1582年(天正10年)6月2日に起こった戦国時代最大のミステリーと言われている本能寺の変。
なぜ明智光秀が織田信長を暗殺したのか?その動機は?
はたまた光秀は単独犯なのかそれとも黒幕がいたのか?
様々な諸説がありますが、定説から沈設?まで色々な角度から本能寺の変の真相に迫っていきたいと思います。
本能寺の変の流れ

本能寺の変直前までの織田信長、明智光秀の行動はどうだったのか?
そしてその他の武将はどこでなにをしていたのか?
ここではその状況がどうだったのか見てみたいと思います。
織田信長の行動
織田信長は天正10年3月に武田氏を滅亡させています。
そして武田氏を討伐した労をねぎらうため徳川家康を安土城に招きました。
その招きにより5月15日、家康は重臣と共に信長のいる安土城に参上しました。
このとき接待役という重大な役を任されたのが明智光秀でした。
一方、備中高松城を包囲していた羽柴秀吉は毛利軍が高松城の救援に来たとのことで信長に応援の要請をしていました。
その秀吉の要請を受け信長は自ら出陣するとともに光秀を派遣することに決めました。
信長は29日早朝、安土から京へ出発しましたが同行者は小姓衆わずか2~30人でした。
そして同日、京都での定宿であった本能寺に入りました。
6月1日 公卿・僧侶ら40名を招き、本能寺で茶会を開きます。
京都での宿泊は4日ほどの予定で秀吉の救援に向かう予定でした。
明智光秀の行動

