東條英機はいい人だった?逸話やエピソードをご紹介・命をかけて天皇を守りたい!

  • URLをコピーしました!
スポンサーリンク

みなさんは東條英機を知っていますか?

陸軍の軍人でありながら、40代の内閣総理大臣を務めた人です。

太平洋戦争の開戦を指揮し、戦争を継続した責任者ということで、戦後の極東国際軍事裁判ではA級戦犯として死刑にされます。

こうした経歴や残されたエピソードから、あまりいいイメージをもたれていません。

しかしここでは、東條は本当に悪い人だったのか、彼のエピソードを通して考えてみたいと思います!

スポンサーリンク
目次

無類のメモ魔 カミソリ東條

東条英機は、陸軍の軍人から首相に選ばれた男です。

軍人というと、なんとなく、やみくもに力で押し通すような強引なイメージを持ってしまいますよね。

しかし、東條は切れ者で「カミソリ東條」というあだ名がつけられていました。

無類のメモ魔で、部下の報告は必ずメモを取り、それを事項別、年月日別に分類していたそうです。

また、メモの他にも用途別に手帳を3冊も用意していました。

これらの手帳は半年ほどで、1冊を書き終えていたそうですよ。とてもマメな性格だったのでしょうね。

メモ魔東條の悪い評価

メモをとること自体は悪くないのですが、東條の場合は行き過ぎだったようです。

とにかく何でもメモして、さらにそれを分類するために書き写していたせいか、彼の生活は仕事ばかりで、趣味や遊びといえるものが全くありませんでした!

読書すらしなかったそうです。というかメモの処理のせいで読書する時間もとれなかったのでしょうね。どんだけ〜!

軍人としてはそれで良かったかもしれませんが、一国の総理大臣であれば、政治書や文学書、良識的な啓蒙書など様々な分野の本に触れ、広い視点から日本を導いてほしいですよね。

メモ魔東條のいい評価

しかし、メモをまとめたり分類することは、頭だけでは処理しきれない情報を整理し、効率的に仕事をすることに大いに役立ちます。実際に東條は、誰よりも様々な軍務を理解し、仕事が非常にはやかったそうです。

東條は陸軍大将でありながら、総理大臣、陸軍大臣、商工大臣、軍需大臣、参謀総長など、多くの大臣を兼任しました。

こんなに重要なポストをいくつも任せられるなんてすごいですよね!それほど東條が優秀で、誰よりも仕事を理解していたということです。

人事大好き人間の東條

東條は、人事を動かすのが大好きでした。

政務室の大きな机に各省の人事配置図を広げ、「この人物をこっちに持っていき、こいつをこっちに呼び戻すか」と鉛筆で書きこむのを何よりも楽しみにしていたそうです。

人事大好き東條の悪い評価

この東條の人事については、よくなかったと評価する人がたくさんいます。

それは、東條が自分の言うことをよく聞く部下を周りに固め、自分の考えと異なる意見を主張する人物を重要なポストから外していたからです。

例えば、アメリカに駐在していた経験からアメリカとの国力の差を冷静に判断し、戦争は絶対にしてはいけないと忠告してくれた人物もいましたが、東條はこういう意見をいう人を意思が弱いとはねのけてしまいました。

しかし自分にとって耳が痛いくらいの意見の方が、本当は大切ですよね

こうして身の回りにイエスマンばかり置いて、本当に必要なアドバイスを自ら遠ざけてしまいました。

人事大好き東條のいい評価

自分にとって都合のよい人事をすることが多かった東條ですが、その東條の人事に助けられた人もいました。

柄澤好三郎という首相専属のドライバーをしていた人がいます。彼に戦争の召集令状が届いたとき、東條は「柄澤は戦争に行くより重要な仕事をしているんだ。行かなくてよい。」と手続きをして戦争に行かなくていいようにしたそうです!

