なぜ源頼朝ほどの人物の最期が謎に包まれているのでしょうか?
鎌倉時代には吾妻鏡(あずまかがみ)という有名な歴史書があります。
吾妻鏡は初代将軍頼朝から六代将軍宗尊(むねたか)親王までの期間の歴史を記したものです。
つまりこの書を読めば、頼朝の最期を確認できるはずなのです。
吾妻鏡~欠落した頼朝晩年の記録
それでは、頼朝が亡くなった建久10(1199)年の記事を確認してみましょう。
しかし、どれだけ探しても建久10年の記事がありません!
それどころか、建久7年1月から建久10年1月にかけての記事が全て欠落してしまっているのです!
吾妻鏡が頼朝の死去を記すのは、頼朝死去からなんと13年も経過した建暦二年(1212)2月28日後。
「建久9年、稲毛重成(いなげしげなり)が相模川に新しく橋を造り、この橋の落成記念の橋供養に将軍頼朝も出席されましたしかし、この帰り道で落馬してそこから程なくして亡くなられました」
この記事でも断片的に触れているのみで、詳細な死亡記事はありません。
死因についても落馬が直接の原因だったのか、別の理由で落馬して亡くなってしまったのかも分かりません…。
つまり、吾妻鏡に頼朝の死亡記事が残されていないために、頼朝の最期は謎に包まれてしまったのです!
吾妻鏡の頼朝晩年期はなぜ残されていないのか
頼朝死去という重大な出来事が欠落した吾妻鏡。何か裏がありそうですね!これにはいくつかの説がささやかれています。
その説というのがこの4つです。
- 執権、北条氏に都合が悪いため残されなかった
- 初めから頼朝の死に関する記述は存在しない
- 最初は存在したが、失われてしまった
- 徳川家康が吾妻鏡を破り捨てた!?
執権、北条氏に都合が悪いため残されなかった
この説は御存じの方も多いのではないでしょうか。
頼朝の死に北条氏が暗躍しており、都合の悪い記事を抹消したという説です。
この説を記すのが、江戸時代中期に書かれた老談一言記。
「頼朝は二位の尼の為に弑され」
とあります。
頼朝は北条政子によって殺されたとしているのです!
また、同じく江戸時代中期の元禄八(1695)年に書かれた、東鑑集要(あずまかがみしゅうよう)には吾妻鏡欠落の理由を
「頼朝の薨御を隠すと見えたり」
とあります。
つまり、頼朝の死を何者かが隠したのではないかと記しています。
この様に江戸時代中期には北条氏暗殺説や、吾妻鏡の記述を意図的に削除したのではないかという説が存在していたのです!
歴史の闇を感じるちょっと怖い説ですね!
初めから頼朝の死に関する記述は存在しない
実は吾妻鏡は未完成ではないかという説があります。
吾妻鏡は将軍ごとに記録を纏めて作られた、将軍記という形で作られています。
そして欠落した晩年の期間は、頼朝将軍記としては最後に纏められる箇所になります。
そのため、編纂作業が忙しいなどの理由で未完になってしまったのではないかと考えられています。
また、頼朝死去をはじめ欠落時期には京都、鎌倉で大きな事件が多く発生しました。
建久7年11月、京都ではかつて頼朝と協力関係にあった関白、九条兼実(くじょうかねざね)が失脚。
建久8年7月14日には頼朝の娘で後鳥羽天皇への入内を期待されていた大姫が亡くなっています。
これらの事件の末に、遂に吾妻鏡は完成しなかったのではないかと筆者は考えています。
いずれにしても、吾妻鏡未完説は有力な説の1つとして考えられています!
頼朝の死に関する記事が失われてしまった
「最初は存在したが、頼朝の死に関する記事は失われてしまった」という説も有力な説になります!
