源頼朝の功績や鎌倉幕府ができるまでをわかりやすく簡単に解説します!

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みなさん、こんにちは!

今日は知ってそうで実はよく知らない源頼朝の功績についてみていきたいと思います!

教科書には初代鎌倉幕府将軍、源頼朝として名前が出てきます。

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目次

源頼朝の功績といえばやはり「武家政権」

この源頼朝の功績といえば日本で初めて武家政権をつくったことでしょう。

源頼朝は貴族中心の政治をやめて「武士の 武士による 武士のための政治」を掲げ、日本で初めての武家政権である鎌倉幕府を開きました。

この頼朝がつくりあげた鎌倉幕府の政治のしくみはその後も継承されていきます。

源頼朝は幕府の仕組みを整えた人物として大きな功績を残したといえます。

しかし、その鎌倉幕府をつくるまでに源頼朝は親戚の裏切りや幽閉など苦労した経験があります。

社会なんて嫌いだったというかたもこの凛とした男前の写真は知っていると思います。

今日は、源頼朝がどんな人物なのか、どんなことをしてきたのかわかりやすくみていきたいと思います。

保元の乱と平治の乱!源頼朝の敗北で平家が台頭

源頼朝は1147年に源氏の棟梁である源義朝の子として熱田(現在の名古屋市)に生まれます。

源頼朝の宿敵と言われる平清盛と頼朝のお父さんである義朝は1156年に起きた保元の乱で勝利。源義朝は少しずつ自身の勢力拡大を目指します。

この乱で源義朝と源頼朝は平家の軍と戦いますが敗北してしまいます。

敗北した源義朝は戦場から逃れる途上で味方の裏切りで無念の最後を遂げてしまいます。

信じていた味方からの裏切りで命を落とした源義朝。源頼朝はさぞ無念だったでしょうね。

父、源義朝の無念の最後は子である頼朝に親族への猜疑心を芽生えさせます。

源頼朝はのちに異母兄弟の源義経を討ち、親戚の源範頼を追放することになります。

頼りになるのは己のみという気持ちは子供のころ経験した裏切りにより父を亡くすという強烈な経験がすくなからず影響しているのかもしれません。

源頼朝は流刑 父義朝は裏切りにあい・・・

平治の乱で敗北した源頼朝や異母兄弟の源義経は平家に捕らえられてしまいます。

源義朝の子として極刑も考えられた源頼朝でしたが清盛の継母である池禅尼の助命嘆願もあり頼朝は伊豆への流刑となります。

また異母兄弟の源義経は、母である常盤御前がなんと清盛の寵愛を受ける身となり一命をとりとめ最終的には京都の鞍馬山に預けられる事に決まりました。

平清盛の措置は寛大でしたが最終的にはこの平治の乱での戦後処理がのち約20年後の源頼朝の平家打倒の挙兵につながる事になってしまいます。

平家の独裁政権が始まる

平清盛 源頼朝とはだいぶ容姿が違います

平治の乱で勝利した平清盛は太政大臣という最高権力者の地位にまで到達します。 

また平清盛は日宋貿易にも力をいれ一族は全国に領地を所有するようになります。

平家の一族である者は財力や高い官位を授かり大いに繁栄したそうです。

しかし長年の間にわたり土地を盗賊などから守ってきたのは平家ではなく地元の武士たちです。

地元で汗する武士たちは時には農作業なども行いながら自分たちが支配できる土地を開墾してきました。そして長年の間に渡り土地を守り抜いてきたのです。

それを尻目に平家は天皇家と姻戚関係を築くなど巧みな工作を行い、かつて藤原氏が行ってきた独裁政治と同じ手法の、平家一門だけの都合のいい政治を行っていきました。

武士たちの不満の高まり

全国の土地の所有権は次から次に平家が独占し、地元の武士たちの領地はどんどん失われていったのです。

「平家にあらずんば人にあらずと平時忠という平家一門の人が有名な言葉を残していますが、まさに平家の全盛期は一族につながる人しか栄達できない厳しい時代だったといえます。

身勝手ですべてを独占する平家のやり方に対する不満は諸国の武士のみならず一部の有力な貴族にも広がっていきます。

源頼朝が遂に立ち上がる

ついに1180年に以仁王の挙兵の要請に応じる形で源頼朝は挙兵します。

源頼朝は初戦の石橋山の戦いにも兵士の数が不足したため敗北します。これだけ敗北してしまうと心も折れそうですが源頼朝はたかが2回の敗北で屈するような人ではなかったのです。

石橋山の戦いに敗れた源頼朝は洞窟の中に逃げ込み危機的状態になります。

また運が悪いことに平家側の武士である梶原景時に洞窟に隠れてるところを発見されてしまうのです。しかしなぜか梶原景時は平家側に頼朝が洞窟にいることを報告をしませんでした。

