みなさんは栗林忠道(くりばやし・ただみち)という人をご存知ですか?
歴史の教科書には登場しないので、聞いたことがない人も多いかもしれません。
栗林忠道は太平洋戦争でもっとも激しい戦いを繰り広げた「硫黄島」で指揮をとった人物です。
日本では、クリント・イーストウッド監督の『硫黄島からの手紙』で一躍有名となりました。
戦局が悪化し、次々と玉砕していく太平洋の島々で、アメリカをもっとも苦しめ、戦史に残る壮絶な戦いを指揮した栗林忠道、彼がどんな人物だったのかをみていきましょう!
軍人としての栗林忠道は成績優秀でアメリカ通
栗林は1891(明治24)年に長野県で生まれました。
小さい頃から頭がよく、中学卒業後は陸軍士官学校へ進み、陸軍大学校を2番の成績で卒業します。
成績優秀だった栗林は、37歳のときに軍事研究のためにアメリカに留学しました。
そこでは研究はもちろん、現地の人との交流を深めたり、様々な都市を訪れ、なんと自ら車を運転して大陸横断までやってのけます。
栗林はアメリカでの生活を通して、その軍事力・経済力の大きさを実感し、日本が絶対に戦ってはいけない相手であることを強く認識していました。
優れた分析力をもち、自分の決断に信念をもつ
留学でアメリカの国力を目の当たりにした栗林は、硫黄島に派遣されると、当時では考えられない作戦をたてました。
それは陣地を海岸から後方に下げ、アメリカ軍を上陸させてから叩く作戦です。
太平洋の島々では、日本軍は伝統的な水際作戦(上陸してくる敵を水際で撃破する戦法)を採用していましたが栗林は兵力の差をふまえ、水際作戦は無意味と考えていたのです!
海軍や硫黄島の陸軍幹部はこれに猛反対しました。
伝統を重んじる風潮が強い幹部たちの中で栗林は孤立してしまいます。それでも、硫黄島を一日でも長く守るために、自分の考えを譲らず、自分の作戦を決行。
結果として、米海兵隊は、それまでの日本軍の攻撃パターンと異なる硫黄島での攻撃に戸惑い、多くの被害を出すことになりました。
栗林の冷静な分析力、孤立しようとも自分の作戦を貫いた実行力が、アメリカ軍を想像以上に苦しめることになったのです。
不便を分かち合い、苦楽を共にする
硫黄島は他の島に比べて生活条件が非常に劣悪でした。
とりわけ兵士たちを悩ませたのが、水と食料です。川も湧水もないため、水が非常に貴重で、栗林は兵士たちに水の浪費を厳しく禁じました。
しかし島での兵士たちの作業は、硫黄ガスによる頭痛や吐き気、亜熱帯の暑い気候に悩まされながら地下道を掘っていたのだからそれはもう過酷でした!
兵士たちは1日に水筒の水たった1本で、この過酷な労働をしていたのですからかなり悲惨な状況だったことは想像できますね!
栗林は上官なので、部下より多くの水を飲むこともできましたが、あえて同じように水筒1本で1日を過ごしました。
また、栗林は乗馬の名手でしたが、硫黄島にいたときは一度も馬に乗らず、徒歩で島を巡回したそうです。
その理由は「馬を歩かせれば水をたくさん飲んでしまうから」。栗林の人格がよくわかるエピソードですよね。
食事に関しても、栗林は部下の栄養状態を知るために、同じものを同じ量食べました。
ふつう最高指揮官は兵士よりも多く食事が用意されますが、栗林はそれを断り食事の当番兵を困惑させたそうです。
あえて不便を選び、辛い境遇の兵士たちと同じ立場にたつ最高指揮官の姿に、部下たちは感動!今でも栗林忠道が語り継がれる由縁はこんなところにあるんでしょうね!
手紙からみた栗林忠道はどんな人物だった?
軍人として非常に優秀だった栗林ですが、意外にも絵が得意で、非常に筆まめな人でした。
硫黄島からも8か月で41通もの手紙を書いています。
第二次世界大戦のとき、軍人たちが家族にあてた手紙は、厳しい検閲もあり、淡々として簡潔なものが多いようです。し
かし、栗林が家族にあてた手紙は、いつも紙面いっぱいに字が書かれていました。
妻を気遣う心優しい夫
栗林は硫黄島から、妻にあててどんな手紙を出したのでしょうか。ほんの一部ですがみてみましょう。
「女中が居らないのはほんとに困りものだね。
世が世だったなら今頃は二人位は置いて楽をさせたい所だったに全く仕方がないね。…私も余り心配しているせいか、此の間はお前さんが大変やつれて眼ばかりギラギラ光っている様子を夢に見てしまったのだよ。
按摩(あんま)さんは頼んでいるだろうか?お風呂も一週二回位は沸かして血のめぐりをよくする様にしないと、動脈硬化にもなるでしょう。」(昭和19年10月4日付)
「冬になって水が冷たく、ヒビ、赤ギレが切れるようになったとの事、ほんとにいたわしく同情します。
水を使った度に手をよくふき拭い、熱くなるほどこすっておくとよいでしょう。」(昭和19年12月11日付)
栗林はいつも妻の身体を気にかけていました。
妻の手荒れを心配したり、丁寧に生活のアドバイスを送る文面からは、彼が水も食料もなく、連日空襲にさらされる戦地にいたとは思えません。
また、東京の空襲のことも気にして、避難の方法もよく手紙に書き記しました。
子どもを愛する父
