「明治維新」と言う言葉は、歴史の授業で必ず習うので、誰もが言葉としては知っているかと思います。
でも明治維新ってそもそも一体なんなのか?明治維新の目的とは果たしてなんだったのでしょうか?
明治維新は、実は現代の私たちの生活にも大きく関係があるのです。
どんな人物が関わっていたのか、明治維新によって変わったこととは?そんな明治維新について、わかりやすく解説したいと思います!
明治「維新」とはどういう意味?
明治維新とは、幕末から明治時代初期に日本で起きた、外国の強い国に負けないための強い日本を作るための「変革」だったと言えます。
「変革」には、それまでの物事を改めて新しくより良いものにすると言う意味がありますが、実は「維新」にもこの「変革」という意味が含まれているのです。
それまでの武士が国を治めるやり方ではなく、全く新しい世の中にするための一連の動きをひっくるめて、明治維新と言うのです。
意外と皆さん知らないのですが明治維新とは一連の変革のことなので、「XXXの乱」などのように、X年に起きたこの事件、というものではないのです!
なぜ明治維新だけ「維新」と呼ばれる?
それまでの歴史上にも、大きな変化や転換は何度もありました。
初めて律令という国を治めるための法律が制定された飛鳥時代や、武士の世の中が始まった鎌倉時代など、どれも大きな転換と言える出来事ですが、なぜ明治だけが明治「維新(いろいろなことが改革されて新しくなること)」と呼ばれているのでしょうか。
それは、260年余り続いた江戸時代、さらに言えば700年続いた武士の世を終わらせ、それまでとは全く違う世の中に変えてしまったからなのです。
近代的で欧米諸国に負けない強い国にするため、政治のあり方、宗教や文化、庶民の生活に至るまで、ガラリと変わることになったのです。
その変化に戸惑い反発するたくさんの人が反乱を起こしては争いに敗れ、多くの血が流れることとなりました。
明治維新の中心人物とは「維新の十傑」とは?
「維新の十傑」と呼ばれる人たちがいます。
1884年山脇之介の『維新元勲十傑論』の中で、倒幕など明治維新に尽力したとして記されている人たちのことで、
西郷隆盛、大久保利通、小松帯刀、大村益次郎、木戸孝允、前原一誠、広沢真臣、江藤新平、横井小楠、岩倉具視
の十人が挙げられています。
十傑には幕臣は含まれていませんが、江戸城無血開城の立役者である勝海舟や山岡鉄舟、新政府軍と戦ったのちに明治政府に仕えた榎本武揚なども有名です。
維新の十傑のその後
維新十傑に数えられ、明治新政府で中心的役割を持った西郷隆盛や大久保利通は、もともと薩摩藩(現鹿児島県)の下級武士でした。
幼い頃から共に学び、志を同じくする同士だった二人ですが、方針の違いから西郷隆盛は新政府を離れ、故郷鹿児島で士族の反乱である西南戦争で命を落とすことになりました。
大久保利通をはじめ、維新十傑のうち四名が暗殺されている事から、いかに彼らがまわりから恨みを買い命の危険にさらされていたかがわかりますね。
明治維新の目的とは?
