第二次世界大戦のあと、戦争に勝利した連合国軍によって、戦争犯罪を裁く東京裁判が行われました。
この裁判で裁くため、日本で一番はじめに逮捕されたのが、東條英機です。
歴史好きの方なら東條英機が本当に戦犯だったのか?アメリカの勝手な判決に不満を感じる方も多いようですね!
今日は日米開戦時に首相を務めた東條英機がなぜ戦犯にならなければいけなかったのか理由をみていきましょう!
負けた国が戦争の責任を問われる時代
「戦犯」という言葉、あまり聞きなれませんよね。
私たちからすると、戦争自体が犯罪のように感じますが、不思議なことに戦争をすること自体は罪にあたりません…。
では何をすると犯罪になるのか?さっそくみていきましょう。
戦争犯罪とはなにか
そもそも「戦犯」とは、戦争犯罪や戦争犯罪人のことをさします。
戦争には決まりがあり、それをやぶると戦争犯罪、つまり戦犯といわれるのです。
どんな決まりかというと、残虐な行為をしてはいけない、捕虜(戦争で敵に捕らえられた人)を虐待してはいけない、などがあります。
第二次世界大戦のあとは、これに加えて、不法に始めた戦争の計画・準備・開始・実行することも罪に問われました。
戦犯を裁くのはいつから始まった?
戦争に勝利した国が、負けた国の戦争犯罪を裁くというのは、第一次世界大戦の頃から考えられるようになりました。これが実際に行われるのが、第二次世界大戦のあとです。
連合国は、ドイツの残虐な行為に対して、責任者を処罰しなければならないと考えました。そして行われたのが、ナチス・ドイツの戦争犯罪を裁いたニュルンベルク裁判です。
この裁判のあと、中国などが、日本に対しても同じように裁判をするよう要求しました。こうして日本の戦争犯罪を裁く東京裁判が開かれます。
東條英機はなぜ戦犯になった?
東京裁判において、誰を戦争犯罪人として裁くのかを決めたのは、アメリカでした。
アメリカが一番はじめに戦犯容疑者として逮捕したのが、東条英機です。なぜ、彼が戦犯とされたのか、その理由をみていきましょう。
日本が戦争でしたこと(違法な戦争の開始)
東條英機は、陸軍の軍人として活躍し、日米開戦の直前に第40代内閣総理大臣になりました。
「英米との戦争は避けたい」という天皇の思いを知っていた東條は、戦争を回避しようとしますが、経済制裁などで追い詰められて、日米開戦への舵をきってしまいます。
このとき日本は、アメリカに宣戦布告をする前に攻撃をしてしまいました(真珠湾攻撃)。宣戦布告の前に攻撃することは、戦争の決まりに反しています…。
まあ、真珠湾攻撃はアメリカの罠だったと言う説もありますが。
日本が戦争で行った捕虜への虐待!
日本は戦争中の捕虜の扱いにも問題が多くありました。
「バターン死の行進」や「泰緬鉄道建設の捕虜虐待」を聞いたことがありますか?