栗林は、妻だけでなく、3人の子どもにも頻繁に手紙を出していました。
「たこちゃん!元気ですか?お父さんは元気です。…信州の寒さは東京とは比べものにならない位寒いから、よほど気を付けないと風を引きますよ。
寒いと思ったらあつ着をするがいいでしょう。それから「おこた」にあたってうたた寝をすると風を引き易いから、そんな事ない様にしなさいね。」(昭和19年11月17日付)
「たこちゃん」というのは、三人兄弟の末っ子のたか子のことです。まだ小さかったので、家族の中で一人長野へ疎開させていました。母と離れて暮らすたか子が寂しくないよう、栗林はこまめに手紙を出し、生活のアドバイスを送ります。
一方、栗林が硫黄島に派遣されている間に20歳を迎えた長男に対しては、人として大切にしてほしいことを書き記しました。
「人間として智徳を研(みが)く事は何より大切であるから、戦時中だろうか何だろうが己れの学業をいい加減にする事はよくない事だ。毎日の勤労作業で勉強する気にもなれまいとは思うが、そこをよく考え一心不乱に実力を養い志業を全うしなくてはならぬ。」(昭和19年11月2日付)
「家に居る時は母や妹達と愉快に話しをし、時に冗談の一つも飛ばして家の中を明るくする事が大切である。」(昭和19年10月10日付)
太平洋戦争では、20歳未満の若者が兵士として戦場に行くことも多くありました。栗林も、息子が兵隊へ行っていないかを妻への手紙の中で確認するなど、心配していたようです。
息子への手紙の中では、戦争を生き抜くことを前提に、学業の大切さを説くのと同時に、家を明るくすることの大切さも伝えていました。
こうした家族への手紙から、栗林の愛情のこまやかさが伝わってきます。
栗林忠道・海外からの評価は?
太平洋戦争では、多くの島々で日米の壮絶な争いが繰り広げられました。しかし、そこで戦った指揮官たちの多くは、名前を知られることがありません。
そんな中で、栗林忠道の名は特にアメリカで多くの人に知られることとなりました。その理由は、栗林の作戦のもとで、硫黄島がアメリカの予想をはるかに超える死闘を繰り広げたからです。
硫黄島は、当初のアメリカの想定では5日あれば占領できる島でした。
硫黄島の日本兵が約2万だったのに対し、アメリカは約11万の兵士を引き連れて硫黄島に向かいます。
しかし、それまでの日本の伝統的な戦法とは違う方法で迎え撃った栗林の作戦に翻弄され、アメリカ兵は多くの犠牲を出しました。
アメリカでは連日この戦いが報道され、「硫黄島」と「栗林忠道」の名は全国民の知るところとなりました。
硫黄島での日本兵の犠牲者は、戦死約1万9000人、捕虜約1000人。
一方アメリカ兵は戦死約7000人、戦傷約2万2000人でした。
太平洋戦争でアメリカが攻勢に転じてから、日本軍よりもアメリカ軍の被害が大きかった戦場は、この硫黄島だけでした。
硫黄島で戦ったアメリカの軍人たちも、栗林について語っています。
アメリカ太平洋艦隊司令長官のチェスター・W・ニミッツ海軍大将は、「(栗林が硫黄島を)太平洋においてもっとも難攻不落な八平方マイルの島要塞(にした)」と栗林の作戦を評価しました。
また、アメリカ海兵隊の軍人ホーランド・M・スミス中将は
「この戦闘は、過去168年の間に海兵隊が出合ったもっとも苦しい戦闘の一つであった。…太平洋で相手とした敵指揮官中、栗林は最も勇敢であった。」
とアメリカを最も苦しめた闘将として栗林を称賛しています。
遺体はどうなったのか
硫黄島は、日本兵の95%が戦死する壮絶な死闘を繰り広げました。その95%の中には、最高指揮官として戦った栗林も含まれています。
では、栗林の遺体はどうなったのでしょうか。彼は生前から、家族への手紙でも遺品・遺骨は届かない事があると伝えていましたが、実際にその通りとなりました。
5日で落ちるといわれた硫黄島は、36日間も持ちこたえます。
その最後の日、栗林は部下を率いて突撃攻撃を行い、硫黄島の戦いは幕を閉じました。
戦闘の後、敵将の敢闘ぶりに敬意を表した米軍が遺体を捜索しましたが、階級章を外していたため発見できなかったそうです。
栗林の遺体は、部下の兵士と同じく、誰のものとも分からぬ骨として、今も硫黄島に眠っています。
なんだかすごくせいつないお話ですよね。
栗林忠道はどんな人物だったのか解説!海外からの評価がすごい・まとめ
栗林忠道は、太平洋戦争において、アメリカを最も苦しめた軍人でした。
硫黄島の戦いは、日米あわせて戦死者2万6000人、戦傷者2万3000人を出す壮絶な戦いを繰り広げました。
そんな死闘を指揮した栗林ですが、家族にあてた手紙からは、戦争がなければ、妻や子どもの側にいて、家族を幸せにしたいと願う、一人の心優しい男性だったことが分かります。
幸せに暮らすはずだった家族から大切なものを奪う戦争を二度と繰り返してはならない、栗林忠道が家族にあてた硫黄島からの手紙を読むと、そんな思いが深くなるのです。
参考文献
梯久美子著『散るぞ悲しき 硫黄島総指揮官・栗林忠道』株式会社新潮社、2005年
栗林忠道著『栗林忠道 硫黄島からの手紙』東京文藝春秋、2009年