ルール無用の戦国時代にあって、自分の信じる「正義」にのみ従った武将がいました。上杉謙信です。
人々は上杉謙信のことを「義の人」と呼びます。道理の曲がったことを嫌い、領土拡大のための戦は決してしませんでした。他にも、敵の弱みにつけ込むようなこともしなかったと言います。
それって、人としては素晴らしいのかもしれませんが、一国一城の主である戦国武将としてはいかがなのでしょうか?
普通でしたら、甘いことばかり言って利益にならないことばかりしていたら、部下たちから見放されてしまいますよね。
しかし上杉謙信の凄いところは、理想論ばかりで口先だけの男では決してなく、ずば抜けた戦の強さと、内政手腕にも長けていたところです。
「卑怯なことはしない」とか言って好機を逃して負けるようなマヌケであればお話にならないですが、信念を曲げないがゆえの強さが、上杉謙信にはありました。70戦して勝率95パーセントの戦績が、その強さを証明しています。
だからこそ、疑問に思ってしまいます。本当に上杉謙信は「義の人」だったのでしょうか? 美談ばかり語られているけれど、本当に汚いことを一つもしてこなかったのだろうか、と。
この記事では、上杉謙信の人物像に焦点を当てながら、彼の生き様、そして彼と関わったライバルたちをご紹介していきたいと思います。
また、上杉謙信の人となりとしてよく語られるエピソードの裏側にも切り込んでまいりますので、お楽しみにしてください!
上杉謙信の人物像
上杉謙信は山内上杉家16代当主として、長年内乱が続いていた越後国(現在の佐渡島を除く新潟県)を治めて繁栄させました。
それだけでなく、上杉謙信は戦上手で有名でした。名だたる武将と合戦を繰り広げて、生涯で70ほどの合戦の中で明らかな敗戦はわずか2戦といわれています。
特に武田信玄とのライバル関係は有名ですね。
上杉謙信は戦の中や領内政治において、様々な名言やエピソードを遺しています。
それらはすべて「義」を大前提にしており、曲がったことは許さず、大義名分のためなら得にならない戦もする上杉謙信の人物像を反映しています。
この章では、戦国時代において上杉謙信がどのような存在だったのか、義の人といわれる人物像などについて紹介していきます。
上杉謙信はどんな時代を生きたのか?
15世紀末から16世紀末にかけて、日本は戦乱の時代でした。
室町幕府が失墜し、守護大名に代わって戦国大名が力を増しました。
この時代を「戦国時代」と呼びます。
16世紀はじめごろ、越後国守護代の長尾家は、主君の守護を滅ぼして、越後国の実権を握りました。その下剋上を果たしたのが、上杉謙信の父である長尾為景でした。
このように当時の日本は無法地帯さながら、数々の武将が台頭し、弱肉強食の世を築いていきました。上杉謙信はまさに、群雄割拠の時代にあって、ブレることなく自分の道を生きた数少ない武将だったのです。
義の人といわれるゆえんと疑問点
上杉謙信は「義人」と呼ばれて久しいですが、どのようなところが義人たるゆえんなのでしょうか?
上杉謙信は「敵に塩を送る」という故事のもとになった人物としても有名ですし、天正三年(1575年)長篠の戦いで武田信玄の軍勢が大打撃を被ったとき、出兵を勧められました。
しかし信玄はこういってその任務を辞したといわれています。
「人の落ち目を見て攻め取るは、本意ならぬことなり」
良い人ですね。義人と言われるのも納得です。
しかし、疑問も出てきます。
上杉謙信の言動には一貫性があってブレることがありません。それは素晴らしいことなのですが、理想ばかりでは立ち行かないのが世の中です。
どのようにして上杉謙信は越後国を治めていたのでしょうか?