犯行の当事者である光秀の当日までの行動はどうだったのでしょうか?
光秀は5月15日、家康が安土入りすると信長より命ぜられた家康の接待役の任に当たっていました。
しかし秀吉より信長に毛利攻めの救援要請があり光秀は家康の接待の任務を解かれ秀吉の救援の先鋒役を命ぜられます。
命を受けた光秀は、ただちに準備のため居城の坂本城へ帰還。
そして光秀は丹波にいる家臣に出陣の指令を出す等遠征の準備を整え26日に坂本城を出発し亀山へ。
翌27日亀山城を出て愛宕山(あたごやま)に上ります。
28日には連歌会を催し、その日のうちに亀山城に戻りました。
準備を整えた光秀は6月1日夕刻、亀山城を出発し京都へ出発しています。
そして6月2日、本能寺の変が勃発します。
その他の武将の状況
その他の信長配下の重臣らは、本能寺の変が勃発した時点ではどこで何をしていたのでしょうか?
北陸方面では、上杉軍と対峙している織田軍、その中には、柴田勝家を筆頭とした、佐々成政、前田利家、佐久間盛政がいました。
織田軍は加賀、能登、越中の一向一揆平定に出陣しており、6月3日に越中・魚津城を落としています。
関東では、諸大名に対する最前線として滝川一益が上野・厩橋(うまやばし)を中心に統治を行っていました。
そして京都から近い地域では、5月29日の時点で、摂津・住吉およびその周辺で織田信孝(信長の三男)が重臣の丹羽長秀に補佐されながら、蜂谷頼隆、津田信澄らと四国の長宗我部氏と戦うために渡海しようと待機していました。
羽柴秀吉は備中高松城を水攻めにしており信長に救援の要請をし、一方毛利氏とは和睦交渉を進めていました。
つまり織田軍を率いる重臣たちは全国に散っており、信長の近くにいる有力武将は、中国に出陣する前の明智光秀だけだったのです。
なお安土を訪れていた徳川家康は、本能寺の変が起きた際には、少数の家臣を連れて堺見物をしているところでした。
信長もまた、さほど多くない近習や馬廻衆(うままわりしゅう)らとともに上洛して、本能寺で茶会を開き、準備が整い次第、中国に向かう手はずだったのです。
信長を討とうとする光秀にすれば、またとない絶好の条件がそろっていたといえるでしょう。
明智光秀の動機は何だったのか?
光秀が謀反を起こしてまで信長を暗殺したのはどういう理由だったのでしょうか?
ここでは大きく分けて3つの動機、怨恨説・野望説・不安説について調べていきたいと思います。
光秀の怨恨説
光秀が信長を恨んでいたとする怨恨説。
信長の機嫌を損ねた光秀がぶたれたり、足蹴(あしげ)にされる場面をドラマや映画等で観たことがある人も多いでしょう。
あるいは光秀が自分の母親を人質にして敵を降伏させたところ、信長が約束を破って敵将を殺したため、母親も敵方に殺されてしまった話も有名ですよね。
安土城を訪れた徳川家康の接待で大失態を犯し、信長が激昂したという話もあります。
こうした信長の仕打ちを恨んだ光秀が謀叛を起こしたのではないか?と考えられます。
しかし、実は信長のひどい仕打ちが記されているのは、ほとんどすべて後世の編纂(へんさん)物で、光秀が生きた当時の同時代史料からは確認できません。
江戸時代の読み物や芝居が、読者や客の関心を引き、共感を呼ぶために脚色した俗説が広まり、ドラマなどで今なお描かれています。
1つのストーリーが受け入れられるとあたかもそれが事実のようになり疑うことなく事実と信じてしまうのは現在でも同じではないでしょうか?
そして光秀は本能寺の変の半年前の茶会の席で、信長自筆の書を掲げています。
その姿勢を見ても、直前まで関係は良好だったと考えるべきでしょう。
野望説・光秀は天下を狙っていた?
怨恨説に対して、光秀は長年にわたって信長に何らかの逆心を持っており、自らが天下人になるという野望があったとする野望説。
戦国時代に生きる武将ならば1度は天下を夢見ることがあったとしてもおかしくありません。
そしてこの野望説が数多くの黒幕説へとつながっていきます。
しかし一方で、天下を狙ったにしては、本能寺の変後の光秀の行動があまりに無計画に過ぎるのではないかという疑問がでてきます。
不安説
光秀は天正元年(1573)に近江国志賀郡を信長から与えられました。天正7年には丹波平定を成し遂げ、そのまま丹波一国を拝領しています。
近江も丹波も京に近く重要な地域であり、光秀は順調に出世を遂げていたのです。
しかし信長は中国方面の進出にて光秀の領地、近江・丹波を召し上げられ代わりに石見・出雲が与えられるという予定だったといいます。
光秀が与えられる石見・出雲は京都から遠隔地にあり、未だに毛利氏の勢力下にありました。
つまり半ば実力で支配せよということです。
その難しさは容易に想像され、とても円滑に支配できる状況ではなかったでしょう。
このように酷い仕打ちを信長から受けた光秀は左遷されたと思い込み、将来に不安を感じたとする説もぬぐいきれません。
しかしどれも決定づける証拠がないのです。
黒幕説・本当に黒幕はいたのか?
光秀が信長を討ったのは事実として、それは本当に単独犯だったのか?
それともそのバックに糸を引いていた人物がいたのでしょうか?
羽柴秀吉

本能寺の変によって一番得をしたのは誰なのか?となれば、明智光秀を討ってその後天下人となった秀吉になるではないでしょうか。
光秀は信長と四国の長宗我部元親との間を取り持ち、仲介役となっていました。
しかし、信長が元親を見限ると、秀吉は元親の仇敵である三好康長(みよしやすなが)の四国復帰を支援し、信長の了承を取り付けて光秀を窮地に陥れました。
また、本能寺の変が起きると、すぐさま秀吉は戦っていた毛利氏と講和を結び、退陣ししています。
そして光秀を討つべく現在の岡山市から京都までの約200kmを僅か10日で走破する「中国大返し」をやってのけます。
その手回しのよさから、秀吉は光秀が謀叛を起こすよう仕向けていたのではないかとの疑惑が浮かんできます。
本能寺の変後、あまりにも段取りがよく和睦し、すぐさま退陣の運びは事前に知っていなくては出来ないように思えます。
徳川家康

