはありませんか(筆者は嫌というほどあります) ? これは、気付きにくいながらもアニミズムの現れです。
具体的な神様名を言わない所がミソで、神様を敬うというよりも、お米そのものを大切にしているのが特徴なのです。
「神様が宿っているのだから、粗末にしてはいけない」
わかりやすく教え諭してくれる、日本人の精神を感じさせてくれますね。
あらゆるものに精霊が宿っているのですから、山も論外ではありません。やがてそれは、アニミズム的な「山岳信仰」に繋がっていきます。
つまり、山そのものが信仰の対象であり、ご神体ということです。
代表的でわかりやすいものは、奈良県の大神(オオミワ)神社でしょう。大物主神(オオモノヌシ:オオクニヌシノミコトの別名。七福神の大黒様と同一視されています)が祭神ではありますが、ご神体は三輪山そのものです。
大神神社の特徴は、神社につきものの本殿が無いことでしょう。
本殿には通常、ご神体が祭られています。しかし、大神神社のご神体は三輪山そのもの。本殿を設けずとも、拝殿を通して、直接祈ることができるのです。
山そのものを信仰の対象とする、という点では、富士山信仰も同じです。また、日本に限らずヒマラヤ山脈のエベレストや、チベットのカイラス山などもアニミズム的な山岳信仰の対象となっています。
こうした山々は決まって雄大で、恐ろしいながら美しいものです。そういった面が人に畏敬の念を抱かせているということがわかります。
異界との境
山に入るのは危険がつきもの。
現代ですら山は危険と隣り合わせで、得体の知れない部分を感じますよね。
特に深い山であればある程、行って戻ってくるためには、その山に精通している必要があります。もしかすると、精通しているだけでは足りないのかもしれません。特に外部との連絡手段が無かった昔は、遭難者も多かったように思えます
山の奥深くに入りすぎると、二度と戻ってこられなくなる。
そういった意識が根底にあるのでしょう。山は長らく、現世と異界との境のように考えられてきました。
ここで言う異界とは、昨今流行りの「異世界」ではありません。ヒトならざるものが住む世界、もしくは、神やそれに類するものが住まう世界です。また、黄泉の国とも考えられます。
黄泉の国とは、つまり「あの世」を指しています。山の近くで生活する人にとって、山は祖先の魂が帰って行く場所でもありました。
これがいわゆる祖霊信仰であり、先祖を守り神として祭る、今の私達にもなじみ深い文化の一つなのです。
青山の「恐山」
青森の恐山、有名ですよね。一時期テレビで放送されていた恐怖番組などで、恐山のイタコを見たことがある人も多いかもしれません。
恐山は、日本でも屈指の霊場です。恐山を訪れると、最初に三途の川を通り、地獄の風景を訪ねて歩くことができます。
三途の川と聞いただけで、この恐山が死後の世界を模している(?)ことがわかりますよね。その上、恐山の別名は「あの世への入り口」です。
こう聞くと、恐山がその名の通り、恐ろしいだけの場所のように感じてしまうかもしれません。しかし恐山とは元来、祖先の魂が集合する場所として、信仰を集めてきた場所でした。
「イタコ」という、亡くなった人の声を伝える巫女が生まれたのも、祖先を大事に思う故なのかもしれません。
何にせよ、恐山には薬効確かな温泉があります。活火山であるため、硫黄の臭いがキツイようですが、それだけ大地の生命力を感じることができるでしょう。
現世とあの世(異界)が同居する恐山。
一度訪れることで、死後の世界を垣間見ることができるかもしれません。
山にまつわる神話や伝説
先にご紹介した通り、山と人の関わりは密接です。
その為、山に関わる神話や伝説が数多く生まれました。人は少しでも、山が持つ力や不可思議、そして恐ろしさを、わかりやすい形で残しておきたかったのかもしれません。
