武田信玄が戦国最強たるゆえんとは!? 現代にも通ずる名言と戦略

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戦国最強と呼び声の高い甲斐の虎こと武田信玄の存在はご存知の方は多いと思います。

風林火山川中島の合戦など、覚えやすいキャッチフレーズやエピソードが多く、若き日の徳川家康を退却させたことでも有名です。

志半ばにして病で倒れなければ、戦国の勢力図は変わっていたかもしれません。

それほどまでに武田信玄は強く、そして武田家と甲斐国の未来を考えていました。

武田信玄には後世に伝わる名言が多く、その哲学は現代にも通ずるものがあります。

武田信玄の武将としての強さや優秀さは、伝える能力の高さや考え方に起因しているのではないでしょうか。

そこで、武田信玄の名言や戦略を読み解き皆様にご紹介するとともに、その中から現代社会に生きるヒントを模索していきたいと思います。

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目次

武田信玄はどのような武将だったか

武田信玄と聞いて何を思い浮かべるでしょうか?

風林火山や甲斐の虎、少しマニアックなところでいうと「父親を追放した武将」などでしょうか?

この章では、武田信玄が何をして、どのようにして名を成し、いかにして亡くなったか、武田信玄の人生を見ていきたいと思います。

武田信玄の生い立ち

武田信玄は大永元年(1521年)11月3日、甲斐国守護であった武田信虎の嫡男として生まれました。

幼名は勝千代。

神童と称されるほど、武道にも学問にも優れていたといいます。

14歳のときには元服し、初陣を飾ったと言われています。

しかし父の武田信虎は信玄を嫌い、弟の武田信繁に家督を譲ろうとしていました。

そこで武田信玄は21歳のときに、父・信虎を娘婿だった駿河の今川義元のところへ追放し、武田家の家督を強引に相続したと伝えられています。

なお、彼の本名は武田晴信です。

元服した際に室町幕府12代将軍の足利義晴から1字もらい、武田晴信と名乗るようになりました。

武田信玄という名は法名で、39歳で出家したときのものです。

戦国最強たるゆえん

武田信玄は富国強兵政策に長けていたと言えます。

武田信玄が行った合戦は130回に及ぶと言われており、そんなに戦ったら国が疲弊してしまいそうなものです。

しかし武田信玄は甲斐国を守り、強くするため多くの合戦を行い、その他様々な手段で国を豊かにしていきました。

武田信玄の考えを表す有名な歌に、次のような一首があります。

「人は城 人は石垣 人は堀 なさけは味方 あだは敵なり」

これは人材の大切さを歌ったものですが、武田信玄は同時に軍事施設も重んじました。

武田流築城術もあり、敵方の城を奪うと作り変えることもしばしばでした。

そして農業生産力を高めるために治水事業にも力を入れました。その効果もあり、武田軍には他の武将と比べて馬が多く、強力な騎馬隊が有名でした。

甲斐の虎の最期

武田信玄は、十五代将軍足利義昭の依頼を受けて西上作戦を開始しました。足利義昭は織田信長の後見で将軍となったものの、後に信長と敵対した人物です。

三方原(みかたはら)で徳川家康に大きな打撃を与え、家康は敗走。

このとき武田信玄の所領は120万石に達したといいます。さらなる進撃の矢先に持病が悪化し、武田信玄は甲斐に引き揚げることになります。

そして回復することなく、この世を去ることになりました。享年53歳でした。

武田信玄の名言と戦略の数々

武田信玄の強さの秘密を知ろうと思ったら、彼の遺した言葉や、彼がとった戦略を知ることが肝要だと筆者は考えました。

それらが、武田信玄の考え方を映す鏡となると思ったからです。

調べてみると、武田信玄は兵法などを学んで実践する勉強家で、足元をすくわれないように勝負を急がない冷静な武将であることがわかりました。

この章で、武田信玄の発言や戦略から、現代の処世にも通ずる彼の考え方を学んでいきましょう。

武田信玄は広報戦略の天才だった!?

武田信玄の長所として、広報活動・プロパガンダの才能が挙げられます。

例としては風林火山の旗印、百足隊(むかでたい)のネーミングと旗印、赤備の採用などです。

ワンフレーズやわかりやすい意匠の採用に関してかなりのセンスの持ち主でした。

武田信玄がここまで評価を受けているのは江戸時代に『甲陽軍鑑』を教科書とした甲州流軍学が流行した影響が大きいと言われています。

しかしそれは信玄の教育で家中に広報能力が行き渡っていた成果であると言えるのです。

風林火山

疾きこと風の如く、

徐かなること林の如く、

侵掠すること火の如く、

動かざること山の如し。

武田信玄が風林火山を旗印にしたことは有名です。信玄が合戦に挑んだ回数は130回とも言われており、この旗印を見るだけで逃げ出す敵もいたほどでした。

この風林火山という言葉は戦いにおける理想的な心構えのことで、時期や情勢などに応じた動き方を表しています。

簡単にまとめると、

「早く動き、静かに待ち、攻めるときは激しく攻め、攻撃や挑発に動じない」ことです。

この言葉は中国春秋戦国時代の兵法書『孫子』から来ています。

そしてこの風林火山には、実は続きがあります。以下でご紹介して、この項の締めくくりにしたいと思います。

知り難きこと陰の如し。(味方の戦略は陰のようにひそめるべきである)