その疑問については、以下の各章で徐々に説明してまいります。
上杉謙信という漢(おとこ)の生き様
群雄割拠の戦国時代にあって、上杉謙信は天下取りを目的としていませんでした。
戦ばかりしていたにもかかわらず、です。
上杉謙信が戦をするときはその時々の大義名分がありました。
第四次川中島の合戦は村上義清や小笠原長時から助けを求められたからでしたし、関東出兵も関東管領・上杉憲政を助けるための戦いでした。
このように上杉謙信は、私利私欲で動く人間でなかったと伝えられています。そして、敵の弱みにつけこむようなことも決してしなかったといいます。
それを裏づけるエピソードとして、次のようなものがあります。
天正元年(1573年)、武田信玄が死去したとの知らせが届きました。家臣たちは信玄の死を知り、絶好の機会とばかりに出陣を進言しました。
しかし上杉謙信は首を横に振りました。
「若い勝頼(かつより)が跡目を継いだばかりではないか。そんなときを狙って攻めるのは、大人げなき致し方だ」
この章では漢(おとこ)・上杉謙信の生き様をご紹介してまいります。
上杉謙信の生い立ち
上杉謙信は享禄三年(1530年)越後国で生まれました。父親は長尾為景で、幼名は虎千代(とらちよ)と言いました。
上杉謙信が6歳のころ、父親の為景が病にかかったため、兄の晴景(はるかげ)が家督を継ぎました。
そのため上杉謙信は林泉寺に預けられ、ここで学問や武道を学びました。彼の信仰心は有名ですが、その信仰心はここで培われたものでした。
名前の変遷
上杉謙信は三度、名前が変わっています。
初名は長尾景虎(かげとら)。関東管領山内上杉家のようしとなり、上杉政虎(まさとら)と名乗りました。そして京都の将軍・足利義輝(よしてる)より一字与えられて上杉輝虎(てるとら)となりました。
一番有名な「上杉謙信」は法名です。しかし便宜上、以下の文章も基本的には上杉謙信で統一したいと思います。
敵に塩を送ったのではなかった!?
「敵に塩を送る」という言葉は現代でも使われる言葉ですが、宿敵である武田信玄を上杉謙信が助けたエピソードが由来だということはご存知だったでしょうか?
永禄十年(1567年)、上杉謙信のライバルだった武田信玄は駿河の今川氏真(うじまさ)に塩の輸送を止められてしまいました。
甲斐は山国だったので、塩どめによって甚大な被害を被りました。これを伝え聞いた上杉謙信が、甲斐に塩を送らせた、というエピソードです。その際、こう言ったと伝えられています。
「塩を断つとは卑劣な振る舞いであり、武士の恥である。わしは兵をもって戦いを決するつもりだから、塩をもって敵を屈服させるようなことはしない」
じつはこの話には裏があるとも言われています。
上杉謙信は塩を無償で送ったのではなく、売ったのだということです。
しかし塩商人には足元を見て売値を吊り上げてはいけないと命じたとのことですから、決して私利私欲のためではなかったことがうかがえます。
義人のはずが人身売買
義人として有名な上杉謙信ですが、そのイメージとはかけ離れた話もあります。
上杉謙信は、「関東管領」を名乗り幾度となく関東に進軍しました。わかっているだけでも、1560年から8回も出兵しています。
ほぼ毎年のように出陣し、大抵は冬から半年ほど滞陣して帰っていきました。大して領土を拡大することなく、です。
一見すると謎な行動ですが、目的は領土拡大ではなかったのです。
1566年に上杉軍が常陸(ひたち)国の小田城(現在の茨城県つくば市)を攻め落とした際に、城下に人身売買の市が立ったという記録が残っているのです。
上杉謙信の命で、人間がかなりの安価て売買されていたというのです。それも長期に・・・・
戦国時代の戦場では、略奪や人捕りがさかんに行われており、当時の感覚では、それらの行為はそこまで非人道的なことではなかったのかもしれません。
そして生産力がそこまで高くなかった越後国を維持していくため、略奪目的の戦は不可欠のものだったのかもしれません。
軍神と呼ばれた桁外れの強さ
上杉謙信の生涯は、戦いの人生であったと言っても過言ではありません。
70もの合戦の中で、明確な敗戦は2戦だけといいます。戦国の世で、勝率95パーセントという圧倒的な強さを誇っていたわけです。
そして常に戦をしていた印象があります。
有名なのはライバル武田信玄との川中島の戦い。
足かけ十年続いたという信玄との戦いが落ち着いたかと思ったら、次は一向一揆との戦いに力を注ぎました。そしてあの、織田信長に標的を絞るのでした。
織田家家臣の柴田勝家が上杉謙信に挑むも、多くの兵が討たれ、千名にも及ぶ死傷者を出す惨敗となりました。
この戦いにあの織田信長が「謙信恐るべし」と震えを抱いたといいます。
織田信長との直接対決を前に急死してしまった上杉謙信ですが、もし謙信が長生きしていれば歴史が変わっていたかもしれません。
上杉謙信はそれほど強力な武将だったのです。
義ばかり重んじても人が離れなかったワケとは?