間の良い人はわかるかと思いますがこの梶原景時、密かに源頼朝を応援していたのです。

源頼朝はこれによって命拾いすることになります。

平家の敗因は財産も名誉もすべて自分たちが独占してしまった結果といえます。

いざという時に命の危険をも顧みず働いてくれる武士たちに配慮を忘れてしまい、全国の武士たちへの配慮を怠ったため肝心の戦の場面で平家を支えてくれる武士が次第にいなくなってしまったのです。

通常ならば石橋山の戦いの敗北で源頼朝は歴史から消えていたかもしれません。

でも歴史から消えたのは平家でした。

武士の時代が来ているにも関わらず、平家のみが繁栄する時代であると勘違いしたため平家は歴史の表舞台からやがて消えていくことになります。

さて石橋山の戦いで九死に一生を得た源頼朝。

平清盛 この世を去る

その後の富士川に戦いでも平家はまともの戦闘もせず敗走します。

そして富士川の戦いの翌年の1181年に平家の全盛期を築いた平清盛が熱病によってこの世を去ります。63歳でした。

当然のことながら平家は平清盛の死後、さらに権勢は失われていきます。源氏軍の京都侵入を防げず、平家はやがて都を落ち延びますが・・・・

一ノ谷の戦いそして屋島の戦いでも平家は源氏との戦いに敗れて敗走します。

壇ノ浦の戦い・最後の戦いで源氏勝利

そして最後は源義経らと壇ノ浦の戦いに敗れて滅びる事になります。

壇ノ浦の戦いが起きたのは1185年です。

平治の乱で平清盛が勝利してから約25年後には平家の天下は消滅してしまいます。

源頼朝は平家との戦いには石橋山の戦いこそ参加しますがその後の戦いは参加せず、鎌倉に本拠を構えて京都から距離を置いて源氏の棟梁として源氏の勢力拡大を行っていきました。

源頼朝・武士の利益を優先

1185年に源頼朝は全国に守護と地頭を設置し、源頼朝に味方した武士たちを守護や地頭に任命します。

守護は地域の治安の維持を図る役目で、地頭は土地から上がる税を徴収する役目です。

土地こそがすべての基礎であった当時の武士たちとしては守護や地頭に任命される事はとても喜ばしいことでした。

新しい時代は平家のように一族のみの栄達を考える政権ではない武士全体の利益に配慮する政治だったので源頼朝の人気は高まっていきます。

源頼朝は武士の世界では英雄的な存在にもなり1192年に征夷大将軍となったのです。

鎌倉という地に、武士が京都の公家に支配を受けず、自分たちのルールで社会のシステムを作っていく時代が始まりです。

源頼朝の功績

源頼朝は平家が高い官位や土地の独占し多くの武士や貴族を敵に回した事実を考慮し平家とは違う形で全国の武士を味方につける武士政権の樹立を目指していきます。

そもそも平家は京都で朝廷や官位を独占しており一部の人は大きな不満をもっていました。

全国の土地を一門で支配し自分たちだけの繁栄を享受しようとした平氏。

当然、他の貴族や武士を無視した政治はいつまでもうまくいくわけがありません。

平氏と違い武士を大事にした源頼朝

これに対して武家政権の樹立を目指す源頼朝は平家の土地支配で自分たちの土地が危うくなる中で、武士が一番関心がある土地の所有を認めます。

源頼朝は、「火急存亡の危機にある時は土地の所有を認めるからぜひ味方をしてほしい」という土地介在の主従の関係をすすめていきました。

全国の武士たちは、土地の支配権を武士に任せる政策に賛同し源頼朝を支持するものが次々に増えていったのです。

武家による武士の権利を認める政治を積極的に源頼朝は進めていきます。これは源頼朝の大きな功績です。

そして1192年に京都の公家政権も正式に認めた鎌倉幕府が成立します。

(※鎌倉幕府成立の時期は全国に守護と地頭を設置した1185年説も現在有力ですが、ここでは源頼朝が征夷大将軍に任ぜられた年を取らせて頂きます。)

征夷大将軍が武士の棟梁として政治を行う形式は室町そして武家政治の完成形である徳川幕府へと引き継がれていきます。

その点では源頼朝の果たした役割は幕末の大政奉還まで継続する武家社会の始まりを作った英雄といえそうです。

源頼朝の功績や鎌倉幕府ができるまでをわかりやすく簡単に解説します!まとめ

顔は知っていても意外とどんなことをした人物なのか知らないことも多いと思います。今回は教科書で男前のイメージがあるだろう頼朝について書いてきました。

もしかすると源頼朝がいなければ日本における武士の社会的な役割はかなり違う形になっていたのかもしれません。

台頭する武士の権利拡大につとめ武家社会の基礎を作った頼朝は1199年に享年53(満51歳)の人生に幕を閉じます。

死因は不明となっていて諸説がありますが日本に大きな影響を与えた偉大な人物であることは間違いないですよね!

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