みなさん、こんにちは。
第二次世界大戦の中でも激戦といわれた硫黄島の戦い。
ニミッツ提督の指揮のものとアメリカ兵も莫大な犠牲者をだし陥落はしたものの決してアメリカ兵にとっても手放しに喜べない勝利となったのです。
硫黄島の戦い・アメリカの犠牲者の数がすごい
硫黄島の戦いで、日本兵の数は約2万3000人。
一方、アメリカ兵は約11万人。日本兵の五倍のもの兵士を引き連れ、アメリカ軍はあっというまに占領できるだろうと意気揚々に硫黄島に攻めてきたのでした。
当初、アメリカ軍は硫黄島占領まで5日間を想定していいましたが、この戦いなんと36日間も続いたのです!
硫黄島の戦いで、日本軍はの兵士は20,933名。
そのうちおよそ18000名が戦死したとされています。また捕虜となった人数は200名、終戦までを合わせると1,023名でした。
アメリカの犠牲者は当初、日本軍の5分の1程度だとしていましたが、アメリカ国民から詳細な犠牲者の数が知りたいとの要望が殺到したためミニッツ提督は再度犠牲者を公表しなおしました。
ミニッツ提督はアメリカ兵士の戦死者4,189人、行方不明441人、負傷者15,308人としました。
しかし、実際の被害者を正確に調査することは難しく、ほかの分析によるとアメリカ兵の死者約7000人、戦傷約2万2000人という大きな被害がでているとの情報もあります。
ただ硫黄島の戦いはアメリカ軍勝利でおわったものの犠牲者だけでいうとアメリカ兵のほうが遥かに多くこの失態のせいでニミッツ提督はマッカーサーからいやというほど嫌みを言われました。
この硫黄島の戦いはアメリカのニュースでリアルタイムで放送され、アメリカ国民は日本兵のしぶとく、恐ろしいほどの執念を見せつけられたのです。
またそれと同時に一躍、栗林忠道という名前もアメリカ国民の知るところとなったのです。
硫黄島の戦い・硫黄島までの戦いの流れ
1941年12月の真珠湾攻撃で始まった日米間における太平洋戦争は、開戦当初は日本の連戦連勝によって進んでいきました。
そのため、開戦当初の日本の国民はこのまま勝利を続け、連合国軍が降伏するのもそう遠くはないと思っていました。
政府も、緒戦の華々しい勝利に酔いしれ、米英を徹底して打倒せよという強硬論一色に染まっていってしまいます。
しかし、この連勝も長くは続きませんでした。
真珠湾攻撃で甚大な被害を被ったアメリカは、“Remember Pearl Habour”(真珠湾を忘れるな)を合言葉に、太平洋戦争に後ろ向きだった世論を動かします。
またアメリカ国内では日本に対する反抗の機運が国内で高まっていきました。
そして、1942年6月のミッドウェー海戦でアメリカの強大な軍事力をまざまざと見せられ、戦いで大敗したことによって日本の戦況は悪化の一途をたどっていくのでした。
一般的に、日本の敗戦は1943年時点で自明のものとなっていたといわれ、同年にはカイロ会談が行われ、戦後処理の道筋も示されていました。
実際、1943年以降の太平洋戦争は日本の抵抗とアメリカの侵攻という側面からのみ進んでいきます。
日本国内では日本の勝利が伝えられていましたが、ミッドウェー海戦後の日本は防戦することができず、敗戦の時期を探ることしかできませんでした。
こうした中で、1945年2月に「硫黄島の戦い」が始まります。
硫黄島の戦い・その戦いの影響とは!
硫黄島の戦いで敗戦した日本にとってその後の経過はあまりに厳しいものでした。
1945年3月に沖縄戦が始まり、東京大空襲、そして広島と長崎に原爆が投下されたことによって日本は終戦を迎えます。
硫黄島の戦いが太平洋戦争の戦況を変えるような分岐点となったとはいえませんが、日本の防衛戦略が完全に崩壊し、その後の本土攻撃を受ける契機となったことは間違いありません。
実は硫黄島の戦いはアメリカにとっての資金源だった?
また、この硫黄島の戦いが、アメリカが戦争を続けるための資金面で、アメリカ側にプラスに働いたといわれています。
前述の硫黄島の摺鉢山にアメリカの国旗が掲げられた写真はアメリカ国民の厭戦気分を吹き飛ばし、世論も戦争を続けることを前向きに考え、アメリカ政府も戦時国債を発行することで戦争を続けるための資金を調達することに成功しました。
さらに、硫黄島の戦い前にはヤルタ会談が開催をされ、戦後処理が議論されていた状況を考えると、硫黄島の戦いによって、日本が敗戦したことは、連合国側が日本に戦後処理に際して強い要求をできる下準備となったとも考えることができますよね!
さらに、硫黄島の戦いによってアメリカが日本本土に対する制空権を得たことは、太平洋戦争と第二次世界大戦を終戦へと向かわせるきっかけとなったともいえます。
空の要塞と呼ばれたB-29とそれを守るための護衛機が硫黄島を中継拠点として自由に往来することができたことはアメリカに大きな利益をもたらしたのです!
本土空襲の指揮をとっていた爆撃軍司令官のカーチス・ルメイは当時、「硫黄島がなければ、日本を効果的に爆撃することはできない」という言葉を残しています。
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「硫黄島からの手紙」をつくったイーストウッド監督
米国ではアメリカで栄光の戦いとして取り上げられている硫黄島の戦い。
実はイーストウッド監督は「硫黄島からの手紙」を撮影する際、日本側の奇跡の1ヶ月がいかにして実現できたのかを描きたかったとその思いを語っていました。
兵力でも物資の面でも劣る日本が、5日で終わると考えられていた戦いをなぜ1ヶ月も続けることができたのか?多くの外国人はその部分に注目をしています。
”A gruesome victory for the Allied Forces”
という記事が最近アメリカで発表されましたが、直訳すると、「連合軍の恐ろしい勝利」となります。
つまり、栄光ではなく「身を毛だつような恐ろしい」戦いが硫黄島の戦いであり、そのことが日本でもアメリカでも強く印象強く残っているようです。
海外から見たこの戦いは、栄光でも奇跡でもなく、祖国のために戦った軍人たちの想像を超える凄惨な現実だったのでしょう。
そして現在、アメリカのみならず、世界中の人が硫黄島の戦いに触れる機会があるとすれば、ワシントンDCで有名な観光地の一つである、海兵隊記念碑(硫黄島記念碑)に訪れた時でしょう。
海兵隊が摺鉢山(すりばちやま)頂上に国旗を掲げるシーンは世界中の人に歴史を伝える大切なモニュメントになっています。
硫黄島の戦い!日本とアメリカの兵力と犠牲者の数の差がすごい!まとめ
硫黄島の戦いは太平洋戦争末期における1つの戦いとして歴史の中で語られることが多いですよね。
その本質はアメリカの軍事戦略上重要な位置を占めており、硫黄島を占領できたことが太平洋戦争終結を一層加速させたといえます。
一方で日本側は、硫黄島の戦いに敗れ、その後五月雨式に本土を侵略されたという歴史的な経過を見ても分かるように、太平洋戦争の地政学の中で硫黄島の役割は大きかったということは間違いありません。