これまで見てきたことからもわかるように、上杉謙信は「義」を何よりも重んじ、義を通すことを目的化していました。
利得のための侵略はしない、卑怯な手段を用いない、敵の弱みにつけこまない、大義名分のためなら利益にならない戦も喜んでする、などです。
ともすれば甘くも見えるこの信念ですが、上杉謙信は越後国を健全に統治していました。クーデターも起こらなかったですし、越後を衰退させるような愚政もしませんでした。
上杉謙信から人が離れなかった理由は、内政手腕に長けていたからだと考えられています。
他の武将たちが領地拡大のために戦をするのに対し、上杉謙信は金や金属の産出で越後国を豊かにしました。家臣への褒美も、地領ではなく金であったといわれています。
このように越後を繁栄させてきたため、家臣や領民たちから不満があがらなかったようです。
知られざる上杉謙信
上杉謙信には、まだまだ謎とされる事柄がたくさんあります。この章では、上杉謙信の女性説と死について取り上げ、考察していきます。
これらの謎には諸説ありますので、自分でしっくりくる説を探してみるのも楽しいかもしれません。
上杉謙信女性説の真相
上杉謙信には、「女性説」というものがあります。武田信玄との川中島の合戦など、まるで男女の駆け引きのようだと称する人までいるほどです。
上杉謙信が生涯不犯(しょうがいふほん)を貫き、妻帯もしなければ子もなかったことでそのような説があるのですが、同時に「男色家だった」「肉体的に不能だった」「シスコンだったため他の女性に興味が持てなかった」などの俗説も存在します。
上杉謙信の生涯不犯についての有力な説というのは、家督を継いだ際、兄・晴景の子が成人すれば返上するつもりでいたから、というものです。
それを自らの子をなさないことで示し、義に厚い上杉謙信は、その可能性がなくなった後もその姿勢を貫いたというのです。
その潔癖なまでの義人ぶりが、むしろ上杉謙信らしいと思ってしまうのは筆者だけでしょうか?
実は病弱だった?上杉謙信死の真相
上杉謙信は、天正六年(1578年)三月九日の昼頃、春日山城の厠(かわや)で昏倒しました。上洛のため、出兵の準備に取りかかっていた矢先のことでした。
上杉謙信は意識を取り戻すことなく、四日後の三月十三日、息を引き取りました。四十九歳でした。死因は脳卒中と言われています。
武神と恐れられていた上杉謙信でしたが、健康状態はお世辞にも良いとは言い難いものだったようです。
30歳で2度目の上洛をしたとき、上杉謙信は坂本で「癰疽(ようそ)」を患っています。癰疽とは化膿球菌が体内に侵入してできる危険な腫れ物です。主に首や背中、唇、尻などにできるといいます。
それを聞いた将軍義輝は、上杉謙信に漢方薬を与えたと伝えられています。また、三十二歳の小田原攻めでは腹痛に襲われ、三十六歳の正月には左脚の急性関節炎で苦しんだ、ともいわれています。
上杉謙信はもともと気性が激しく、大酒飲みだったそうです。酒の肴はいつも梅干しで、本来梅干しは酒によって酸化される血液を中和してくれるのですが、それ以上に飲んでいたらしく、高血圧だったそうです。
常に戦いに明け暮れた生活を送っていた上杉謙信は、「人生五十年」と考えて壮絶に突っ走った生き方をしていたように思えます。
脳卒中での臨終は、彼らしいといえば彼らしかったのではないでしょうか。
上杉謙信何をした人?謙信の生涯や性格をわかりやすく解説!!まとめ
ここまで、上杉謙信の人物像に迫ってきました。
義に厚い性格を持ち、それが戦や政治手法に表れていた上杉謙信。ややもすると奇人変人の部類にも入れられてしまうような人物ではありましたが、真っ直ぐに信念を持ち、結果を出し続けた姿は尊敬に値します。
戦国時代は上杉謙信だけでなく、様々な武将が個性を発揮した場でもありました。
この記事が皆さんの勉強欲を刺激し、戦国時代や武将たちについてより深く学ぶきっかけになれば幸いです。
【参考文献】
『2時間でおさらいできる戦国史』石黒拡親 大和書房
『読むだけですっきりわかる戦国史』後藤武士 宝島社
『戦国武将あの人の顛末』中江克己 青春出版社