勝海舟と坂本龍馬の出会いや関係とは?「日本を強くしたい」という勝海舟の想いを龍馬が継承!

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勝海舟と坂本龍馬。

幕末期でとても人気のある偉人の2人ですよね。幕末の歴史ドラマなどでも必ずでてきます。

勝海舟の弟子だったという坂本龍馬ですが、土佐藩(現高知県)のイチ藩士だった坂本龍馬と、江戸で生まれ育ち幕府の直属の武士である勝海舟は、いったいどのようにして出会ったのでしょうか?

そしてその出会いがその後の歴史にどのように影響したのかを、わかりやすく解説します!

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目次

勝海舟と坂本龍馬、運命の出会い

1862年、坂本龍馬は江戸赤坂の勝海舟の自宅を訪れました。

外国を敵とみなす攘夷思想を持っていた坂本龍馬は、開国主義の勝海舟の話す内容次第で斬ろうと思っていた・・・というのが有名なエピソードですが、実は坂本龍馬に最初から殺意はなかったと言われています。

勝海舟が明治時代に回顧した談話で、「坂本は己を殺しに来た奴だが、なかなか人物サ」と話しているのですが、そもそも坂本龍馬は勝海舟に会う前に、同じく開国主義者の松平春嶽という人物と会っています。

そこで話を聞いた上で、勝海舟に会いたい!と思って紹介状を書いてもらったほどですので、殺意はなく、はなから勝海舟に弟子入りしたくて訪れたというのが、真相のようです。

勝海舟の弟子になり「エヘン顔」

勝海舟の弟子になった坂本龍馬は、その嬉しさを実の姉である坂本乙女への手紙に残しています。

「天下無二の軍学者勝麟太郎(勝海舟)という大先生の門人となり、ことのほかかわいがってくださいまして、(中略)少しエヘンな得意顔を密かにしております」

すなおな嬉しさが書かれていて、ほほえましい手紙ですよね。坂本龍馬がいかに勝海舟を慕い、尊敬していたかがわかります。

龍馬・勝海舟の手足となって全国へ

勝海舟と坂本龍馬が出会った頃、勝海舟は軍艦奉行並という役職につき、神戸に海軍操練所を設立するために奔走していました。

海軍操練所は幕府による航海技術を学ぶ学校ですが、それとは別に勝海舟は私塾海軍塾も作ろうと考えていたのです。

それらの資金援助のため、坂本龍馬は勝海舟の名代として福井藩の元藩主松平春嶽のもとを訪れています。

勝海舟は、元藩主という位の高い人物に、数千両もの大金のお願いを自分の代わりに行かせたんですね。

それ以外の地にも勝海舟の名代となって訪れたり、勝海舟の各地の視察に同行したり、坂本龍馬は勝海舟に重用されていたことがわかります。

勝海舟の失脚

海軍操練所と海軍塾には、たくさんの人物が集まりました。

攘夷派や倒幕派といった思想に構わず、海洋技術を学びたい人ならば身分を問わず入れる学校だったのです。

日本が一つになって外国に負けない海軍を作る、という勝海舟の理想の学校でしたが、開校から10ヶ月余りで閉鎖されてしまいます。

当時、京都では主に長州藩(現山口県)攘夷派による過激な活動が頻発しており、その人たちが勝海舟の海軍操練所で学んでいたことから、幕府に目をつけられてしまったのです。

そのため、勝海舟は江戸に呼び戻されて軍艦奉行並を解任となり謹慎処分、操練所も廃止されてしまいました。

勝海舟は坂本龍馬の身の安全を考え、薩摩藩(現鹿児島県)に匿ってもらうよう依頼しており、以降坂本龍馬は薩摩藩と密接な関係になっていきます。

坂本龍馬、私設海軍と亀山社中の設立

勝海舟のもとで海洋技術を学んだ坂本龍馬は1865年、薩摩藩などの援助を受けて亀山社中(正式名称は「社中」)という商社を設立します。

私設海軍であり海洋技術の教育期間でもあり、運送や貿易事業も行なっていました。

その亀山社中の後身である海援隊の約規で、「学びたいものはその身分を問わない」と記されており、それは勝海舟の海軍操練所の運営方針と同じなのです。坂本龍馬は海軍の面において、勝海舟の意思を引き継いだと言えます。

当時坂本龍馬は、薩摩藩名義で最新の武器・弾薬をイギリスから買い入れ、それらを長州藩に渡すことで、当時仲が悪かった薩摩藩と長州藩を結び付けようとしました。

それが、坂本龍馬の功績として有名な「薩長同盟」へと繋がっていくのです。

でもなぜ薩摩藩と長州藩を結びつける必要があったのでしょうか?

大政奉還という構想

勝海舟は幕臣でありながら、外国に負けない強い日本になるためには幕府という古い体制は不要であると考えていました。

そうした考えはすでに当時、ある程度広まっていた思想ではありますが、坂本龍馬もまた同じ考えでした。勝海舟の影響を受けての考えかもしれませんね。

将軍がその政権を朝廷(天皇)に返上し(大政奉還)、天皇が政を行う政治体制にする、それを実現させるためには薩摩藩や長州藩など有力藩の協力が不可欠でした。

もし有力藩のどこかが幕府側について仲間割れしてしまったら、内乱が長引く一方だからです。そうすれば外国につけ込まれてしまいます。

坂本龍馬の仲立ちで藩同士の繋がりが作れた薩摩藩と長州藩は、薩長同盟を結び、協力して倒幕へと動き出していくのです。

坂本龍馬による新政府綱領八策

坂本龍馬は、新政府体制の構想である「新政府綱領八策」を残しています。

この「新政府綱領八策」には身分に関わらず優れた人材を登用することや、外国との対等貿易の必要性などが書かれていました。

内容は、勝海舟をはじめ、これまで出会った人々の、「強い外国に対抗するためには海軍をもち貿易をして国力を高める、そのためには日本が一つにならなければならない」という思想の影響を受けていることは間違いありません。

坂本龍馬の最期・犯人の有力説は?

1867年11月15日、京の近江屋にいた坂本龍馬が殺害されたことは歴史ファンならだれでも周知のことですよね。

いったい誰に殺されたのかさまざまな説があり長らく謎とされてきましたが、現在では幕府側である京都見廻組による犯行との説が有力です。

薩摩藩と長州藩を結びつけた、反幕府の思想を持つ危険人物、坂本龍馬はそうみなされていたようです。

土佐藩の下級武士だった坂本龍馬が、勝海舟をはじめとした強い信念と行動力のある人物と出会い、「藩」という枠組みや常識に囚われず自分のやるべきことをやる!それができる人物だと思ったからこそ、勝海舟は自分の弟子に迎えたのかもしれませんね。

勝海舟と坂本龍馬の出会いや関係とは?まとめ

幕末期、攘夷だ倒幕だといろいろな思想があり、国内で日本人同士が争っていた時、勝海舟と坂本龍馬の目はすでに海の向こうに向けられていました。

「日本の海軍」という大きな夢を共有していた2人は、やがて立場の違いから離れてしまいますが、勝海舟の影響を大きく受けた坂本龍馬は、歴史に残る偉大な功績を成し遂げ、そして散っていきました。

勝海舟の構想や思想を実現させた人物の一人が、坂本龍馬であると言えるでしょう。

勝海舟は明治時代になってから、旧幕臣や新政府などさまざまな人物と会って語らっています。歴史に「もし」はありませんが、坂本龍馬が殺されず生きて明治の世を迎えていたら勝海舟と何を語り合ったでしょうか。2人は船でいろいろな国を渡り歩いたかもしれませんね。

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