無血開城とは?立役者や場所などわかりやすく解説!誰1人血を流させない!偉人たちの想い!

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明治元年、旧幕府軍と新政府軍が戦った戊辰戦争。その戦争の中でおこった「江戸無血開城」をご存知でしょうか?

勝海舟と西郷隆盛の会談により、血が流れることなく、旧幕府軍の本拠地である江戸城が新政府軍に明け渡されました。

日本人である私たちにはピンとこないかもしれませんが、実はこの無血開城は日本の歴史的にも世界的にもとても珍しいことなんだそうです!

今回はその無血開城はどのようにしておこったのか、無血開城までの流れと立役者や場所などわかりやすく解説します!

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目次

なぜ戊辰戦争はおこったのか

まず無血開城を知るにあたってペリー来航からお話ししなければなりません。少々お付き合い下さいね。

1853年、ペリーの乗った黒船が4隻も日本にやってきました。当時の日本は徳川幕府の元鎖国をおこなっていたため、日本中が大騒ぎとなりました。

当然、外国人や大きな船を見たことがなければ誰でもびっくりしますよね。

そして、「外国人を追い払え!」という攘夷派や「日本も開国しよう!」という開国派、「外国に対して弱気な姿勢の幕府を倒そう」という討幕派や「天皇中心の政治に戻そう!」という尊王派など、色々な考えがでてきて、考えの違う派閥同士で争いが起こるようになりました。

そのうち、その争いは討幕派の勢力が大きくなり、徳川幕府を倒す一歩手前まで来ます!

しかし、なんと第十五代将軍徳川慶喜は大政奉還であっさりと政権を朝廷に返してしまいました。これを大政奉還と言います。

大政奉還

徳川慶喜は政権を朝廷に返しても、長く政治から離れていた朝廷に政治をする能力はないと考えていました。

そして朝廷では徳川慶喜よりの公家たちが実権を握っていたため、事実上徳川慶喜が政治をすることに変わりはなかったのです。

討幕を進めていた西郷隆盛や岩倉具視たちは、これでは大政奉還の意味がないと考え、王政復古の大号令により、新政府を発足させることに成功します!

当然のように旧幕府軍は強く反発。

そして1868年、とうとう旧幕府軍と新政府軍が鳥羽・伏見で武力衝突します。この鳥羽伏見の戦いが戊辰戦争の始まりだったのです!

江戸城の総攻撃を進める新政府軍

鳥羽伏見の戦いでは新政府軍が優勢となり、旧幕府軍は劣勢となりました。当時大阪城にいた徳川慶喜は、なんと、夜のうちに数人の側近と一緒に幕府の軍艦に乗ってこっそりと江戸城に帰ってしまったのです・・・

軍を見捨てて、自分だけ帰るなんてびっくりですね!!

総大将がいなくなったことで、残された人々は戦意喪失したそうです・・・。

その結果鳥羽伏見の戦いは新政府軍の勝利となります。

そして、新政府軍は西郷隆盛など「徳川慶喜に厳しい処分を!」と考える人を中心に、江戸城を総攻撃することが軍議で決まりました。

無血開城の場所は江戸城!どんなところ?どこにあるの?

ここで少し話がそれますが、江戸城について簡単に説明しますね。今回の無血開城の舞台となったのは江戸城です。

江戸城は名前の通り江戸(現在の東京都)にあります。

初代将軍・徳川家康が入城してから、第15代将軍徳川慶喜まで約260年もの間、徳川幕府が政治を行っていた場所です。時間帯にもよりますが、日中は6千人もの人々が江戸城内にいたといわれています。

そして、当時の江戸には130万人もの人々が住んでいたと推定さていました。

当時のロンドンが70万人、パリが50万人とされているため、江戸が世界的に見ても大きな都市だったということがわかります!!すごい〜。

(ちなみに現在のさいたま市の人口が約130万人で第9位だそうですよ。)

そんな大都市で戦争がおこれば、江戸城の人々だけでなく、江戸の町に住む人々も巻き込まれ、たくさんの犠牲者もでるでしょう。

できれば江戸城総攻撃は中止してほしいですね!

ちなみに江戸城ですが、東京で江戸城跡地なんて見たことないよ!もうなくなったの?なんて思ったことはないですか?実は現在の皇居が江戸城跡地なんですよ!

戦うか戦わないかでゆれる旧幕府軍

江戸城に戻った徳川慶喜たち旧幕府軍は今後どうするか2つの案でもめます。

1つ目は、旧幕府軍に好意的な藩と協力し、新政府軍と戦う案。2つ目は新政府には逆らわないとして戦いをやめる案でした。

この時フランスの外交官も何度か徳川慶喜に戦う案を勧めていました。

戦う案に賛成の旧幕臣たちもいましたが、鳥羽伏見の戦いで戦意を喪失していた徳川慶喜は新政府に逆らわないことを決め、自ら上野寛永寺に移り謹慎生活を送ることにしました。

大阪城からこっそり逃げ帰る徳川慶喜ですから、もう戦う気力はなかったのでしょうね・・・。

そして徳川慶喜は薩摩藩や朝廷と繋がりのある篤姫や和宮にも助けを求めました。

篤姫と和宮の嘆願

徳川慶喜からのお願いもあり、江戸城の総攻撃を止めて徳川家を守らなければ!と立ち上がった女性がドラマで有名な篤姫と和宮です。

篤姫は薩摩藩主・島津斉彬の養女で第13代将軍・徳川家定の正室です。

篤姫は徳川家を助けてほしいとの手紙を西郷隆盛宛に書きました。西郷隆盛は篤姫が徳川家に嫁入りする際に色々と嫁入りの準備をしています。

そして西郷は、今は亡き島津斉彬をとても慕っていたので、篤姫の手紙を読んで涙を流したそうです。

そして和宮は仁孝天皇の娘であり、第14代将軍・徳川家茂の正室です。和宮もまた自分の出身である朝廷や、新政府軍の指揮官などに手紙を書いて、徳川家の存続を訴えました。