物語として語り継げば、不思議や恐怖心に形が生まれ、対処しやすくなりますからね。
そこでここでは、山にまつわる神話や伝説をご紹介します。
もし皆さんが山に登ることがあれば、こういった話を知っておいた方が良いかもしれません。幸せを招き、不幸を遠ざけることができるかもしれませんから……
マヨイガ(迷い家)
マヨイガとは主に東北に伝わる伝承の一つです。山中に現れる家で、訪れた者に富をもたらすと言われています。
柳田国男(有名な民俗学者)の「遠野物語」の中に記載されており、日本中で知られるようになりました。もしかすると、もうご存知の人もいるかもしれませんね。
伝承の大筋を説明しましょう。
『ある人が山奥で、立派な門構えの家を見つけます。不思議に思い家の中へ入って行くと、花が咲き乱れ、大量の家畜が飼われていました。座敷の火鉢の上ではお湯が沸かされ、誰かがそこに居た雰囲気が漂っています。
しかし、誰もいません。
泥棒や山男の家に迷い込んでいたならば大変だと、その人は逃げ出しました。
村に帰って他の人に話をすると、「それはマヨイガというもので、何か持って帰って来れば金持ちになれたのに」と笑われてしまいました』
マヨイガに入り込んだ人は、何かを持ち帰って良いとされています。持ち帰った物は幸せをもたらすものとなります。
花が咲き乱れる様や、お湯が湧きたつ様子。また、家の中の物が幸せや富をもたらす、といった逸話。
こうしたことをふまえると、マヨイガは山の中の幸せな「異界」、つまり天国を象徴しているのかもしれません。
マヨイガの伝承は、「遠野物語」で語られているものだけでなく、様々なバージョンがあります。大筋はあまり変わりませんが、細かい描写が違います。それぞれ読み比べてみると楽しいですよ。
ヨモツヒラサカ(黄泉平坂)
マヨイガが明るい天国を象徴しているとすれば、ここでご紹介する「ヨモツヒラサカ」は、暗い地底の国を象徴する神話と言えるでしょう。
「ヨモツヒラサカ」というのは、黄泉の国、つまり死者達が暮らす国から現世へと通じる坂道の名前です。
また、日本神話を代表するエピソードを指す言葉でもあります。このエピソードは後にご紹介しますので、是非読んでみて下さいね。
実のところ、ヨモツヒラサカは実在し、訪れることができます。島根県の山の中にひっそりと位置し、大きな岩が並んでいます。なんとも不思議な、少し怖いような雰囲気で、古代の息吹を身近に感じることができます。
私達は普段、死後の世界と言えば、天国(極楽)か地獄を想像してしまいます。しかし、黄泉の国は天国でも、地獄でもありません。罰も何も受けず、ただ静かに死者達が暮らす世界なのです。
それだけに、黄泉の国についての話は、私達日本人の根本的な部分に語り掛けて来るように思えます。
それは、人が本来持つ、山への畏怖心がわかりやすく現れているからなのでしょう。
神話・ヨモツヒラサカのエピソード
神代の昔。
男神であるイザナギと女神であるイザナミは夫婦として、日本の国土と神々を生み出していきました。しかし、イザナギは火の神を生み火傷を負ったことで、とうとう亡くなってしまいます。
イザナギはイザナミを比婆山に葬ったものの、悲しみは癒えません。そこで、亡き妻を迎えに、地底にある黄泉の国へと向かいました。
イザナギは、イザナミと再び出会うことができました。しかし、イザナミは黄泉の食べ物を口にした後。現世へ帰るには、黄泉の神との交渉が必要でした。
「黄泉の神と話してくるので、その間、私の姿を見ないでください」
そうイザナミはイザナギに言い残し、どこかへ去っていきました。待てど暮らせど、イザナミは戻ってきません。イザナギは思わず、イザナミとの約束を破ってしまいました。
そこでイザナギが見たものは、蛆が湧いている妻の死体でした。恐ろしさに逃げ出すイザナギですが、イザナミが使いにした化け物が追いかけてきます。イザナミは約束を破られたことに怒り心頭だったのです。
