そのまた昔、天智天皇の弟である天武天皇と、息子の大友皇子が皇位を巡って争った事件がありました。
それは壬申の乱です。
天皇の親戚の中での争いにはどうやら血なまぐさい事情があるようです!
今日はなぜ壬申の乱は起こったのか、天武天皇はどのように勝利を収めたのか?またその後の治世について紹介していきたいと思います!
天武天皇の生い立ちは?
天武天皇として即位する大海人皇子(おおあまのおうじ)は、舒明天皇と皇極天皇の子として生まれました。
あまりにも昔のことではっきりとした生年月日に関する記録はありませんが、おそらく630年前後に生まれたと考えられています。
実の兄は、大化の改新で有名な中大兄皇子(なかのおおうえのおうじ)つまり、天智天皇です。
天武天皇と天智天皇、、ちょっと間違いそうになりますね!壬申の乱を起こしたのが天武天皇、大化の改新で有名なのが兄である天智天皇ということになります!ややこしい!
天武天皇が皇太子になるまで
若き日の大海人皇子には、中大兄皇子と行動を共にする姿がよく見られ、とても仲が良かったと言われています。
そして時は660年、朝鮮半島に位置する友好国「百済」を救援するために、朝廷は白村江(はくそんこう)の戦を起こします。
その際、兵隊を送るため地理的にも便利な筑紫(現・福岡県)に都がうつされますが、大海人皇子もこれについて行くことになりました。ー
また、中大兄皇子の命令により大海人皇子は「冠位二十六階制」の制定も行っており、政治の中心にいたことがわかります。
そして中大兄皇子が近江大津宮で天智天皇として即位した668年、大海人皇子は皇太子に指名されます。
天皇の弟にあたることから、日本書紀は「大皇弟」と記しています。
壬申の乱にいたる経緯
天智天皇には大友皇子(おおとものおうじ)という息子がいました。
671年、天智天皇は息子の大友皇子を太政大臣に指名します。太政大臣は政治のトップにあたる要職です。
そのため、大友皇子の太政大臣指名は大海人皇子のこれまでの仕事やポジションを奪いかねない人事でした。
実際、天智天皇は弟よりも息子である大友皇子に天皇を継承させたかったようです。
そして案の定、天智天皇は大友皇子を皇太子にしようとしているのでないか、といった気運が朝廷に立ち込めます。
弟である大海人皇子は天皇であるお兄ちゃんが息子の大友皇子に高い役職をあたえたことで不満を抱き始めます。
とはいっても慣例でいうと天皇の息子より弟のほうが皇位継承が先にくるのが普通でした。
身を案じ、都を脱出する大海人皇子
671年、天智天皇は余命僅かと知ると弟の大海人皇子に天皇を継ぐように頼みます。
しかし、大海人皇子はなんとこれを断りました。
実は大海人皇子はかわいがっていた使者である蘇賀臣安麻呂から、天智天皇からの皇位継承の頼みには用心してくださいと言われていたらしいです。きっと蘇賀臣安麻呂は天智天皇のなんらかの陰謀を見抜いていたのでしょうね。
そして大海人皇子はこう考えます。
「天智天皇は、本当は大友皇子に継がせたいと考えているのに、なぜ自分に皇位継承を頼んだのか?
実は、本気で天皇を自分にまかせるつもりはなく、もし、自分が「天皇になります」と言えば大友皇子を軽んじた罪で自分を粛清できる・・・のでは?
それが狙いなのでは。。。」
と警戒したのです。蘇賀臣安麻呂の耳打ちが大海人皇子を救うことになります。
天智天皇の考えは「大海人皇子」排除?
一方天智天皇はこんなことを考えていました。
「自分の息子である大友皇子の母は側室…どう考えても皇位継承は簡単には運ぶまい。となると皇位継承は大海人皇子になるなあ、、、。
しかし、あいつは頭がいいから、自分が皇位を譲ると言えば身の危険を案じきっと断るのでは?