生まれ故郷の人々が、自分の嫁入り先に攻め入ってくるなんて、考えただけで悲しくなりますね。

でも、悲しむだけでなく、手紙を書くなど行動できるなんて、篤姫と和宮は強い女性だったのでしょうね。

江戸城総攻撃を止めたい勝海舟

徳川慶喜が自ら謹慎生活を送るようにしたといっても、鳥羽伏見の戦いで敗れたため、徳川慶喜は処刑されてもおかしくない状態でした。

その為、慶喜が処刑されるくらいなら戦おう!とする旧幕臣たちもいました。そして、旧幕府軍には戦いを勧めるフランスも!

しかし、新政府軍の中心にいた薩摩藩はイギリスと友好関係を結んでいました。

日本はイギリスかフランスの植民地になっていたかも?

勝海舟は、もしこのまま戦いを続けたら「旧幕府軍とフランス」対「新政府軍とイギリス」という戦いになってしまい、日本が真っ二つになるのではないかと考えました。

もしかしたら内戦で日本が弱くなり、フランスとイギリスの植民地になるかもしれません。

そんな先の事まで想像し考えることが出来る勝海舟。よっぽど頭の良い人物だったのでしょうね!

そして、勝海舟は戦いで江戸の町にたくさんの犠牲者が出ることも避けたかったのです。

そんな時に山岡鉄太郎という人物が勝海舟のところにやってきます。

山岡鉄太郎は慶喜に新政府には逆らわないという旨を西郷隆盛に伝えるよう命じられていました。

しかし、鉄太郎はあまり西郷のことを知りません。そこで、西郷のことをよく知っている勝海舟の元を訪ねたのです。

勝海舟は山岡鉄太郎と打ち合わせをし、山岡を西郷の元へ送り出しました。

有名な西郷隆盛と山岡鉄太郎の面談

勝海舟との打ち合わせの後、山岡鉄太郎は西郷隆盛が宿泊している駿府(現在の静岡県)の旅館を訪ね、面談を申し込みます。

勝海舟と面識のあった西郷は、山岡鉄太郎が勝海舟の使者だと聞き、面談に応じました。その時にはすでに江戸城総攻撃を315日に行うことが決定していましたが・・・

ところが西郷隆盛は山岡鉄太郎の真摯な態度をみて感心し、江戸城総攻撃を回避するための条件を提示することにしました。

この条件は7つありました。しかし、山岡鉄太郎はその内の1つ、「徳川慶喜を備前藩に預ける」という条件だけは受け入れることが出来なかったのです。

徳川慶喜を守るために家来たちはみんな必死ですね!

山岡鉄太郎が最後までこの条件を受け入れなかったので、この「徳川慶喜を備前藩に預ける」という条件は保留にし、310に山岡鉄太郎は勝海舟の元に帰り、面談の結果を報告しました。

勝海舟と西郷隆盛の会談

江戸開城談判

山岡鉄太郎と面談したのち、西郷隆盛もすぐに江戸に向かい313日には江戸の薩摩藩邸に入ります。

そして313日、14日の2回、江戸の薩摩藩邸にて勝海舟と西郷隆盛の面談が行われました。

歴史の教科書でよく見るあの絵の場面ですね!

実は勝海舟と西郷隆盛が二人きりで会談したように思われることが多いですが、勝海舟側も西郷隆盛側も他に数人の人が同席していたといわれているそうです。

この2人、勝海舟と西郷隆盛は以前出会っており、日本の未来を語り合いお互い信頼する仲でした。

この会談で勝海舟が提示した条件は、以前西郷隆盛が提示した条件とは違い、「徳川慶喜は故郷の水戸で謹慎生活を送る」など、寛大な処分を求めるものでした。もちろん新政府側としては納得できる条件ではありません。

しかし、勝海舟を信頼していた西郷隆盛は、翌日に迫っていた江戸城総攻撃を中止することにしました。

江戸城無血開城が決定した瞬間です。

ギリギリですね!あと1日遅ければ江戸城が攻撃されるところでしたね!

余談ですが、この会談が終わったあと、勝海舟は西郷隆盛に江戸前寿司を陣中見舞いとして送ったそうです。

上等なお寿司だったそうですが、西郷隆盛は1人で食べたのでしょうか!?美味しそうですね。

江戸城の明け渡し・無血開城

勝海舟との会談のあと西郷隆盛は、京都に帰ってから新政府の人々を説得しました。もちろん寛大な処分に反対した人々もいましたが、細かい条件などを話し合い最終的な条件を修正・決定しました。

その後、西郷隆盛はまた江戸に向かい、勝海舟たちと最終的な話し合いを行い、44日には最終合意に達します。

そして篤姫や和宮など江戸城に住む人々は江戸城を退去し、11日には江戸城の無血開城が完了しました。

無血開城とは?立役者や場所などわかりやすく解説!まとめ

江戸城の人々も、江戸の町の人々も、だれも血を流すことなく江戸城の明け渡しができたことは、江戸無血開城の一番の功績でした。

もし江戸城総攻撃が行われていたら、江戸の復興に時間がかかり、その後の日本の近代化は遅れていたでしょう。

それを考えると、現在の日本があるのは勝海舟と西郷隆盛のおかげかもしれません。

お互い信頼しあっていた二人だからこそ、江戸無血開城を成し遂げることができたのでしょう。

もっと無血開城を知りたい方は、2018年の大河ドラマ「西郷どん」でも無血開城の場面が出てきますので、気になる方は是非鑑賞してみてくださいね!

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