本能寺の変の黒幕はキリスト教だった?イエズス会の闇・・・

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「本能寺の変」といえば、天下統一を目前とした織田信長が、部下の明智光秀に殺された事件として有名ですが、光秀は実行犯にすぎず、実は信長暗殺を指示した「黒幕」がいました。

その黒幕はキリスト教の布教のために日本に訪れた「イエズス会」です。

この記事では、イエズス会が日本に来日した理由、そしてなぜ光秀を利用し、信長暗殺に至った真実に迫ります。

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目次

イエズス会、もう一つの顔と1人の日本人

イエズス会とは1534年にカスティーリャ王国出身のイグナチオ・ロペス・デ・ロヨラとパリ大学の学友だった6名の同志により創設されたキリスト教、カトリック教会の男子修道会のことです。

そして、創設当初から世界各地での宣教活動を重視し、宣教師たちを世界各地に派遣してきたのです。

その中の一人に創設メンバーで日本史の授業でも聞いたことがあるフランシスコ・ザビエルがいました。

1541年、ザビエルはポルトガル国王の要請に従い、ポルトガルの植民地であったインドのゴアへ赴き、多くの信者を獲得することに成功します。

ヤジローとの出会い

その後マラッカ(現在のマレーシア)でも宣教し、そこで知り合った「ヤジロー」という日本人と出会い、日本に関心を抱き1549年に来日。

約2年間滞在し、布教活動をしていましたが、活動は難航を極めます。また日本人に精神的な影響を与えるためには明(中国)への布教が大事だと気づき、明での布教を志すのです。

しかしザビエルは目的を果たせないままこの世を去ってしまうのです。

日本に初めてキリスト教を教えたことで有名なザビエルですが、日本での布教が大変だったことを知る人は少ないと思います。                                      

布教に成功したのは、ザビエルではなくフロイス

イエズス会による布教活動が成功したのはザビエルよりもルイス・フロイスによる力が大きいと言われています。

フロイスは1548年、インドのゴアへ赴き、日本へ行く直前のザビエルとヤジローと出会います。

そして、1563年、横瀬浦(現在の長崎県)に上陸し、肥前(現在の佐賀、長崎にあたる部分)の大名、大村純忠(おおむらすみただ)のもとで布教活動を開始。

1565年には京都へ行き、同じイエズス会のガスパル・ヴィレラ、日本人修道士のロレンソ了斎らとともに布教活動を行い、1566年には京都地区を布教する責任者となりました。

織田信長との出会い

そして1569年、ルイス・フロイスは織田信長と初めて対面します。

信長が日本の仏教界に対して、疑問を持っていたこともあり、フロイスは、畿内(現在でいう近畿地方)での布教活動を許可され、多くの信徒を獲得することに成功。(もしかしたらザビエルの無念を果たしたかったという思いもあったのかもしれません。)

その後は九州で活躍し、1580年、イエズス会の巡察師、アレッサンドレ・ヴァリニャーノが来日した際には通訳として同行し、安土城で信長と再会することになります。

1583年にはイエズス会総長の命令で日本におけるイエズス会の活動を記録に残す係に命じられ、宣教活動から離れました。

信長にとって魅力的だったイエズス会もう一つの顔

イエズス会の役割はもちろんキリスト教の布教です。

しかし、イエズス会には布教の他にもう一つ、別の役割があり、それは商人としての役割でした。

海外におけるイエズス会の活動資金はポルトガル国王によって賄われていましたが、ポルトガルから遠く離れた日本では援助に限界があり、国王の許可の下、貿易に参入します。

ザビエルも堺(大阪)でのポルトガル商館の建設や商館の関税をイエズス会の財源にすることを提案し、また日本で需要がありそうな商品リストを作成。

そもそもザビエルが日本来日に使用した船もイエズス会の船ではなく、ポルトガルの貿易船であり、ほとんどの宣教師は貿易船に便乗し、世界各地を回っていたのです!!