全ての化け物を退けたイザナギを、とうとうイザナミ本人が追いかけ始めました。イザナギは一気にヨモツヒラサカを登り切り、その出口を大きな岩で塞いでしまいます。
「こんな仕打ちをするのなら、私はあなたの国(現世のこと)の人間を、一日に千人殺しましょう」
とイザナミは呪います。
「それならば私は、1500人の子供を産ませてみせよう」
と、イザナギが応じました。
こうして、人間は日々数を増やすことになったのです。
神隠し
人が突如としていなくなる。
そんなことが、昔の日本では多くありました。こうした事態を人は「神隠し」と呼びます。現代でも、人が突如としていなくなる事件を「神隠し事件」と呼んだりしますよね。
この神隠し。山や鬱蒼とした森の中などで起こる場合が多いのです。また、その被害者は女性や子供が多いとされています。
山や森というのは、先に書いた通り信仰の対象にされやすいものです。奥に何が有るか分かりませんし、聖なるものやその反対のものがいたとしても、不思議ではない雰囲気があるからです。
山や森には、神聖な場所もしくは、災厄が降りかかる場所としての「禁足地」が設けられていることがあります。神隠しで有名な禁足地としては、千葉県にある「八幡の藪知らず」ですね。聞いたことがある人も、多いのではないでしょうか。
禁足地が神聖であっても、災厄の地であっても、現世(人間の住む世界と仮定して)ではなく、異界である事に変わりはありません。
神隠しでは、余りにも唐突に人が消え失せ、その痕跡も残しません。そのため、山や森に住む神や化け物の仕業として理解したのでしょう。また、その場所に禁足地があれば、説得力がありますよね。
「入ってはならない場所に入ったから、神隠しに合ったのだ」と……
「遠野物語」で語られる神隠し
普通、神隠しに合った人物とは二度と会えない。そう思ってしまいますよね。
しかし、遠野物語に収録された神隠し譚の中には、神隠しに合った人と再会できたり、村に帰ってきたり、といった話を読むことができます。
そのお話をかいつまんで、ご紹介しましょう。
『ある村の若い女性が、栗を拾いに山奥に出かけました。しかし、その人は帰って来ず、家族は死んだものだと思い、葬式を挙げました。
それから2.3年後、同じ村出身の猟師の男性が、山奥でその女性と出会いました。女性は猟師にこう語ります。
「山の中で、恐ろしい人に攫われ妻として生活していました。子供を何人も産みましたが、自分に似ていないと思えば、食べたり殺したりしてしまいます。逃げたいと思いつつも、少しの隙も無く、逃げ出せないのです」
女性は、いつ夫が帰ってくるか分からない、と言います。猟師はすっかり恐ろしくなり、その場を後にしたのでした』
一般的に想像する神隠しとは違い、何だか、現実的な迫る怖さがあります。また、何故女性が神隠しに合いやすいのか、その答えが表れているような気がしますね。
山にまつわる伝説や神話を知ろう~人と山はどんな関係?~・まとめ
いかがでしたでしょうか?
今回ご紹介した以外にも、山にまつわる神話や伝説は数多くあります。その中には、クスっと笑えるような話もありながら、ほとんどは少し不気味で、読んでいると背後が気になってしまいます。
しかし、そのどれもが面白く、古い伝説の世界に飛び込んでしまうような魅力を持っています。これは、山そのものも同じですよね。
私達が住んでいる街とは全く違う空気。長い年月を生きている土や木。いつからあるのか分からない大きな岩。もしかすると、その陰には全くの別世界が隠れているのかもしれません。
山とは人にとって、怖いのにどうしても惹きつけられる存在なのです。
いつか、山深くに訪れることがあれば、今回ご紹介したお話を思い出してみて下さい。もしかすると、マヨイガに出会うかもしれませんよ。