バターン死の行進では、アメリカ軍やフィリピン軍の捕虜約1万人が、徒歩で収容所に移動する際に、マラリアや飢え、疲労が原因で命を落としています。
泰緬鉄道の建設では、オーストラリア・イギリス・アメリカなど連合軍の捕虜約1万2000人以上が、過酷な労働をさせられ、伝染病や飢えで命を落としました。
こうした事件以外にも、捕虜収容所で虐待された捕虜が数多くいます。
日本では捕虜になると殺されるという噂が広まっていたため、反対に、捕まえた捕虜に対する扱いもひどくなることが多かったようです…。
東條が戦犯になった理由
第二次世界大戦のときの日本の行為は、戦争犯罪にあたることがいくつもありました。
連合国は、こうした戦争犯罪の責任を、日米開戦のときの首相であった東條英機に求めたのです。
東條は、侵略戦争や国際条約などに反する戦争を計画・準備・開始・実行した「平和に対する罪」の責任を問われました。
他にも、日本の捕虜に対するひどい扱いについて、責任ある立場だったにもかかわらず、なんの措置もとらなかったということで、死刑判決が下ります。
東條の死刑に反対した人たち
東京裁判で判決を下した11人の判事の中には、東條の死刑に反対した人もいました。インド代表判事のパルや、フランス代表判事のアンリ・ベルナールです。
パル判事は、東京裁判自体の正当性を批判して、無罪を主張。
ベルナール判事は、戦争責任は天皇にあって東條には責任がないと無罪を主張します。
しかし、こうした意見は、少数意見として受け入れられませんでした。死刑という大きな決定を多数決で行うなんて、ひどい話ですよね…。
東條が守り、戦犯を免れた天皇
判事たちの中でも、判決に対する意見は分かれていたにも関わらず、死刑になってしまった東條英機。
彼が死刑になるのは、最初から決まっていたという見方もあります。
戦争責任を問われなかった人物
第二次世界大戦といっても、日中の衝突から日米開戦まで、首相は何度か変わっています。
東條が首相になったときも、すでに政治は行き詰まっており、誰が首相になっても戦争が始まっていたといわれるほどです。そんな状況なのに、東條に責任を負えというのは、無理があるような気もします。
しかし、第二次世界大戦の中で、ずっと大きな権限をもっていたにも関わらず、東京裁判で裁かれなかった人物がいます。それが、昭和天皇です。
天皇の責任を問わなかったアメリカの事情
実はアメリカでは、東京裁判において天皇の戦争責任をどうするか、という話し合いがありました。
これに関しては、日本における天皇の存在の大きさを考慮し、日本の占領統治をうまく進めるために、天皇は必要な存在だと判断されます。
確かに、天皇を裁判にかけてしまえば、日本国民は猛反発し、占領統治は失敗していたかもしれません…。
こうしたアメリカの事情もあり、天皇の戦争責任は問わないことにしたのです。
昭和天皇を無罪にするための工作
天皇の戦争責任は問わないといっても、天皇に罪がないことを証明しなくてはなりません。そこで考えられたのが、東京裁判で戦犯の容疑者たちに、天皇には戦争責任がないと語ってもらうことでした。
しかしこの証言は裏を返せば、戦争の責任は自分たちにあると認めるようなものです。自分からすすんで引き受けるのは、とても勇気と覚悟がいりますよね…。
東條の苦悩
証言の依頼は東條のもとにもありました。
「この戦争は私が陛下の命令に背いて始めたものだ」そう証言を頼まれた東條は、非常に悩みます。
彼が悩んだのは、「陛下の命令に背いて」という部分です。
東條は自分が死刑になる覚悟はできていました。しかし、天皇に忠心を誓っていた東條にとって、陛下の命令に背いたと証言して死ぬとなれば死んでも死にきれない…、そう感じていたのです。
はじめのうちは断っていた東條ですが、このままでは天皇に責任が及ぶと考え、とうとう証言に応じます。
彼は「戦争は自分の内閣において決意した」こと、「天皇の意思とは反したかもしれないが、自分や統帥部、その他責任者の進言で、(天皇は)しぶしぶご同意になった」と証言しました。
この証言により、天皇の戦争責任を問わないことが正式に決まります。そして反対に、東條は「平和に対する罪」の責任を問われて死刑が決まったのです。
東條英機が戦犯になった理由が悲しい!天皇を守るために自分が死ぬ!まとめ
東條英機が戦犯になった理由、それは、戦争の開始や捕虜に対する虐待の責任を問われてでした。
しかしこうした出来事は、それ以前の政治の積み重ねや、その場所にいた軍人の行いの結果であり、日米開戦時に首相であった東條だけの責任ではありません。そもそも、裁判をひらいて、特定の誰かだけが責任を負うということに無理がある気もします。
戦争の責任が誰にあるのかを考えれば考えるほど、責任をとることができないからこそ、戦争をしてはならない、そんな思いに至るのではないでしょうか。
参考文献
『A級戦犯 戦勝国は日本をいかに裁いたか 特集・東京裁判』東京新人物往来社,2005年
『考証東京裁判 戦争と戦後を読み解く』吉川弘文館,2018年・前田朗著