勝海舟という名前を聞いたことがある人は多いと思います。
日本史の授業で必ず出てくる人物で、江戸城無血開城という出来事とセットで覚えているかも知れませんね。
でも勝海舟の功績はそれだけではありません。歴史に大きく名を残す勝海舟は、実際には何をした人なのか、わかりやすく解説していきたいと思います!
大きな功績を成し得た勝海舟の生き方や信念は、きっと現代に生きる私たちにも役に立つはずですよ。
勝海舟とは何をした人なのか?その功績を解説

勝海舟は1823年に江戸で生まれました。
家は役職がない、つまり仕事のない武家でした。
幕府の政を行うことのない家柄だったはずなのに、幕末期に勝海舟は幕府を代表するほどの立場で、江戸城無血開城と日本海軍発展の基礎を築くという歴史に残る大きな功績を成し得ています。
その2つの功績について、それぞれを詳しくご紹介したいと思います。
功績①江戸城無血開城

幕末期、薩摩(現鹿児島)や長州(現山口)らの倒幕軍は、京都の天皇を担ぎ出して自分たちを官軍、つまり天皇を守るための正規軍としました。
それに敵対する幕府軍は天皇に弓を引く反逆軍として征伐されます。江戸はそんな反逆軍の本拠地と見なされ、官軍は江戸の町に攻め入り壊滅させようと考えていました。
でも江戸城にいる幕府関係者や庶民など、江戸にはたくさんの人々が住んでいます。その江戸を守るため奔走したのが勝海舟です。
江戸に迫ってくる官軍のトップである西郷隆盛と直談判で協議を重ね、江戸城を速やかに引き渡すことや徳川家の恭順などを条件に、官軍の江戸総攻撃はなくなりました。
当時は国を二分するほどの戦いで、特に幕府側から見れば、それまで国を治めてきた立場から急に逆賊にされ、悔しさもありプライドもあり、すんなりと戦いを放棄するのは難しかったはずです。
実際、最後の一兵まで戦う!と両軍の戦いはこの後もまだまだ続くのですが、勝海舟は江戸を守るため冷静に状況を見極めます。
負けを認めて潔く、でも誰かの死を引き換えにすることもなく粘り強く交渉を進めることは、勝海舟にしかできなかったことです。
勝海舟は江戸だけを守りたかったのではありません。
「官軍の勝ち、幕府軍の負け」、そんな単純な勝ち負けには拘らず、この内乱を速やかに終息させて日本を一つにし、日本を狙う外国に対抗しなければいけない、と考えていました。
勝海舟は日本を守ることを常に考えていたのです。
功績②日本海軍の発展に貢献