吾妻鏡は1300年頃に成立したとされています。
そして応永11(1404)年に書写された吾妻鏡目録には全52巻が記されていました。
しかし、この目録にはない1巻3年分(嘉禄元年―安貞元年)が現存しています。つまり、約100年の間に吾妻鏡全体を把握できなくなってしまったのです。
この事から、頼朝晩年の記事が戦火などで失われてしまった可能性は十分考えられます。
徳川家康が吾妻鏡を破り捨てた!?
江戸幕府を開いた徳川家康。
家康は頼朝をとても尊敬していたそうで、吾妻鏡も愛読していたと伝えられています。
そんな家康ですが、吾妻鏡の頼朝死去の記事を破り捨てたという話が伝わっているのです!
その話を伝えるのが、先程紹介した老談一言記。
「家康公が、吾妻鏡の頼朝死去の部分は、名将の傷になることを後世に伝えないようにと仰せになり、破り捨てられた。」
この話が真実ならば頼朝ではなく、家康の名前に傷がつくことでしょう!
冗談はさておき、この話は江戸時代後期の書物、御本日記読録に反論の記載があります。
「応永写本にも頼朝卒去の一条なければ俗説信ずるに足らず」
応永写本とは吾妻鏡写本の内の1つでしょう。
吾妻鏡には何種類もの写本があり、家康が所持したものは北条本だといわれています。
家康が所持していない応永写本にも頼朝死去の記事はないので、俗説で信用できないと一刀両断していますね。
都市伝説的なこの逸話、真偽はともかく、時代の異なる偉人が結び付く面白い話だと思いませんか?
都にもたらされた頼朝の死
鎌倉幕府の代表史料、吾妻鏡では頼朝死去の手がかりはつかめませんでした。しかし、鎌倉から遠く離れた都では、頼朝の死について記録が残されています。
京都側に残る頼朝最期の記録
最初に公卿補任(くぎょうぶにん)という史料を見てみましょう。
公卿補任は、公卿(三位以上または参議以上の人物)と呼ばれる朝廷高官の名簿帳です。
建久10年の項目に頼朝死去の記述があります。
「1月11日病に依り出家。同13日相模国鎌倉館に薨ず。」
1月11日に病気のため出家した事、13日に鎌倉の館で亡くなった事が分かります。
吾妻鏡よりも詳しく死去の様子が記されていますね。また、病死の様なニュアンスで記録されている事も注目です!
あの百人一首撰者が記した頼朝の最期
マンガの題材にもなっている小倉百人一首。
百人一首撰者の藤原定家(ふじわらのさだいえ)は実は、頼朝と同じ時代を生きた人物なんです!
定家は明月記(めいげつき)という日記を残しています。
この明月記、正治元(1199)年1月18日条に出家の様子が記されています。
「前右大将、所労獲麟(しょろうかくりん)に依り、去る11日出家の由、(中略)朝家の大事、何事か之に過ぎんや。」
とあります。
つまり、定家は、前右大将(頼朝)が、病気で死の間際であるので、11日に出家しました。これ以上の国家の重大な事態はないでしょうということを書いているのです。
定家も、出家は病気が原因だと認識しているようですね。
また、頼朝の死で国が乱れる事を心配していることから、当時の頼朝の影響力の高さも伺えますよね!
そして、正治元年1月20日に頼朝死去の記載があります。
「13日に入滅す(大略頓病か)」
13日に亡くなり、おそらく急病だろうとしています。
急病というのが気になりますね…。
ともかく、11日に病のため出家、13日に亡くなったのは公卿補任と共通しています!
公家の頂点、関白の日記にみる頼朝の死因
公卿補任、明月記から頼朝が病気であったことは分かりました。しかし、どのような病気だったのか気になりませんか?
後に関白にまで昇進した、近衛家実(このえいえざね)の日記にそのヒントが記されています。
猪熊関白記(いのくまかんぱくき)正治元年1月18日条にその記載があります。
「前右大将頼朝卿飲水の重病に依り、去る11日出家の由」
飲水の重病とは字の如く、大量に水を飲んでしまう病気です。現代の糖尿病ではないかと言われています。
糖尿病が頼朝の死因なのでしょうか?