信長の同盟者の家康は、かつて正室と長男が武田氏に内通している疑いを信長にかけられ、2人を死なせています。
信長への憎しみはあったでしょう。
しかしそれ以上に家康を不安にしたのは、武田の滅亡で、東の防波堤役を務めてきた徳川の存在価値が失われたことでした。
信長は本能寺に家康を呼び出しており、信長が後々のことを考えいずれ邪魔になる家康を殺すつもりだったのではないかとも思われます。
そして家康はそれを感じ、その危険な状況を打開するために、何らかの方法で光秀に謀叛を起こさせたのではないかとも言われています。
本能寺に向かう光秀の手勢には「敵は家康」と思い込んでいる者もいたほどでした。
信長は自分にとって価値がないと見れば手のひらを返すのは、長宗我部氏の例からも明らかです。
足利義明
室町幕府15代将軍の義昭は、信長と対立して諸国の大名に打倒信長を呼びかけ、自らも挙兵したため、元亀4年(1573)に信長によって京都から追放され流浪の挙句、天正4年(1576)に毛利氏の庇護下に下ります。
しかし義昭は室町幕府の再興を悲願しており、光秀がそれを実現しようとしていたのではないか?という説もあります。
光秀が山崎の戦いに臨む前日に書いた手紙の原本が見つかり、光秀が「義昭を京都に迎えたい」と書いていることから、その意図は室町幕府再興にあったとする見解が示されています。
朝廷

当時、朝廷と信長の間には、さまざまな軋轢(あつれき)があったとされます。
信長は正親町(おおぎまち)天皇に譲位を迫り、暦(こよみ)を訂正するよう求めるなど、朝廷に圧力をかけていました。
また本能寺の変後、関白や太政大臣を歴任した近衛前久(このえさきひさ)が事件関与を疑われて逃亡、光秀と朝廷の取次役であった吉田兼見(よしだかねみ)は本能寺の変前後の日記を改ざんし、光秀との関係を隠そうとしました。
こうした公家たちの不審な動きが、朝廷が光秀の黒幕であったことを示している、というものです。
四国政策
信長は四国の長宗我部元親と長い間、同盟を結んでいました。
その仲介役を担当していたのが光秀でした。
信長は元親に対し「四国は切り取り次第である」と約束しました。それは、信長より四国統一を認められた事になります。
そして元親は四国統一を目指して阿波国の三好康長と戦っていました。しかし康長が信長の配下に収まると信長は一転、四国政策の変更を行います。
それにより光秀の立場が悪くなります。
信長と元親の間に挟まれ苦悩に陥ったことでしょう。
その他の説
イエズス会により「天下布武」を吹き込まれた信長が神格化し、イエズス会の意向に添わなくなったため光秀に信長を討たせたイエズス会黒幕説。
長年対立していた本願寺顕如による策謀の本願寺黒幕説。
秀吉、家康、光秀の共謀により信長を葬ったとされる説等々。また複数の組み合わせにより起こったとされる説等。
面白いものには実は光秀は信長を助けようと本能寺に駆け付けたところ既に本能寺は炎上しており、信長殺しの犯人に仕立て上げられたとの説もあります。
【黒幕説】本能寺の変・黒幕は本当にいたのか?徹底考察!まとめ
様々な説があり、今後も新たな説が出てくるかもわかりませんが実際のところ証拠がないため結論付けることはできないでしょう。
しかし歴史は勝者の側にあり本能寺の変後の勝者である秀吉、またはその後幕府を開いた家康が大きな影響を与えたと考えられることは大いにあります。
「死人に口なし」でありその後の勝者により事実を封印し歴史を作っていったと考えるのが自然なのではないでしょうか。
【参考文献・参考サイト】
『検証 本能寺の変』 著:谷口克広 吉川弘文館
『本能寺の変 操作報告書』 著:小林久三 PHP
『本能寺の変に謎はあるのか?』 著:渡邊大門 晶文社社
『本能寺の変 431年目の真実』 著:明智憲三郎 文芸社文庫
本能寺の変はなぜ起きた?徹底解説!明智光秀が織田信長を討った理由とは
https://intojapanwaraku.com/culture/4562/