足利義満の功績をわかりやすく解説!折り紙やジャンケンも義満のおかげ?

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歴代足利将軍の中でも1、2を争う程の知名度を誇る足利義満。

武家の人間でありながら煌びやかな着物に身を包み、堂々とした風格を放つあの肖像画は1度見たら忘れられません。

また金閣寺の創設者でもあるので、ほとんどの人が足利義満=金閣寺の人!と連想されることでしょう。

しかし知名度こそ高いものの、金閣寺以外に義満が何をした人なのかについて知っている人は多くありませんよね〜。一休さんで顔走れつつも知名度も人気度も最悪の義満。

そこで今回は足利義満が生前成し遂げた功績をご紹介していきたいと思います!

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目次

足利義満ってどんな人?実はまじすげえ功績の持ち主!

足利義満とは室町幕府の3代目将軍です。

1358年に2代目将軍足利義詮と側室の紀良子(きのよしこ)との間に誕生しました。

1368年、義満は10歳の若さで征夷大将軍に任命され、1392年に南北朝の合一が成されます。

2年後の1394年には太政大臣に就任、翌年1395年にはさらに自由に政治を動かすために出家しました。

日明貿易と室町時代の安定期

そして1401年、自由な立場を得た義満は日明貿易を開始します。

この貿易により国内の経済は潤ったと言っても過言ではありませんよね。結構、大事なことやってのけてるんですよ!

義満の治世はいわゆる室町時代の安定期と言われており、大内義弘や山名氏清など多くの有力大名の討伐にも成功しています。意外にも戦に強かったんですね(Д)

義満の圧倒的な権力はその後も留まるところを知らず、ついには時の天皇をも凌駕する権力を手に入れてしまいました。

晩年の義満は天皇家を乗っ取ろうとしたのではないかとも言われています。

しかし1408年、息子の足利義嗣が元服した数日後に義満は急死してしまうのです。彼の死には多くの謎が残されており、一説によると暗殺されたのでは?という話もあります。

このように義満は非常に濃い生涯を送った人物なのです。

足利義満の功績その1!南北朝合一しちゃった!

そんな興味深い義満ですが、彼は南北朝時代を終わらせた人物として知られています。

この頃の日本は朝廷が南朝と北朝の2つに分かれていた南北朝時代。

義満の祖父である足利尊氏と後醍醐天皇との争いから端を発した南北朝時代は半世紀ほど続き、国内ではどこもかしこもいくさが勃発していました。

そこで義満は朝廷を1つにまとめ、戦争を終わらせようと画策したのです!

南朝の衰退で和議を提案

この頃南朝側は相次ぐ有力武士の死に見舞われ、また義満自身が各地の有力大名を次々と弱体化させたのも相まって衰退の一途を辿っていきます・・・・

義満は有力守護大名の大内義弘を仲介役として南朝に和議を結ぶことを提案します。

そして1392年、南朝側の後亀山天皇は両統迭立(南朝と北朝が交代で即位をすること)を条件に、北朝側の後小松天皇に三種の神器(天皇の皇位の証みたいなもの)を渡し、両朝廷はついに合体しました。

尊氏も義詮にも成し遂げなかった南北朝の合体を義満は見事成し遂げることができたのです。

その後両統迭立の件は果たされず、天皇は北朝側から即位していくこととなりました。

結果として南朝側は騙されてしまったので、以後も幕府や朝廷に反抗する後南朝という人達が登場していきます。

このようにやり方は少々強引だったものの、朝廷が1つにまとまり、争いを終焉させたという点から多くの歴史学者には評価されているんですよ!

足利義満の功績その2!北山文化が素敵すぎ

義満は流行に敏感だったので、良いと思ったものは進んで取り入れていました。

それは芸術の面でも例外ではなく、有能な人材だと分かれば身分の差に関わらず重用していったのです。

そんな彼らによって築かれた文化があの「北山文化」とよばれるものです。

北山文化とは煌びやかな公家文化と荘厳な武家文化、そこに日明貿易による中国の文化が融合されたもので、義満の邸宅である「北山山荘」からその名がつけられました。

「能」が盛んになったのは義満のおかげだった!

何といっても有名なのはでしょう。能役者の観阿弥・世阿弥親子を義満が庇護したのは有名ですよね。

能とは元々民衆の間で行われた猿楽から派生されたものですが、世阿弥により大成され、今日の能に繋がっているとか。日本人の美意識を表現する「幽玄」を基調とした優雅な伝統芸能として今なお人々に愛されています。

さて、北山文化というとこのような絢爛豪華な貴族文化であるというイメージを持たれると思いますが、意外にも庶民文化に影響を与えてもいるんです。

実はジャンケンや折り紙も北山文化?

例えば私たちがよく目にする折り紙や風呂敷のルーツが実は北山文化だったり、じゃんけんやすごろくなどの庶民文化が広まったのもこの時代だったりします。

(ちなみに庶民文化が広まった背景に後述する日明貿易があります。日明貿易で得た多くの調味料による食文化の発展により、庶民の寿命が延びたんだそう。

義満の先見的で実力主義的なところがプラスに働き、多くの有能な人材が登用され、文化が発展していきました。またその文化が庶民にまで浸透し、現代日本の和風文化が培われていったのです。

分け隔てることなく、良いと感じたものを受け入れる彼の姿勢は私たちもぜひ見習うべきですね!

