二・二六事件の黒幕は一体誰だったのか?天皇への忠誠心を誓った生き残りはどうなったのか?

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二・二六事件は1931(昭和11)年2月26日に、東京で起こった昭和最大のクーデター未遂事件です。

陸軍の青年将校たちが約1500人もの兵を率いて、時の首相や大蔵大臣などを襲撃、殺害し、総理官邸や警視庁など日本の中枢機関を占拠しました。

今回の記事では、この事件の黒幕という噂がある人たちを検証し、生き残りのその後についてご紹介していきますね!

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目次

事件を起こしたのは一体だれ?

二・二六事件を起こしたのは、陸軍の青年将校たちといわれています。

青年将校とは、陸軍士官学校を卒業した人たちのことで、かなり難しい試験を通った、いわばエリートです。このエリートたち20名あまりが、下級兵士を1500名も引き連れ、日本の政治を動かす要人たちを暗殺したのです。

ちょっと衝撃的というか、今の時代ではかなりショッキングな事件となるでしょうね!

しかしいくらエリートといえど、まだ20代から30代前半の若者たち。彼らだけでこんな大がかりな事件を起こすのは無理なのではないか?

ということも考えられ、この事件には、青年将校たちを動かした黒幕がいたという噂もささやかれました。

二・二六事件の黒幕の噂~天皇の弟~

当時、事件の黒幕として、一部でまことしやかにささやかれていたのが、秩父宮の存在です。

秩父宮とは、昭和天皇の弟です。これまたショック!

なぜ、天皇の弟が黒幕という噂があったのでしょうか。それは、事件を起こした青年将校たちと秩父宮の関係の深さにあるようです。

秩父宮は、事件が起きたときは青森県弘前の歩兵三十一連隊の将校でした。しかしその前は、事件で東京を占拠した部隊に身を置いており、青年将校たちとも深いつながりがあったようです。

将校たちの多くは秩父宮を心から尊敬していました。

実際、東京を占拠した将校たちは「秩父宮殿下をリーダーにして、昭和維新を実現させる」という内容の演説をしています。これでは、秩父宮が黒幕だったのでは?と噂されても仕方がないような気がしますね。

秩父宮と二・二六事件との関係とはなんだったのか?

それでは、秩父宮は本当に事件に関わっていたのでしょうか?

しかしこれは、単なる噂に過ぎないようです。

東京に帰京した秩父宮は、事件を早く鎮圧し、決起した青年将校は自決するのがよいと強く主張していたからです。

青年将校たちは秩父宮をリーダーに迎えたいと思っていましたが、彼には、そこに参加する意思は全くありませんでした。

もし計画を知っていたら、事件の前には東京に来ていたでしょうし、仲間が死刑にならないように天皇の弟の立場を使って交渉したのではないかと思われます。

二・二六事件の黒幕の噂~真崎甚三郎~

もう一人、事件の黒幕として噂されていた人物がいます。

それが、真崎甚三郎です。事件当時、陸軍大将の職についていた真崎ですが、その前は教育総監の職にありました。

しかし、陸軍の中で派閥の力を大きくしていた真崎は、教育総監の職を辞めさせられてしまいます。

真崎を慕っていた青年将校たちはこれに納得がいかず、二・二六事件では真崎の後任となった渡辺錠太郎を殺害しました。

さらに将校たちは、岡田首相を殺害した(実際は失敗しましたが)あとは、真崎が首相になることを望んでいました。

そのため、二・二六事件は真崎が黒幕なのではないか、という噂が出たのです。

実際、二・二六事件を裁く軍法会議で、真崎は将校たちとのつながりが疑われ、起訴されて法廷に立ちましたが彼は反乱の黒幕であるという起訴事実を全面否定しています。

結局、有罪という証拠が出てこなかったため、真崎は無罪となりました。

黒幕は本当にいたのか?

二・二六事件において、黒幕の噂が出ている人物たちが、事件に関わったという有力な証拠はありません。

おそらく青年将校たちは、情報がもれることの方を心配し、事前に上層部に伝えることはしていなかったのでしょう。

黒幕がいたというのは、あくまで噂に過ぎないようですね!