またイエズス会は「プログラドール」という貿易を担当するような役職を長崎に配置し、長崎では教会内に貿易品を貯蔵し、取引を行って、活動資金を賄っていました。

信長にとってもイエズス会は重要なビジネスパートナーであり、火薬の原料となる「硝石」を確保するためにはイエズス会と良好な関係を保つ必要がありました。

信長がキリスト教布教に寛容だったのはこのためなのかもしれません。

信長が殺された理由

1580年、信長がイエズス会を厄介な存在と思うようになるような事態が起こります。

なんと大村純忠が長崎をイエズス会の教会領として渡してしまったのです!!

それは、「長崎がポルトガルの植民地になった!!」と言っても過言ではありません。

これについては羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が、イエズス会の危険性を信長に伝えたことから、信長は日本からキリスト教を排除したいと考えるようになった可能性は大きいです。

また、大村純忠のキリスト教への信仰は過激であり、領内の寺社や先祖の墓を破壊したり、さらには領民にもキリスト教を強いるのです。

その結果、改宗しない領民は土地を追われたり、殺害されたりする事件が相次ぎました。

「弥助」スパイ説

1579年に来日した宣教師、アレッサンドロ・ヴァリニャーノは、1人の黒人を従者として同行させ、1580年、その黒人を1信長と謁見した際に献上。

黒人は「弥助」と名付けられ、なんと本能寺の変の際も信長と行動を共にしました。

しかし、弥助は本能寺の変で死ぬことはなく、信長の息子で後継者の信忠の元へ逃げ、再び明智光秀の軍と交戦。

最後は投降を呼びかける明智軍に応じて捕えられ、南蛮寺(南蛮風の教会)へ送り込まれました。なぜ光秀は弥助を殺さなかったんでしょうか?

なぜ「弥助」を殺さなかったのか?

イエズス会の人間を殺したら面倒になると考えたのか?

いや、どうもそうではなかったようですよ!実は弥助と光秀は裏で繋がっており、弥助はイエズス会のスパイで信長の監視役であったという説があるのです。

信長は、ヴァリニャーノに信長が交渉し、弥助を譲り受け、大変可愛がったと言われていますが、そもそも前年に大村純忠の事件があって、イエズス会を危険視していたかもしれないのに、弥助を自分の手元に置きたいと思うでしょうか?

危険視はしていても、硝石を得る為に信長は「いい人」を演じていただけかもしれません。

ちなみに南蛮寺に送り込まれた後の弥助の消息は不明になっています。

信長を利用し、日本と明を征服しようとしたイエズス会

ではなぜ信長が殺されたのか?それはイエズス会が信長を利用して明を征服することが不可能になったからだと筆者は考えます。

実はイエズス会内部には武力によって日本や明を征服するという思想を持つ者も存在しました。

しかし、遠方である日本や明に兵を送るのは困難と考えたイエズス会(正確にはそのバックにいるポルトガル)は、信長に協力してもらい、日本から明に兵を送って、明を征服しようと目論見ます。

信長も硝石を得る為にイエズス会と良好な関係を保つ必要があり、キリスト教の普及に寛容でした。

しかし、天下統一に近づくにつれ、イエズス会の協力がなくとも信長は絶大な力を持つようになります。

さらにこの頃の信長は、自身の神格化を目指したとも言われ、キリスト教の影響力の凄さも知っている信長なら「宗教」という力の大きさも理解していたはずです。

「銃」の次に求めた力が自身が教祖となる「織田信長教」だったのかもしれません。

そのような状態の信長にとってイエズス会は厄介な存在となり、イエズス会にとっては信長が厄介な存在となりました。

そして信長に対し、「様々な感情」を抱いている明智光秀を巧みに利用し、信長を暗殺したのです。

光秀の立場とイエズス会との関係とは?

明智光秀といえば、前回の大河ドラマ、「麒麟がくる」の主人公にもなった戦国武将ですよね!!

「麒麟がくる」の影響もあって、光秀は人に優しく、いざという時は覚悟を決める!!というような男に見えたと思います。(そもそもドラマなので、主人公を美化したり、いい人にみせるようなことは当然かもしれませんが)

そもそも光秀ってどんな人?

