二・二六事件とは、1936(昭和11)年、陸軍の青年将校が率いる約1500人もの陸軍兵士が、首相官邸や警視庁などを襲撃して、大蔵大臣・高橋是清、内大臣・斎藤実らを射殺。
軍部の手による天皇親政の「維新政府」を樹立しようとしたクーデター事件です。
2月26日に決行されたことから、二・二六事件という名前がつけられました。
事件を知った昭和天皇は激怒し、3日後の29日に反乱軍は鎮圧。首謀者の青年将校ら17名は、軍法会議(裁判)にかけられ、「反乱罪」で死刑となりました。
二・二六事件の目的とはなんだったのか?
クーデターを起こしたのは、まだ20代後半から30代前半の青年将校たちでした。
まだまだ若い彼らが、なぜ首相経験者や国を動かす重鎮を襲撃し、殺害しようと考えたのでしょうか?
では二・二六事件を起こした目的について、みていきましょう!
蹶起趣意書にあらわれた軍人たちの思い
まだ若い将校たちが、首相経験者や国の要人を襲撃するクーデターを起こす決意を固めた理由は何だったのか。その理由は、蹶起(けっき)趣意書から探ることができます。
彼らの目的は、国民を苦しめている腐って堕落した政治勢力から国家権力を奪還し、軍部の手で、天皇親政の新しい政府・国家をつくる、ということでした。
2021年にミャンマーでも軍事クーデターが起こりましたが、それと同じことが昭和の時代に日本でも起きようとしていたのです。
クーデターを起こした青年将校たちは、軍の中でいわゆるエリートと呼ばれる人たちでした。しかし彼らは、農村出身の一般兵士と接しているうちに、現実の日本社会の矛盾に気付きます。
そして、国民を苦しめているのが、いま政治を動かしている政治家たちだと気付き、政治家を打倒する反政府クーデターを計画したのですね。
若き軍人たちが感じた大正・昭和の影
青年将校たちが感じた日本社会の矛盾、それは一体なんだったのでしょう。
大正から昭和にかけて、日本は世界情勢のあおりを受けて、どんどん暗い方向へ向かっていきます。
大正時代、日本は第一次世界大戦で列強の仲間入りを果たしたものの、経済的には恐慌の波が押し寄せて大不況に陥り、関東大震災によってますます深刻さを増しました。
さらにアメリカでは1929(昭和4)年に、ニューヨークのウォール街で株が大暴落し、世界中でまたたく間に不況が広がります。
これは日本にも直撃し、主力の輸出品である生糸が売れなくなり、生糸産業に従事していた人たちの生活は一気に困窮していったのです。
若き軍人たちが直面した農家の生活困難
農家の生活苦は特に深刻で、この2年後に起きた東北・北海道の冷害で、稲作は平均の3分の1しかとれず、娘の身売りや欠食児童が続出します。
役所で娘の身売りについて相談する場所が設けられるなど、今では考えられない状況だったそうです…。
こうした社会情勢や、疲れ切った農村を目の当たりにし、青年将校たちは日本が直面している危機を強く意識します。
彼らが生活を共にしている兵士たちの半数以上は農村出身でした。家族が飢餓に見舞われ、食べる米もない状態で、どうして兵士たちが国のために命を捧げる気になれるのだろうか…。
青年将校たちは若くて純粋だったため、真剣に悩み、政治家への怒りを増幅させていったのでしょう。
衝撃!首都東京を占拠・争乱の4日間で犠牲になったのは?
雪が降り積もる2月26日未明、首都東京は、1500人もの軍人が、首相官邸や警視庁などを襲撃し、占拠する大惨事となりました。
襲われた人物や、その時の様子について詳しくみていきましょう。
岡田啓介首相の襲撃
青年将校らが政治体制を変えるため、はじめに殺害を計画したのが首相です。この時の首相は、岡田啓介でした。
首相官邸に出向いた襲撃隊の人数は291名。
彼らは暗闇の首相官邸で、首相の身辺警護に当たっていた数名の警官と銃撃戦を繰り広げます。
そして中庭に逃れる1人の老人を射殺したのですが・・・しかし、このとき射殺したのは岡田首相の義弟で、首相の秘書官だった松尾伝蔵という人物だったのです!!