しかし、命に関わるほど糖尿病が進行していたら、相模川の橋供養には出席できないと考えられます。
糖尿病や合併症が原因で落馬して亡くなってしまったのでしょうか?
それとも落馬して病を発病してしまったのでしょうか?
真相は分かりません。
しかし、飲水の重病というキーワードが頼朝の死因考察の上で重要な役割を果たしているのは間違いないでしょう!
史料に残された珍説!
都では頼朝の死因は病死と捉えられていた事が分かりましたね。
しかし、史料によっては目を疑う様な説を記すものがあります。
頼朝は水神に取り憑かれた!?
承久の乱ついて記した軍記物語、承久記。
この書に頼朝の死について驚くべき記述があります。
「相模川に橋供養の有し時、(中略)水神に領せられて、病患頻りに催して」
相模川の橋供養の時、水神に取り憑かれ、病を発病したとあります。
この物語が成立したのは1240年頃と推定され、頼朝の死から約40年経過しています。
筆者の推論ですが、既にこの時代には、頼朝の死が不審であった事を示しているのではないかと考えます。
また、先ほどの飲水の病といい、頼朝の死に水が関連した話が多いのは偶然でしょうか?
源義経、平家の亡霊に遭遇!?
14世紀半ばに成立した歴史書、保暦間記(ほうりゃくかんき)。
この書にも頼朝の死について驚きの記述があります。
「大将殿、相模河の橋供養に出で、還らせ玉いけるに、八的ヶ原と云処にて亡ぼされし源氏義廣、義経、行家、已下の人々現て頼朝に目を見合せけり」
頼朝が相模川の橋供養に出席した帰り、八的ヶ原(やつまとがはら)という場所で頼朝に滅ぼされた源義廣、義経、行家らが現れた、という内容です。
源義廣、行家は頼朝の叔父、義経は言わずと知れた弟になります。
頼朝に滅ぼされた恨みをはらしに現れたのでしょうか。
保暦間記の記述はこれだけに終わりません。
「稲村ヶ崎にて海上に十歳計なる童子の現れ玉いて、(中略)西海に沈し安徳天皇也、とて失給ぬ」
稲村ヶ崎の海上に十歳位の子供が現れ、西の海に沈んだ安徳天皇であると言い、消えた、とあります。
安徳天皇は平清盛の孫にあたり、壇ノ浦の戦いで入水自殺した悲劇の天皇です。
同日に、源氏一門と安徳天皇の亡霊を目撃してしまった頼朝。
その後、鎌倉に帰還したものの、すぐに病に倒れてしまったと保暦間記は記しています。
呪い、怨霊が信じられていた中世。
これらの話も頼朝死因の有力な説の1つとして、信じられていたかもしれませんね。
源頼朝の謎に包まれた最後!なぜ彼の最後に関して不明な理由とは?まとめ
謎に包まれた源頼朝の死。
その大きな原因は吾妻鏡の欠落にありました。
吾妻鏡の欠落を関連付けて、暗殺説、病死説、呪い説など様々な説がささやかれています。
読者の皆様はどうお考えでしょうか?
もしかしたら、欠落した吾妻鏡が発見され、真相が明らかになる日が来るかもしれませんね。
【参考文献】
「国史大系 吾妻鏡」著:黒板勝美 吉川弘文館
「現代語訳吾妻鏡6」編:五味文彦・本郷和人 吉川弘文館
「遺老物語 老談一言記」著:日下部景衡
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta
「東鑑集要」著:大坪無射
https://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/200010083/viewer
「御本日記続録」著:近藤守重
https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/i01/i01_00209/
「国史大系 公卿補任」編:経済雑誌社
「明月記」著:藤原定家 国書刊行会
「大日本古記録 猪熊関白記」
著:近衛家実 東京大学史料編纂所
「承久記」著:矢野太郎 国史研究会
「保暦間記」
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「ジャパンナレッジ 吾妻鏡」
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