そうだ!今のうちから大友皇子に天皇継承をもちかけ、あいつの口から断らせてしまおう」
つまり、息子の母はあまり身分が高くないため息子が天皇になるのは厳しいと考えたのです。
その時に有力天皇候補となる大海人皇子。
しかし、前もって天皇継承を断らせておけばスムーズに息子が天皇になれるのでは?と考えたんですね。
断らせるために天皇継承をもちかけた天智天皇、おもうつぼで天皇継承を断った大海人皇子。
果たしてこの二人の策略はどう動いていくのでしょうか
天皇継承を争った壬申の乱勃発!
そして、この天皇継承の件で命を狙わることになった大海人皇子。
一時の身の危険は脱した大海人皇子ですが、身の安全を図るために吉野(現・奈良県)に、出家という体で逃亡します。
しかし、大海人皇子はまれにみる武徳があり、必ず何かを起こすだろうと期待されていました。この様子を日本書紀は「虎に翼をつけて放してやるようなものだ」と皮肉るほど。
671年の10月、近江大津宮を脱した大海人皇子は無事、吉野に逃げ延びます。
静けさのうらに天皇継承の火花
ただ、吉野に到着後なんらかの行動をすみやかに起こしたかというと、そのようなことはありませんでした。
同年の12月に天智天皇は崩御しますが、その年は何事もなかったかのように明けていきます。水面下ではガチガチに天皇継承の争いが火花をちらしていたはず、、しかし表向きは静かな日々がつづきました。
朝廷は、政権の奪取を目論んでいるかもしれない大海人皇子を、この年はただ放置したということになります。
大友皇子の即位準備や、白村江の戦いで疲弊した国力の立て直しに多忙であったのかもしれません。
それとも、大海人皇子の出家を真に受けていたのでしょうか?(そんなバカな)
翌672年5月、朝廷はようやく大海人皇子に対する軍事行動を起こします。
前年に崩御した天智天皇の陵墓を造るために徴発した人夫達に武器を持たせ、大海人皇子を討伐する兵力にしようとしました。
この動きを察知した大海人皇子はついに挙兵。やっと来たかという思いだったのではないでしょうか?」
大海人皇子は朝廷軍に反対する兵力を求め、吉野を脱出し自身の領地である美濃国(現・岐阜県)を目指しました。
両軍の動き
大海人皇子は、朝廷軍に匹敵しうる兵力を集めるために「自身の基盤である美濃を始めとする東国で徴兵を速やかに行うこと」「朝廷の東国における徴兵を妨害すること」を画策します。
672年6月24日、吉野を脱した大海人皇子は美濃の国を目指す途上で味方についた軍勢を用い、旧東海道の要衝である鈴鹿の関(現・三重県亀山市)を封鎖します。
これにより、朝廷方の追撃を防ぐこともさることながら、朝廷が徴兵のための使者を東海方面に派遣する動きを妨害することにも成功します。
さらに、あらかじめ指示を出しておいた別動隊による不破の関(現・岐阜県関ケ原町)の封鎖にも成功。
あれよあれよというまに大海人皇子の戦略はうまくいき戦況はいいようにすすんでいきました。
戦況は大海人皇子有利に!
6月27日、無事自領である美濃国にたどりついた大海人皇子にうれしい知らせが届きます。
敵であるはずの尾張国の小子部鉏鉤(ちいさこべのさいち)が2万の兵とともに寝返ってきたのです。
もともとは朝廷軍として組織されたはずの軍だったのですが、不破の関の封鎖により朝廷との連絡が途絶、やむなく大海人皇子側についたとのことです。これは大海人皇子にとってはラッキー!
意外なとこで多くの兵士を得ます!一方の朝廷軍はというと、兵力の補充に大きく苦しみます。
東国での徴兵活動を大海人皇子に妨害されたため、西国から兵を補充しようと試みました。
しかし、約10年前の白村江の戦いのために西国では多くの兵が徴発されていたため、再度の徴兵が難しかったのです。
また白村江の戦いにおける敵国、新羅の来襲に備え西国に多くの兵を残しておかなければならなかったことから、思うように兵を動かすことができなかったのです!
しかしそれでも、都の近隣から兵力を募ることには成功し、最終的には両軍とも約3万近い軍勢を揃えることとなりました。
大友皇子の敗北
7月7日、高市皇子(たけちのみこ)を大将とする大海人皇子軍は琵琶湖の東岸で朝廷軍と激突し、撃退することに成功!