事件の生き残りのその後

事件を起こした青年将校たちは、軍法会議という、軍による裁判にかけられます。

将校たちからすれば、国を悪い方向へ導いている政治家を排除して、天皇親政の政権をつくろうという目的で行動を起こしたのですが、天皇からすれば信頼できる家臣たちを殺害されたため、その怒りは相当なものでした。

当然裁判の結果は、決起将校たちにとって厳しいものとなっていきます。

二・二六事件の裁判~決起した青年将校たちの判決は?

二・二六事件の裁判は、普通の裁判とはまったく違う形で行われました。

上告はなし、一審のみで、非公開、弁護人さえなしだったのです。こんな裁判では、クーデターを起こした青年将校たちの権利は守られるはずもありません…。

裁判というのは形だけで、すでに上が決めた罪状を言い渡すだけのような形がとられました。

そしてその罪状は、反乱罪による死刑です。

16名の決起将校たちは、彼らなりに国を良くするために立ち上がったのですが、国は、彼らの行動を国家に対する反乱とみなして処理します。

判決からわずか5日後には、銃殺刑が執行され、青年将校たちはまだ若くして、その命を落としました…。

天皇を思って起こした行動が、天皇に理解されるどころか激怒されてしまったというのは、可哀想な気もしますね。

無罪となった下士官兵たち

二・二六事件に参加した約1500名もの下士官兵たちは、裁判でどのように裁かれたのでしょうか?結論からいえば、彼らは無罪となり、元いた自分の隊に復帰します。

無罪が言い渡された理由、それは、事件を起こしたのはあくまで決起将校で、彼らは命令に従っただけということが考慮されたからです。

このときの軍隊は、上司の命令が絶対なので、上司に逆らってクーデターに参加しない、という選択はないようなものでした。

下士官兵の大半は、特に刑を言い渡されることはありませんでしたが、クーデターの計画を知っていて参加を決めた者には、禁錮刑が言い渡されました。

どちらにせよ、死刑にされた者は一人もいません。

無罪とはいえ厳しい未来を迎えた下士官兵たち

裁判の結果は無罪でしたが、二・二六事件に参加した下士官兵たちを待ち受けていた未来は、決して明るいものではありませんでした。

彼らは事件の後、日中戦争や太平洋戦争で激戦地と呼ばれる場所に送られる運命をたどったのです。

 「お前たちは事件に参加したのだから、汚名挽回を目標に軍務に一生懸命励み、白骨となって帰還せよ」

反乱軍に参加した下士官兵の多くが、このような言葉をかけられて、激戦地へと送られました。

一般的に、戦争が終わるまで兵士は平均して2回召集を受けていたそうですが、二・二六事件に参加したとある中隊は、召集された回数が1回だったのは2名、2回は13名、3回以上は27名もいたそうです。

これでは、死刑宣告されているのと変わりありませんよね。裁判で罪は免れたものの、二・二六事件に参加した兵士に待ち受けていたのは、厳しい未来だったということです…。

二・二六事件の黒幕は一体誰だったのか?まとめ

昭和の重大事件に数えられる二・二六事件は、殺された政府要人、死刑になった16名の青年将校、東京が4日間も占拠されたことなど、センセーショナルな出来事に目が行きがちです。

しかし、事件に強制的に参加させられた1500名もの若い下士官兵たちが、政府要人の命を奪って国に逆らった反乱軍となったあと、アジア・太平洋戦争では国のために戦い、命を奪われていったことはあまり知られていません。

二・二六事件は、昭和の転換点とされる重要な事件ですが、同時に1500名という多くの若者たちの人生を狂わせた事件でもあったのです。

【参考文献】
保阪正康『昭和史の大河を往く 第四集 東京が震えた日 二・二六事件、東京大空襲』毎日新聞社、2008年
太平洋戦争研究会『図説2・26事件』河出書房新書、2003年
エンタメ!歴史博士「クーデター阻止した意外な人物 二.二六事件研究」(https://style.nikkei.com/article/DGXMZO83600550U5A220C1000000/

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