自分の周りにいる人や部下に対しては、面倒見がよかったんですね。

ごみ箱をのぞいた東條

東條のエピソードでよくでてくるのが、散歩のときに家々のゴミ箱をのぞいていたというものです。

東條が家庭のごみ箱をのぞいていたことは、当時の新聞にもとりあげられました。

配給が報告通りに行われているかの確認や、国民の生活の実情を知ることが目的だったそうですが、それでも、人の家のごみ箱をのぞくという行為は、あまりいいものではありませんよね。

ごみ箱をのぞいた東條の悪い評価

案の定、このごみ箱をのぞくという行為は、人気取りのアピールととられたり、ごみをのぞく前に、他にやるべきことがあるだろう、といった批判が多く出ました。

確かに、総理大臣が一般家庭のごみをのぞくというのは、おかしい気がします。

首相として他のやるべきことをしろという批判も、納得がいきますね。

ごみ箱をのぞいた東條のいい評価

しかし東條の身近に仕えた人たちは、彼のこの行為は、国民の生活が苦しくないかを心配していたが故の行動で、人気取りのためじゃないと口をそろえて言います。

実際、東條は国民の生活を知るために、わざと私服で下町の配給所にこっそり並び、町の人と打ち解けて不満や苦情を直接聞くこともあったそうです!

首相が直接話を聞いてくれるなんて、当時の国民はうれしかったでしょうね。

また、こんなエピソードもあります。

マレー半島を手に入れ、天然ゴムの入手が容易になると、東條は子どもたちにゴムまりを配給しました。

戦争で一番辛い思いをしているのは子どもだからという、彼なりの思いやりでした。

ごみ箱のエピソードだけだと誤解してしまいますが、彼が国民に寄り添おうとしていたことは確かなようです。

開戦2日前、一人泣いた東條

太平洋戦争開戦2日前の深夜、首相官邸の一室で皇居に向かって正座していた東條は、号泣していたそうです。

この衝撃的な姿を目撃していたのは、妻のカツでした。首相専属のドライバーも、開戦前の東條は、緊張でひきつったすさまじい顔をしていたと話しています。

東條は首相として、太平洋戦争の開戦という歴史的な瞬間を迎えることになりました。

開戦を避けられなかった東條の悪い評価

太平洋戦争については、東條以外の人が総理大臣だったとしても、避けることはできなかったと言われています。

しかし東條には、戦争をしないための外交努力が足りませんでした。

戦うしか道がないとなったら、勝つことだけに目を向けてしまったのです。途中でやめるという選択肢があれば、被害はもっと少なくすんだのかもしれません

そのうち「負けを認めたら負け、認めなければ負けでない」など精神論を唱えるようになり、現状を正しく認識できないまま、被害を大きくしながら敗戦へと向かっていきました。

開戦を避けられなかった東條のよい評価

実は首相になる前の東條は陸軍の中でも、米英との戦争を声高に叫ぶ開戦派の人でした。

それがなぜ開戦前に涙を流したのか。

その理由は天皇にあります

昭和天皇が戦争を望んでいないと知っていた東條は首相になると、天皇の意向をくんで、戦争を回避しようとしました。しかしそれができなかったという負い目があったのでしょう

悔しさや責任の重さは、私たちには想像できないほどです。

戦後、彼は敗戦の責任をとって自殺しようとします。

しかし日本を裁く極東裁判において、もし東條がいなければ、戦争の責任が天皇に及ぶかもしれないと諭されました。

結局、拳銃自殺に失敗した東條は、裁判において「戦争は自分一人の責任であって、陛下には何の御責任もない」と言って死刑になります。最後は天皇を守って、すべての責任をとりました。

東條英機はいい人だった? 逸話やエピソードをご紹介まとめ

東條のエピソードには、悪い部分もいい部分も両方あります。

首相としてはよくない部分もあったものの、軍人として、あるいは一人の人間としてはすばらしいところが沢山あったのだと思います。

みなさんもぜひ、一面だけではなく、様々な側面から歴史上の人物をみてみてください。歴史の教科書だけでは分からなかったその人の意外な人柄がみえてくるかもしれませんよ。

柄澤好三郎,NHK取材班『バックミラーの証言 20人の宰相を運んだ男』日本放送出版協会,1982保阪正康『昭和の怪物 七つの謎』講談社現代新書,2018
楳本 捨三『東條英機・その昭和史』株式会社秀英書房,1979

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!
目次