勝海舟は、日本に黒船がやってきた時に、幕府に意見書として海防のためには軍艦が必要であると言っています。そのための資金は外国と貿易をして稼げばよいとしています。
黒船がきて国民がパニックになっているその時、勝海舟の目はすでに外国に向けられていたのです。
その後幕府に登用された勝海舟は、海軍技術の習得などを経て1862年、軍艦奉行並という役職につきます。
幕府の軍艦長となって海防に勤しみ、さらに海軍操練所という海軍技術を学ぶための訓練所を神戸に設立したのです。
ここはいわば海軍士官学校で、武士身分であれば誰でも学ぶことができました。
坂本龍馬が勝海舟の弟子になったのはこのころで、坂本龍馬もこの海軍操練所で学んでいたんですね。
当時の日本には、外国を打ち払う攘夷思想や、幕府を倒す倒幕派など、さまざまな思想が入り乱れていました。
しかし、勝海舟は、幕府や藩などといったそんな小さなくくりにはこだわらず、日本という広い目で物事を捉えていました。
そのため、幕府の機関でありながら倒幕派思想の武士もこの海軍操練所には集まってきていたと言います。
日本の海軍を外国に負けないほど強くしたい、それは幕臣とか倒幕派とかに関わらず誰の手であってもいい、そんな風に思っていたんですね。
この海軍操練所は後に閉鎖されてしまいますが、そんな勝海舟の志のもとで学んだ人たちの技術や知識は、大日本帝国海軍の土台となりました。
勝海舟の生い立ちは?身分が低くて貧しい家?!
大きな功績を残した勝海舟ですが、生まれたのは貧しい家でした。
正月の松飾りもなければ餅もない、畳は破れ天井板も薪に使ってほとんど残っていないほど貧しく、役職もないので本来なら出世の見込みなど到底ありえない家柄だったのです。
仕事がないのでお金はないが時間はある、そんな勝海舟が有り余る時間を使って学んでいたものが蘭学です。
蘭学(らんがく)は、江戸時代にオランダを通じて日本に入ってきたヨーロッパの学術・文化・技術の総称。幕末の開国以後は世界各国と外交関係を築き、オランダ一国に留まらなくなったため、「洋学」(ようがく)の名称が一般的になった。初期は蛮学(「南蛮学」の意)、中期を「蘭学」、後期を「洋学」と名称が変わっていった経緯がある
勝海舟と蘭学との出会い
蘭学とは西洋のことを知る学問のことです。
当時、西洋は文化や技術が進んでいることは知られていましたが、西洋のことをよく知ろうと学ぶ人はほとんどいませんでした。西洋思想は日本を脅かす危険なものと恐れられていたのです。
でも勝海舟は違いました。
当時の外国の状況、例えば欧米各国は最新の武器を使い軍艦を持ち大海を渡って来ることができました。
そして交易で儲けていることや、大国である清(中国)がイギリスに敗北したこと、そんな西洋のさまざまな情報に触れ危機感を抱いた勝海舟。
彼は日本を守るためにはその進んだ西洋の技術を学ぶ必要があると考え、オランダ語を学び、なんと丸1年かけて膨大な辞書の写し書きまでしています。
そうしてまだ日本語に翻訳されていない外国語の本を読み、特に西洋兵学に精通してくると、西洋流兵学塾を開きます。
始めの頃は、まだまだ蘭学は危険思想とみなされていましたが、そんな風潮も世間の目も気にせず、勝海舟は学び続けます。
そして黒船の来航をきっかけに、西洋のことを知りたいと入塾を希望する人が増え、ついに幕府の高官たちからも意見を求められるほどになったのです。
海軍技術を習得し幕臣としての活躍
その西洋知識と技術を見込んで幕府に登用された勝海舟は、長崎海軍伝習所でオランダ人から直に海軍技術を学ぶ機会を得ます。
航海術は、ただ操作方法を学ぶだけでなく、数学、数理、測量、造船、砲術計算などあらゆる学を修める必要があり、勝海舟は数学が苦手なので苦労していたそうです。
そしてここで学んだ知識と技術を生かし、勝海舟は1860年、咸臨丸による太平洋横断を成し遂げることとなったのです。
純粋に日本人だけの手で、というわけにはいかなかったようですが、それでも日本の軍艦でアメリカまで渡り、視察した上でまた戻ってきたのは大変な偉業です。
明治新時代・旧幕臣なのに重用されていた
勝海舟は常に広い視野で物事を見ていて、早い段階から幕府は解体し挙国一致して外国に対すべしとの意見を持っていました。
そのため、倒幕派である官軍からも一目置かれ、幕府の中で話のわかる相手として認められていたのです。
江戸総攻撃の際、西郷隆盛はそもそも勝海舟でなければ交渉の場にも応じなかったでしょう。
それほど信頼されていた勝海舟は、明治になると元主君であり最後の将軍となった徳川慶喜とともに静岡に移り住みますが、何度も明治新政府から召喚されて意見を求められたり、政府役人に登用されては本人の意思ですぐに辞職する、を繰り返していました。
勝海舟は必要とされる時にだけは応じて助力するものの、高い階級や名誉に固執しませんでした。
幕府を倒した新政府だからとか、元幕臣だからとか、そんなことは気にしないのです。
勝海舟って何をした人?その生き方とはどんなものだったのか!まとめ
勝海舟は、まわりからどう見られ、どう言われようと自分のやるべきことに邁進し、それを自分の力に変えて生かすことのできる人物でした。
常に広い視野を持ち、小さな枠組みにこだわらず大きな目標に向けて誠心誠意行動する勝海舟は、だからこそ徳川幕府にも、明治新政府にも一目置かれ信頼されていたのでしょう。
勝海舟の残した言葉に、彼のそうした言動の真意が表れています。
「あてにもならない構成の歴史が、狂といおうが、賊といおうが、そんな事は構うものか。要するに、処世の秘訣は誠の一字だ」
筆者も勝海舟のように大きな目標に邁進していけたらと何度思ったことでしょう!最後まで読んでいただきありがとうございました。
参考文献
氷川清話 勝海舟(岩本襄撰 徳富蘇峰序)
勝海舟と明治維新 板倉聖宣
海舟座談 岩本善治 編 勝部真長校注