東条英機が自殺を図った理由は何だったのか!敗戦の屈辱が原因?自殺の真相を追求!

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日米開戦時の首相を務め、敗戦後は戦犯として東京裁判で死刑判決を受けた東條英機

終戦後、彼が自殺に失敗していたことをご存知でしょうか?

東條は陸軍大将の立場にあったことから、自殺に失敗するなんて、本当は死ぬ気がなかっただけじゃないか?といわれることもありました。

この記事では、東條はなぜ自殺をしようとしたのか、その理由と真相についてみていきましょう!

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目次

東條まさかの自殺失敗

東條が自殺に失敗した日、それは日本が終戦を迎えてから約1か月後の1945(昭和20)年911です。

この日は、アメリカ軍憲兵が世田谷区用賀にあった東條の自宅を訪ねていました。東京裁判で裁く戦争犯罪人として、東條を逮捕するためです。

憲兵が東條を待っていたその時、彼はあらかじめ準備していた拳銃で自らの心臓めがけて引き金を引きました。しかし本人からすると残念なことに、弾はわずかに急所から外れてしまいます。

発砲音を聞いて乗り込んだ憲兵たちは、まだ息のあった東條をアメリカ軍病院に運び、緊急手術を行いました。こうして東條の自殺は、失敗に終わったのです。

東條はどうして自殺を図った?

東條が自殺しようとした、という事実は、さほど驚かれなかったようです。

今の世の中であれば、元首相の自殺はビッグニュースですよね。しかし当時は、東京裁判で戦犯というレッテルを貼られて死刑になるくらいなら、自殺を選ぶのではないかと多くの人が考えていました。

東條を思いとどまらせようと、自殺前日に説得していた人物もいます。

東條が語った自殺する理由

説得にきた陸軍大臣の下村定に対して、東條は自殺する理由をこう語りました。

「戦争中に自分が公布した戦陣訓中の一句、-俘虜(ふりょ)の辱めを受くるよりも死を選べを自ら破ることはできない」

東條は戦時中に「戦陣訓」という、戦争での心構えを示していました。

その中には「生きて捕虜になるくらいなら死を選べ」とあるのです。今の時代から考えると、とても恐ろしい訓示ですよね

国民には、敵国につかまるよりも死を選べと言ったのだから、自分も生きて敵国にとらえられるわけにはいかない、そう感じていたようです。真面目な東條らしいですね。

下村の説得もむなしく、東條の気持ちはすでに自決に傾いていました

戦陣訓を守り通した東條

下村と話をした翌日、東條のもとに、アメリカ軍憲兵が直接逮捕・連行しに来ました。

実はこのとき、日本政府と連合国軍の間に約束の違いがあったようです。もともと裁判のための逮捕・引き渡しは日本政府が行う約束でした。

しかし、東條のもとに訪れたのはアメリカ軍憲兵だったのです。その姿を見た東條は、やはり自分は捕虜として逮捕されるのだと感じ、捕まる前に心臓に拳銃を向けて、引き金をひきました。

もし、東條を逮捕しに来たのが日本政府の人であれば、敵国に捕らえられるわけではないので、自殺を選んでいなかったかもしれません

死ぬ気がなかったのはホントかウソか!?

東條の自殺は予想されていましたが、失敗したということは、多くの人が驚きました。

「陸軍大将ともあろう人が自殺できないはずがない。本当は助かろうとしたのではないか」という意見もありましたし、今でも東條に死ぬ気はなかったと考える人がいます。

そこで、東條は本当に死ぬ気がなかったのか、検証していきましょう!

なぜ頭を撃たなかった?

古賀秀正参謀少尉

東條は心臓を撃ちましたが、なぜ確実に死ねる頭を狙わなかったのでしょうか。

彼は、事前に心臓を撃つと決めていました。それは、頭を撃てば頭部の損傷が激しくなり、みにくい姿の最期を世間にさらすことになるからです。

東條がそう考えたのには、娘の夫である古賀秀正参謀少尉の死が関係しているのかもしれません。

古賀は宮城(きゅうじょう)事件に関わり、拳銃と東條から贈られた軍刀を使って自決します。そのとき、口にくわえて拳銃を撃ったため、頭部の損傷が激しく、頭全体が包帯でぐるぐる巻きにされた状態で遺体が運ばれてきました

自分の遺体は写真に撮られて世間にさらされる、と考えた東條は、立派に死ななければならないと考え、心臓を狙ったのでした。

なぜ利き手と違う手で拳銃を撃った?

ネットでは、東條が利き手と反対の手で拳銃を撃ったことも不思議に思われています。

東條は左利きにも関らず、自殺するときは右手で拳銃を構えました。

しかしこれは、実際にポーズをとってみると分かるのですが、左手で自分の心臓を狙おうとすると不自然に腕を曲げなければなりません。うまく引き金をひけないんですね。

そのため、東條が右手で拳銃を構えたのは、自然なことといえるでしょう。

なぜ終戦後すぐに自決しなかった?

終戦後すぐではなく、1か月ほど後に自殺しようとしたことも、東條が本当は死ぬ気がなかったと言われてしまう理由の1つです。

確かに、終戦の日(815日)のあと、敗戦の責任をとって軍関係者の自殺が相次ぎました。

しかし政府関係者の自殺は、9月にも増えます。これは、連合国軍によって戦犯を裁く裁判が行われると決まったためでした。

東條たち政府の中心人物は、戦争をはじめたときは確かにこれ以外方法がないと、覚悟を決めて戦争を始めました。それが敗戦後には、敵国から戦争犯罪者として裁かれる。こんな屈辱を味わうくらいならば死を選ぼうという思いだったのでしょう。

戦争犯罪者として、敵国であったアメリカ軍に捕らえられていく、そのことが東條を自決に追い込んだと言えます。

東条英機が自殺を図った理由は何だったのか!敗戦の屈辱が原因?自殺の真相を追求!まとめ

東條が自殺を図った理由、それは自身が戦時中に公布した「戦陣訓」の一節を忠実に守った結果ともいえます。

「生きて敵国に捕まるくらいならば死を選べ」

実直な性格だった東條は、国民に示した以上、自分が破ることはできなかったのでしょう。こうして彼は、アメリカ軍憲兵に捕まる前に、自ら心臓に銃を向け、引き金を引いたのでした。

【参考文献】
秘録東京裁判2015 著者:清瀬一郎著
A級戦犯 戦勝国は日本をいかに裁いた」 特集・東京裁判 東京新人物往来社 2005 

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