足利義満の功績その3!義満最大の作品・金閣寺

文化つながりでもう1つ。

恐らくほとんどの人が足利義満=金閣寺の人と連想することと思います。

実はあそこは鹿苑寺というお寺なので、正確には鹿苑寺金閣と呼びますね。

黄金に輝くあの建物は現代の私たちにとってもインパクト大。そんな金閣は3階建てなのですが、階ごとに様式が異なります。

1階は公家の邸宅によく用いられる寝殿造り、2階は武家造り、3階は禅宗の仏殿造りとなっています。

そして金閣寺をよく見ると分かるのですが、1階部分にのみ金箔は貼られていないのです。

これはお金が足りなかったからではなく、「俺たち武士は公家よりも上なんだぜ」というメッセージが暗に示されているのです。要は義満の嫌味です()

ところでなぜ3階は禅宗の仏殿造りなのでしょうか?

禅宗は元々中国から渡ってきた宗派なので、端から見ると公家<武士(義満)<中国のお坊さんというような力関係のように思えますよね。

ですがこの3階は、実は義満そのものを表しているのだそう。

というのも義満はこの頃出家しており、また中国文化に傾倒していました。

義満の脳内では

「自分は出家している→自分は中国が好き→自分は日本人だけどある意味中国人のお坊さんでもある(^o^)!」

という屁理屈を考えていたそうです。

つまり正しくは公家<武士<義満となるわけです。

まさかあの建物の背景にこんな思惑が潜んでいたなんて義満の想いを踏まえて金閣寺を眺めてみるとまた違った面白さが出てきますよ(^^)

足利義満の功績その4!五山・十刹制度

宗教界では五山・十刹制度なるものが登場しました。

これは中国の五山制度を日本風にアレンジしたもので、今風に言うと格式の高いお寺ランキングトップ5!みたいな感じです。

もともと鎌倉幕府が採用した制度ですが、徐々に改正され義満の時代に完成されたのです。

ランクインされたお寺はいずれも臨済宗(幕府イチオシの宗派。主に武士に支持されていた)であり、京都五山と鎌倉五山とに分かれています。

京都五山は室町幕府と関わりが深いもの、鎌倉五山は鎌倉幕府と関わりが深いものが多い印象ですね。

義満は各寺院を以下のようにランク付けにしました。

京都五山
  • 第一位 天竜寺(足利尊氏が創立)
  • 第二位 相国寺(足利義満が創立。生前は第一位だったが義満亡き後第二位となる。)
  • 第三位 建仁寺(源頼家が創立。京都の中で最も古い臨済宗派のお寺)
  • 第四位 東福寺
  • 第五位 万寿寺
鎌倉五山
  • 第一位 建長寺(北条時頼が創立。日本初の臨済宗派の寺院。)
  • 第二位 円覚寺(北条時宗が創立)
  • 第三位 寿福寺(北条政子が創立)第四位 東福寺
  • 第四位 浄智寺(北条師時が創立)
  • 第五位 浄妙寺(足利義兼が創立。ちなみにこのお寺には尊氏の父である貞氏と、弟の直義のお墓があります。)

この下に十刹、諸山、林下と続いていくのですがここでは割愛いたします。

またこれらの上には別格の存在である南禅寺が含まれています。

南禅寺は鎌倉時代に活躍した亀山法皇が創建したお寺なのですが、もともと彼の子孫である後醍醐天皇がこのお寺を五山の第一位と定めていました。

ですが義満が自身の作った相国寺を第一位にするためにわざわざ南禅寺を別格の存在として位置づけたのです。

義満の負けず嫌いな性格は宗教界隈にまで影響を及ぼしたそうです()

足利義満の功績その5!日明貿易

義満と言えば日明貿易も有名ですよね。字が書かれたお札同士を合わせるというアレです。勘合貿易とも呼ばれていますね。

この貿易は結果として幕府の財政を潤わせ、また国内で貨幣経済の発展を促すこととなりました。

日明貿易というのは日本と明の間で行われた朝貢形式の貿易です。

朝貢とは中華思想が根底にあるのですが、簡単に言うと中国の属国にならなければ貿易ができないというシステム。

この頃明では海禁政策というのを実施しており、各国のトップとのみ貿易ができると決まっていました。そのため貿易をするには日本のトップにならなければなりません。

そこで義満は以前より自由な立場を得るため1395年突然出家し、天皇の臣下から脱却します。自由になった義満は自らを「日本国王」と名乗り、貿易を試みます。

そして1401年、「日本国准三后源道義」として明の属国となる形で日明貿易が始まりました。

日明貿易の輸出品は主に武器や銅や硫黄、輸入品は明銭や生糸や織物などでした。

特に生糸や織物は先述した北山文化に影響を与えることとなります。またこの時輸入された明銭により、国内では貨幣経済が浸透していきました。

貨幣は既に国内で出回ってはいましたが、この頃はまだ物々交換も盛んに行われていました。

そして貿易により明銭が大量に輸入されたことで、貨幣の流通がさらに広まったのです。

貨幣経済の浸透は物の行き来がスムーズになり且つ金銭に余裕が出るので、ぜいたく品が売れやすいというメリットがあります。

幕府のみならずみんなにとって利益をもたらしたため、日明貿易は大成功という結果に終わります。

この貿易は朝貢という形式で行われていたため、義満に対する周囲の不満も少なくありませんでした。

ですがこの貿易によって幕府の権威はさらに上がり、文化も栄え、貨幣も流通し、国内の経済も潤ったのです。

足利義満の功績をわかりやすく解説!まとめ

義満は南北朝時代を終焉に導いたことや、北山文化や日明貿易による功績から有能な人物であったと評価されています。いずれも型破りで柔軟な考えを持つ義満だからこそ成し得た所業でしょう。

彼に不可能なことは何一つなく、死の間際までその絶対的な権力を持ち続けました。

横暴な行為やわがままな性格が批判されることも多い人物ですが、我が道を行く堂々とした振る舞いと常識に捉われぬ大胆な性格は格好良ささえ感じられますね!

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