幕末期、世の中に「攘夷」という考えが広まりました。
外国を全て悪い敵とみなし打ち払う、という思想です。
でもいざ外国の勢力を目の当たりにしてみると、とても敵わないことを実感するわけです。
明治維新の目的その1・近代国家への変化
「このままでは日本は植民地にされてしまう!」という危機感を抱き、そうならないためには、むしろその強い外国の技術や文化を受け入れて、彼らに負けない様な強い日本にしなければならないのだ、という考えになります。
欧米諸国を真似て、軍事や法を整備して近代化国家を目指したのです。
明治維新の目的その2・王政復古
明治維新を英語に訳すと「Meiji Restoration」となります。
Restrationとは、復活や復元、復古と言った意味ですが、明治維新は政治のあり方を武士中心から天皇中心へと「復古」したのです。
そうして国を統治するのは天皇のいる中央政権のみとしました。各官庁の名前も、飛鳥時代など武士が現れる前の時代の古来のものを使っています。
1867年、最後の将軍である徳川慶喜が、自身の実権を返上し(大政奉還)、260年余り続いた江戸幕府は終焉を迎えました。
そして政治の実権を天皇に戻すことが宣言されたのです。これが社会の教科書でも出てくる王政復古の大号令というんですね。
明治維新の目的その3・徳川幕府勢力の打倒
幕府勢力が再び立ち上がり、江戸幕府再興で時代を逆戻りさせないために、明治新政府は徳川家と旧幕府勢力を徹底的に壊滅して行きました。
大政奉還をして大人しく天皇に従う姿勢を見せた慶喜に対しても、その領地を取り上げ謹慎させます。
旧幕府勢力は、関東から東北、最後は北海道の函館にまで追い詰められ敗れて行きました。会津白虎隊の悲劇などが有名ですよね。
徳川家康から始まり、260年平和な時代を納めてきた徳川幕府に対して、明治新政府がいかに恐れを抱いていたかがよくわかりますね。
明治維新で変わったこととは?
明治新政府は様々なものを変えました。
その一つが「廃藩置県」です。それまでは、藩主がその地を独自に治めていて、日本の中に小さな国がたくさんある様な状態でした。
その「藩」という制度をやめて、現代に続く「県」を置き、各県トップを天皇の中央政府が任命し統治する中央集権制にしたのです。
藩がなくなり武士がいなくなった
身分制度も変えています。
「四民平等」と言って、皇族以外は全て平等とみなし、公家や大名を華族、武士を士族、農民や町人などを平民としました。この時、平民にも苗字が許されています。
そして武士はもともと仕える主君から、給料として米などの俸禄をもらっていましたが、藩がなくなり武士という身分がなくなったことで俸禄は廃止、さらに「廃刀令」で武士の命だった刀まで奪われてしまいました。
名実ともに「武士」がいなくなったのです。
徴兵制、義務教育など国民の生活
国を強くするための軍備も必要です。
「国民皆兵」をスローガンに、士族平民区別なく20歳になったら3年兵役するという徴兵令を敷きます。
他にも、「国民皆学」として義務教育を始めたり、工業を近代化して生産性を上げて国の経済力を高めたり、軍事力と経済力を高めて行きます。
現在世界遺産になっている群馬県の富岡製糸場はこの時のものです。出来高に左右されるお米の年貢を廃止し、税を現金で納めることにもなりました。(富国強兵と殖産興業)
こうして現代の日本の基礎とも言える様々な制度が整えられ、近代国家として歩み始めた日本ですが、明治新政府はこうした事をおよそ10年という短期間のうちにどんどんと変えて行きました。
そのため、急速な変化への反発、特に元武士たちである士族は、武士の特権がなくなって新しい生活に馴染めないことで反発し、暴動が多発しました。その最も大きく、そして最後の士族の反乱と言われるのが西南戦争だったのです。
明治維新で成し遂げたこととは?
そこまでの急激な変化を経て、日本はどうなったのでしょうか?
変化に反対する人たちの反乱などもありましたが、時間が経つにつれてどれも成果をあげて行き、明治22年には大日本帝国憲法が発布、その後議会も発足するなど、近代化は成功したと言えます。
アジア諸国では日本の明治維新を模範として独立する気運が高まり、欧米諸国からはその急激な変化と成功に驚嘆されました。
その後日本は日清戦争や日露戦争の勝利で、ますます軍事強化に力を入れ、軍国主義へと突き進んでいくことになるのです。
明治維新とは一体なんなの?わかりやすく解説!まとめ
日本はどこかの植民地になることなく近代化を成功させ列強の仲間入りをしました。
明治維新という強いエネルギーによる転換がなければ、近代化もその後の発展ももっと遅くなっていたことでしょう。
外国からの文化文明が輸入され、一気に文化が花開き文明開化と言われた明治時代。その華やかな時代の陰には、たくさんの人の並々ならぬ努力と犠牲がありました。
新政府であれ旧幕府であれ、誰もが日本を良い国にしたいという思いを抱いていたのです。それほどに自分たちの国を想い実際に行動できる熱い志が、現代の日本の礎になっているのです。