動くこと雷霆の如し。(兵を動かすときは、雷のように激しく動かすべき)

武将が陥りやすい三大失観

武田信玄は、武将(リーダー)が陥りやすい失観(失敗)として以下の3つを挙げています。

一つ、分別あるものを悪人と見ること

リーダーの周囲にはイエスマンばかりが集まりがちですが、正直に異論を唱えてくれる人を大事にしなさいと武田信玄は説いています。

リーダーの資質は、忠告を受け入れる器の大きさで決まるのです。

一つ、遠慮あるものを臆病と見ること

自己主張をしなければ認められにくいのは今も昔も変わらないようです。

しかし謙虚な人ほど陰で努力していたり、賢いため物事の本質が見えていると武田信玄は言っています。

一つ、軽躁なるものを勇剛と見ること

口先だけ上手くて、いざというときに頼りにならない人がいます。そういう人をリーダーシップがあって実行力もあると勘違いすることです。

上記で見てきたように、リーダーに必要なことは、本質を見抜いてその仕事に適した人材を見つけ出すことだと武田信玄は言っています。

そのために、上辺だけを見て勘違いすることのないようにしなければいけません。

勝ちすぎてはいけない

武田信玄は常々、戦に勝つことよりも負けないことが大事だとし、「勝ちすぎてはいけない」と言っていました。

勝敗は六分か七分勝てば良い。八分の勝ちはすでに危険であり、九分十分の勝ちは大敗を招く下地となる。

武田信玄は地に足の付いた武将でした。圧勝によって軍に怠けや驕りを生み、相手方も警戒します。

それがいかに危険かを、武田信玄は知っていたのです。

将来のためには、引き分けか少し勝つことだというのが、武田信玄の持論でした。

武田信玄の人となり

父親を追放したり、なりふり構わない戦い方をしたりして、武田信玄は非情な人間だったと思われがちですが、その内面は、誰よりも自国(甲斐国)と武田家のことを考えていた武将だったのではないでしょうか。

この章では、武田信玄の人となりについて迫っていきたいと思います。

上杉謙信との関係性

武田信玄と上杉謙信とのライバル関係は有名です。川中島で五度にわたって戦い、足かけ十二年と言われています。

性格や生き方も正反対で、長きにわたって争ってきた信玄と謙信ですが、友情にも似た絆が生まれたようです。

「敵に塩を送る」という言葉は現代でも使用しますが、上杉謙信と武田信玄のエピソードが元になった逸話です。

永禄十年(1567年)、武田信玄の甲斐国は、敵対していた駿河の今川氏真(うじまさ)から塩の流通を止められてしまいました。

山国だった甲斐は塩止めにあって大打撃を受けました。それを聞いた上杉謙信が、次のように言って甲斐に塩を届けさせたといいます。

「塩を断つとは卑劣な振る舞いであり、武士の恥である。わしは兵をもって戦いを決するつもりだから、塩をもって敵を屈服させるようなことはしない」

そんな恩義があるからでしょうか。

武田信玄は息子の勝頼に、「わしに何かがあったら謙信を頼れ」と言ったといいます。

考え方や生き方がまるで異なっていた両者ですが、戦いのさなか、互いの人間味の部分にも触れていたようです。

未来の武田家と甲斐国を想い、信玄か遺した言葉とは?

武田信玄は勝ち戦のさなか、持病が悪化したまま回復することなく死期を迎えました。そのような中でも、武田信玄は武田家と甲斐国の将来を案じていたようです。

武田信玄は自らの死を三年隠したと言われています。信玄が死ぬことによって近隣の武将たちが甲斐国に攻め入ってくることを警戒したためです。

「わしの死を三年間秘密にし、その間に戦備を整えよ」

息子の勝頼はその通りにしました。信玄は病のために隠居ということにして、家督を継いだのです。

自分の命が尽きようというときも、武田信玄は自国(甲斐)と武田家の未来のことを想っていました。

武田信玄が戦国最強たるゆえんとは!? 現代にも通ずる名言と戦略 まとめ

ここまで、武田信玄の言葉などから、戦国最強とまで言われた彼の強さの秘密に迫ってまいりました。

数々の名言は、世の中を太く長く、力強く生きていくためのヒントが沢山ありました。

武田信玄は一国一城の主としての役目に徹し、甲斐国と武田家の繁栄に力を尽くしました。非情な戦略を取ることも多かった武田信玄ですが、全ては家と国を守るためだったのです。そこからも、武田家と甲斐国に対する深い愛情が感じ取れます。

天下取り手前で病に倒れてしまった武田信玄ですが、その言葉や逸話は、彼の信念とともに後世にも脈々と受け継がれています。

【参考文献・参考サイト】

『2時間でおさらいできる戦国史』石黒拡親 大和書房

『読むだけですっきりわかる戦国史』後藤武士 宝島社

『戦国武将あの人の顛末』中江克己 青春出版社

『武田信玄の歴史』刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/7482

『武田信玄の名言・格言』 https://iyashitour.com/archives/19590#i

『風林火山の意味とは?由来や続き・使い方をわかりやすく解説』 https://kokugoryokuup.com/huurinnkazann/

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