しかし、「麒麟がくる」以前の光秀といえば、

「主君を殺した裏切り者」、「三日天下の武将」

などいいイメージはありません。(信長暗殺の実行犯で、本能寺の変後すぐ秀吉に殺されたので、その通りだと思いますが)

では実際に「明智光秀」とはどんな人物なんでしょうか?様々な資料に書かれている光秀の人物像を列挙してみると

・信長のご機嫌を取るのがうまい太鼓持ち、

・無愛想で冷徹、

・部下への細かな配慮も欠かさない

など、資料によってバラバラですが、ほとんどの資料に共通して書かれていることが

「光秀は頭が良い」ということです。学問、対人関係、そして武将として総じて光秀は頭が良い人物でありました。

しかしこの「頭の良さ」がイエズス会と手を組み、信長を暗殺することになるのです。

ちなみに信長に仕える前の光秀には謎が多く、どこで生まれたのかも正確な資料はありません。なんと武将になる前は医師をしていたという説もあるんですよね!

交換条件は天下統一

ここからはだいぶ筆者の予測になりますが、光秀はイエズス会に「お前を日本のトップにさせてやるから、信長を殺せ!!」的なことを言われたのではないでしょうか?

光秀はキリスト教に関してはあまり興味を示さなかったようですが、キリスト教が全国各地に広まり、信長の配下にも高山右近などキリスト教の洗礼を受ける者も現れ、キリスト教の力は脅威だと感じたと思います。

そして光秀の頭の中で

「信長様が天下統一を達成すれば、キリスト教の規制、もしくは禁教を行う可能性もあるかもしれない。そうなれば、キリスト教勢力がポルトガルをバックにして「戦争」を仕掛けてくるだろう。

他国との戦争になったら日本は今以上に混乱してしまう。ということは信長様に天下を統一させてはダメだ!!よし!キリスト教勢力とバランスよくやっていけるのは俺だ!!」

と思うようになり、現段階でどちら側につけば自分にとって、さらには日本にとってメリットになるか分かったのでしょう。

そして、イエズス会の誘いに乗り、本能寺の変にて信長を暗殺することになるのです。

その他にも人前で信長に殴られたことや領地を没収されたこと、自身を神格化していく信長に嫌気が差したなど私怨的な要素もあると思いますが・・・・

本能寺の変の黒幕はキリスト教だった?イエズス会の闇・・・・まとめ

実際、本能寺の変の黒幕にはいろんな説があります。

豊臣秀吉説、徳川家康説など有力なものから、千利休説など「ウソだろ!!」と思うようなものまで。キリスト教説は資料も少なく、どちらかと言えば、千利休説に近い説です。

しかし資料が少ないということが筆者はキリスト教黒幕説を裏付けていると勝手に思っています。

なぜなら本能寺の変は、日本の歴史上でも大事件であるにも関わらず、資料があまり残されてないのです。

さらに日本の歴史はフロイスの書籍、「日本史」を基に作られていることから、フロイス(イエズス会)によって都合よく書けることも可能であったかもしれません。

そうなると「イエズス会が光秀を利用し、信長を殺したこと」を書かないことも可能であったことになります。

本能寺の変から11日後、光秀は秀吉との「山崎の戦い」で死亡。その後、天下を統一したのはご存じ、豊臣秀吉です。

秀吉は、イエズス会の領地となった長崎でキリスト教信者ではない人間が奴隷として連れ去られることを知り、1587年にキリスト教の布教と南蛮貿易を規制する「バテレン追放令」を発令します。

そして、キリスト教の布教を禁止し、京都の南蛮寺破壊、長崎の公館と教会堂をイエズス会から没収しますが、信仰の制限はしませんでした。

その後、秀吉は2度に渡って朝鮮と戦争をします。(いわゆる朝鮮出兵)

戦争になった理由はなんと

朝鮮が「明侵略への協力に拒んだためなのです!!」

もしかすると、秀吉の朝鮮出兵は明侵略を目論んでいたイエズス会の意向によるものなのかもしれません。

参考文献
歴史をわかりやすく解説 https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/817
教育情報資料センター https://kids.gakken.co.jp/box/syakai/06/pdf/B026109050.pdf
戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/828
はじめての三国志  https://hajimete-sangokushi.com/
文春オンライン https://bunshun.jp/articles/-/43170
日本文化の入り口マガジン https://intojapanwaraku.com/culture/93143/
東洋経済オンライン https://toyokeizai.net/articles/-/158743

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