1937(昭和12)年7月29日、この日、何が起きたかをあなたは知っていますか?
歴史の教科書にはのっていないため、現代の私たちのほとんどは存在すら知りませんが、とてもおぞましい事件が起きた日なのです!
1937年7月29日、中国の通州というところに住んでいた日本人が次々と襲われ、総勢二百数十名が残虐な方法で無惨に殺されるという凄惨な事件が起きました。
これは「通州事件」と呼ばれており、あるジャーナリストは、「古代から現代までを見渡して最悪の集団屠殺として歴史に記録されるだろう」と書き残しました。
しかし実際には、歴史に記録されるどころか、なかったことにされようとしています1937年7月29日、この日、日本人の身に一体なにが起きたのでしょうか。
この記事で解説します。
事件が起きた場所 通州とは?
1937年といえば、日中戦争がはじまった年です。
中国の盧溝橋で日本と中国の軍隊が衝突し、全面戦争に拡がりました。この衝突から1か月も経たないうちに、中国の通州という町で、日本人の大虐殺が起こったのです。
虐殺の被害があった通州とはどんな町だった?
通州は、中国の中でも運河を利用した交易で、古くから栄えた城下町です。
なぜこの場所に日本人が住んでいたかというと、当時の日本は中国の東北地方に満州国をつくり、そこと隣り合っている地域を非武装地帯として日本の勢力下においていました。
その場所こそが通州で、日本はここに政府機関をおき、日本人居留民家屋や学校、警備隊関連施設などをつくって生活していたのです。
この時代は中国に移り住んでいた人も多くおり、当時通州には、380人ほどの日本人が生活していたといわれています。
安全と思われていた通州
7月に日中の衝突が始まると、北京郊外では中国軍によって日本軍が襲撃される事件が度々起きていました。それに比べ、通州は中国兵からなる保安隊が、日本人の安全を守ってくれていることもあり、比較的安全と思われていたそうです。
日中で衝突が起きているのに、日本人の安全を守るのが中国兵だったというのは、不思議な気もしますよね。
通州には冀東防共自治政府という政府があり、そこのトップが、日本に留学経験があり、日本人の奥さんをもらった殷汝耕という人でした。
親日派の政府が任命した保安隊だったため、多くの日本人は保安隊のことを信用し、安心して暮らしていたのです。
しかし、悲しいことに、信用していたこの保安隊によって、多くの日本人の命が奪われてしまいました…。
1937年7月29日に通州で何が起きた?
1937年の通州では、歴史上に類を見ないほど、ひどい虐殺が繰り広げられました。
生き残った人の証言や、事件後現場に立ち入った人が目にした光景は、これが同じ人間の手によってされたことかと疑うほどだったといいます。
事件を詳しくみていきましょう。
通州事件の経過
事件は7月29日の未明に起こりました。本来であれば日本人を守るためにいた中国人の保安隊が、この日、一斉に日本人に向けて銃や剣をとったのです。
保安隊はまず、日本軍の関連機関や親日の政府である冀東政権の施設を次々と襲いました。その後は銀行に押し入り、金庫の中の現金を強奪します。
さらには電信局や電話局も占拠し、日本が外部に助けを求めることができないよう、通信手段を断ち切ってしまいました。
警察官舎も襲い、そこにいた警官を全員殺害します。こうして通州にあった日本の各機関を襲い、都市機能を完全にマヒさせると、最後に、日本人が住んでいた家に押し入り、虐殺を始めていったのです。
中国人保安隊の残虐非道な行為
残忍なことに、通州事件では、そこに住んでいた一般の人たちがかなりひどい方法で殺害されていきました。この事件の目的はとにかくすべての日本人を殺すことだったため、生き残った人は多くありません。
そのため、あの日通州で何が起きたかを知っている日本人は非常に少なく、エピソードもあまり残されているわけではないのです。
そんな中で、中国人の夫と共に事件後すぐに通州に入り、虐殺の数々を目撃した日本人女性がいます。彼女は、すべての日本人がひどい方法で殺されていく姿を次々と目にしました。彼女がみた光景を紹介します。
・まだ15~16歳くらいの少女が家から引きずり出され、娘を守ろうとした父親も何度も突き刺されて殺害される。その後少女は陵辱され、陰部を笑いながら銃身でえぐりとられ、腹を裂かれ、首を切り落とされた。
・10名ほどの日本人男性は手のひらを剣でえぐり取られ、そこに針金を通して数珠つな ぎのようにされ、男根を切り取られる。
・食堂と遊郭が一緒になった店では、女性2名が引きずり出され、何人もの男に代わるがわる陵辱を繰り返されたうえで殺害される。
・逃げ惑う老婆が斬りつけられ、腕が斬り落とされると、腹と胸も剣で突き刺される
・妊婦が引き出され、その旦那も集団で殴る蹴るなど乱暴された後、頭の皮をはぎ取られ、目玉をえぐられ、お腹も切り裂かれ、挙句の果てに腸を妊婦である妻に向かって投げつけられた。旦那が死んだ後は、妊婦もお腹や陰部を切られて殺された。お腹の赤ん坊までつかみ出され、ボールのように投げつけられ、踏みつけられて殺された。
・50人以上の日本人が処刑場に集められ、機関銃で殺害された。身につけていたものはすべて掠奪された。
・40~50人の日本人が次々に斬りつけられ、死体が池の中に投げ込まれていた。池の水は真っ赤に染まっていた。
これらはすべて、たった1人の女性が見た通州での残虐な行為です。彼女は、死体をいたぶったり、死んだ人から装飾品を奪うなどを平気で行う中国人の残虐さに、ひどくショックを受けました。
その後は中国人の旦那と離婚し、日本に帰ります。
通州事件の被害数
この事件で、通州に住む多くの人が保安隊の手によって殺害されました。
その数はなんと、225名にものぼります。
当時通州には日本人だけでなく朝鮮人もいたため、225名のうち、日本人の死者は114名、朝鮮人は111名でした。
中国の保安隊は、明らかに、中国人以外を狙って殺害しました。その証拠に、政府に雇われていた中国人は1人も殺されませんでしたし、中国人のいる家は狙わないように、事前に下見をしていたといいます。
日本人の中でも運よく生き残った人は、中国人にかくまってもらって難を逃れた人が多かったようです。
通州に住んでいたすべての中国人が虐殺に加わったわけではなく、あくまで保安隊とそこに加担する人によって起こされた事件だったということですね。
なぜ通州事件が起こったのか、その原因とは?