松尾は首相を避難させた後、首相の側を離れ、襲撃隊にその身をさらすという大胆な行動にでたのでした。
風貌が非常に似ていた松尾は、自らを犠牲にして、岡田首相を救ったのかもしれません。本物の岡田首相は命からがら逃げきりました。
斎藤実内大臣の襲撃
斎藤実は内大臣として天皇の補佐をしていて、青年将校からすれば、天皇を悪い方向へ導く張本人でした。
藤実の私邸には210名の兵士で襲撃をかけます。
「殺すなら私を殺してください」と絶叫しながら斎藤をかばう夫人を押しのけ、拳銃を乱射し、無惨に殺害しました。
時間にして、わずか15分の出来事だったそうです。目の前で殺されるなんて、夫人はショックだったでしょうね…。
高橋是清蔵相の襲撃
高橋是清は大蔵大臣のポストについていました。
事件の前年、財政立て直しのために軍事予算の削減を徹底して行っていた高橋は、軍部から最も嫌われていた人物といっても過言ではありません。
彼の襲撃に出向いたのは137名の兵士でした。寝室で寝たまま、落ち着き払っている高橋を発見すると、拳銃と軍刀でめった切りにし、殺害します。
ほとんど即死でした。
渡辺錠太郎教育総監の襲撃
渡辺錠太郎は陸軍のトップ3に入る教育総監の職についていました。
この頃軍の中では、皇道派と統制派という2つの派閥に分かれており、事件を起こした青年将校らは皇道派の人間でした。これに対し、渡辺は統制派の人間であり、派閥が違ったため殺害されます。
渡辺教育総監の襲撃に向かった下士官兵は30名でした。
両手を広げ立ちはだかった夫人を押しのけ部屋に入るやいなや、渡辺総監との銃撃戦が始まります。
しかし1人対複数の銃撃戦の決着はすぐにつき、軍刀でとどめをさされた渡辺総監は、即死しました。
二・二六事件では、夫人が命をかけて夫を守ろうとする姿が見られるなど、女性の強さを感じます。
牧野伸顕前内大臣の襲撃
牧野伸顕は、もともと内大臣の職についていました。天皇の信頼も厚く、斎藤と同じ理由で襲われます。
牧野はこのとき、湯河原温泉に身を寄せていましたが、そこにも襲撃隊が襲いかかりました。旅館の勝手口に現れた宿直の警官と撃ちあった後、襲撃隊は火を放ちます。
これにより旅館は全焼し、焼け跡からは撃ち合った警官の死体だけが発見されました。牧野は、付き添いの看護師やお手伝いの手引きで裏山に逃れて助かったのです。
二・二六事件はその後どうなったのか?
青年将校らの部隊は、政府要人を襲撃し、警視庁も占拠し、当初計画した通りに襲撃・占拠を完了しました。
しかし、彼らの目的である軍部の手による天皇親政の「維新政府」の樹立については、難航します。
何よりも、天皇がこの事件に対して激怒したのです。
天皇からすれば、信頼していた側近を殺されたので、青年将校らの討伐命令を出すのは当然といえるでしょう。こうして鎮圧された青年将校たちは、軍法会議にかけられ、反乱罪で死刑となりました。
青年将校としては、天皇を悪い方向へ導く政府要人を排除しようとしたつもりでしたが、天皇にとっては身近で支えてくれた人物たちだったのです。そういった人物を殺され、天皇が激怒するのは不思議なことではありませんよね。
しかし、天皇のためを思い動いていた彼らの気持ちを考えると、天皇から討伐命令を出され、死刑となるのは悲劇とも言えますね。
二・二六事件をわかりやすく解説!軍事クーデターが日本でも起きていた!まとめ
1936(昭和11)年2月26日、陸軍の青年将校は、軍部の手で天皇親政の新しい政権を樹立しようと政府の要人を殺害するクーデターを起こしました。
この事件によって、斎藤実内大臣や高橋是清蔵相、渡辺錠太郎教育総監が殺され、日本を支える多くの政治家が犠牲になり、東京内は殺伐とした状態に・・・・。
結局、青年将校らの目的である、新しい政権の樹立は叶わず、彼らは軍法会議で死刑となり最後はなんだかすっきりしない結果となりましたね。
この事件をきっかけに、政治には暴力に対する恐怖が蔓延したことは確かです。軍部に反抗することへの恐怖、それが軍事政策をコントロールする政治の力への弱さに結びついていったといえます。
残念ながらこれが、昭和の暗い戦争の道へと、足を踏み入れるひとつの理由となっていくのです。
【参考文献】
保阪正康『日本を変えた昭和史七大事件』2011年、角川書店
太平洋戦争研究会『図説2·26事件』2003年、河出書房新社