一体どうして、通州に住む日本人たちが殺されなければならなかったのでしょうか。
この事件に関する資料はあまり残されておらず、中国も積極的に調べようとはしていないので、はっきりとした真実は分かっていません。しかし、注目されている説がいくつかありますので、それを紹介します。
日本軍による保安隊誤爆説
通州事件が起きた当時、保安隊が日本人を虐殺した理由は、日本軍が起こしたある出来事がきっかけだったのではないかと考えられていました。
それは、日本の飛行隊による誤爆です。
ある日、中国の敵軍を追っていた日本の飛行隊が、間違えて保安隊のいる場所に爆弾を落としてしまったのです。これによって保安隊員10数名が犠牲となってしまいました。
この出来事は日本にとっても寝耳に水で、すぐに謝罪をします。
それでも、保安隊の一部の隊員の中には、日本軍を非難したり、恨み続けた人もいました。
事件が起きた当初は、保安隊はこの誤爆の復讐として日本人を虐殺したのではないかと考えられます。しかし、後に保安隊隊長の証言が世に出ると、この誤爆事件は通州事件にはあまり関係ないと考えられるようになりました。
保安隊が中国の軍隊と密かにつながっていた説
日中戦争が終わって30年以上経った後、保安隊の隊長であった人物が当時を回想して手記を残しました。そして、そこには驚きの事実が記されていたのです。
それは、保安隊の隊長であった時には、すでに日本に対する反抗の気持ちをもっていたこと、日本と敵対していた中国国民政府の人物と密かにつながっていたということです。
彼は、日中両軍の戦闘が本格的に始まったら、日本軍の不意をついて、通州で反乱を起こすように指示されていました。しかも、そのための活動資金も渡されていたのです。
いくら日本を守るための保安隊と言えど、この時代、日本と中国はかなり敵対しており、お互いのことをよく思っていませんでした。そんな中で、隊長が「日本への恨みをはらすために反乱を起こそう」と言えば、それに従う保安隊が多かったのは当然といえそうですね…。
この証言が世に出ると、日本軍による保安隊の誤爆があってもなくても、通州事件は起きていただろうと考えられるようになりました。
通州事件を知った人たちの反応
この事件は、多くの新聞でセンセーショナルに伝えられました。外国人は通州事件をどのように見ていたのか、また、通州事件の報道を見た日本人の反応も紹介します。
このアメリカ人は、通州事件を最悪の集団屠殺として歴史に記録される、と報道しました。西洋の人からみても、通州で中国人がした行為は、異常にうつったのですね。
通州事件の報道を見た日本人
通州事件の報道は、日本でも大きく取り上げられました。
中国で暮らす多くの日本人が殺害されたというニュースに、国民の衝撃も大きかったようです。しかし当初は、通州の電話線も電線も切断されていたため、事件の詳しい内容までは分かりませんでした。
実態が詳しく伝えられるようになったのは、事件後5日ほど経ってからです。
新聞社は通州事件で生き残った人の話を次々と報道しました。
そのあまりに残虐非道な行為と、凄惨な現場を写した報道写真は、見た人の多くを震え上がらせました。
こうした報道を目にした人たちは、次第に「暴支膺懲(ぼうしようちょう)」という、暴虐な支那(中国)を懲らしめようといった意識を強めていきます。
同じ日本人がひどい方法で殺害されたと知ったのですから、多くの人が怒り、憤ったのは自然なことだといえますよね。
通州事件をきっかけに、日本人の中に、反中の意識をもつ人が増えていきました。
通州事件・中国で日本人が虐殺されていた!通州事件まとめ
日中戦争は8年間も続き、泥沼化したとよく言われます。
途中で戦争を終わらせることができなかったのは、通州で起きたあまりにひどい虐殺行為のかたきを討たなければならない…そういう気持ちが日本人の中にあったからと考える人もいます。
日中戦争を語る上で、日本人が中国人にどんな感情を向けていたかを知ることのできる重要な事件なはずなのに、残念ながら通州事件は歴史から忘れ去られようとしています。
中国からしても不都合な事件なので、通州にあった日本に関連する建物はすべて取り壊されてしまいました。
日中戦争では日本と中国両方にこうした一般市民の虐殺のエピソードが残されています。
こうした残虐な行為が、お互いを憎しみ合い、戦争を長引かせ、さらなる被害を産んだという意味でも、通州事件のような悲劇は繰り返されてはならないし、忘れられてはいけない事件だと思わされました。
【参考文献】
加藤康男『慟哭の通州 昭和十二年夏の虐殺事件』飛鳥新社、2016年
広中一成『通州事件 日中戦争泥沼化への道』星海社、2016年
藤岡信勝『通州事件 目撃者の証言』自由者、2016年