また、並行するかたちで琵琶湖の西岸からも別動隊を南進させ、琵琶湖の南端にあたる近江大津宮を向かい、包囲することになります。もはや朝廷軍はなすすべもなく総崩れ。
ついに7月22日、朝廷軍は瀬田橋の戦いに破れ、大友皇子は自害しました。吉野の地で挙兵をしてから1カ月足らずの出来事です。
なぜ乱はおこったのか?
大海人皇子はなぜ乱を起こしたのでしょうか?
一つに、大海人皇子に高い勝算があったことが挙げられます。
当時の皇位継承の通例は、政界での経験が深く、30~40代で母方の身分が高いことでした。
大海人皇子は全てに当てはまります。挙兵をした場合、多くの豪族が自分につく、と考えた可能性は高いですよね。
もうひとつ、自身の妻であった額田王を天智天皇に奪われた恨みがあります。
さらに、天智天皇と大海人皇子には、宴会の席で武器を使っての大乱闘に発展しかけたという因縁もあります。
大友皇子にとってはとんだとばっちりですが、大海人皇子には「あんな過去があるのに、大皇弟の自分が義理立てをする必要があるか」という気持ちがあったのかもしれません。
乱の終結後
大海人皇子は、戦後処理のために暫く自領の美濃に留まりました。なお、この戦後処理の際、大友皇子側についたほとんどの豪族は罪に問われなかったといいます。
国家の立て直しを図るために多くの優秀な官僚が必要だったという側面もありますし、大友皇子側から見れば、大海人皇子が勝手に都を出ていき、勝手に乱を起こしたわけですから、むやみに処罰を行うのはおかしな話です。
そして、673年に天武天皇として即位します。
また、都をこれまでの近江大津宮から奈良の飛鳥浄御原宮に移しました。
天武天皇の治世
天武天皇はまず軍制の改革を行い、効率的に兵力を整える仕組みを作りました。上手く兵を集められなかった、大友皇子の二の舞には決してならない!と考えたためです。
そして天武天皇最大の功績といえる、律令の導入です。
律令とは現在でいうところの法律であり、律は刑法を、令は主に行政法を表します。
681年にこれまでの律令に手を加え新たに改良することにし689年に後の大宝律令にも繋がる「飛鳥浄御原令」が完成しました。
行政の円滑化もさることながら、戸籍の作成ルールも定まり、よりスムーズな徴兵にも繋がる代物です。
天武天皇の治世以降、役人が文書の作成に用いた「木簡」が多く使用されるようになったことがさまざまな発掘から明らかになっています。
すぐれた法律の導入により、文書による政治・行政が浸透した証拠といえるでしょう。
その他に、日本最古の貨幣といわれる「富本銭(ふほんせん)」の鋳造や、「八色の姓(やくさのかばね)」による貴族の身分体系の整備といった功績があります。
天武天皇のおもしろエピソード
天武天皇は675年に「肉食禁止令」という面白い法律を制定しています。農業が盛んになる4月~9月に「牛・馬・犬・鶏・猿」を食べてはいけないというものです。
牛や馬は農具を引き、犬は番犬となり、鶏は時間を告げるといったかたちで農業に役立つからです。そういった動物に敬う気持ちから「肉食禁止令」ができたんでしょうね。
また、なぜ猿もダメなの?と疑問に思った方もいるかと思いますが、猿は人に似ているからと言われています。なお、鹿や猪は田畑を荒らす害獣なので食べることを特には禁止されませんでした。
なんとも面白い法律ですよね。
吉野の盟約
679年、天武天皇は鸕野皇后(後の持統天皇)と6人の皇子を吉野に呼び寄せました。
草壁皇子を次の天皇とし、他の皇子達は力を合わせてこれを支えようと誓い合ったのです。
自身が起こした壬申の乱を思ってのことだったのでしょうね。。ただ、この誓いが果たされることはありませんでした。
有能さゆえに太政大臣となった大津皇子と草壁皇子の間に後継争いが発生。
大津皇子は謀反の疑いをかけられ自害し、草壁皇子も若くして亡くなってしまいます。
やむなく鸕野皇后が持統天皇として即位、以降、天武天皇の皇子達が即位することはありませんでした。
壬申の乱と天武天皇について解説!天皇継承を争い骨肉の争い!まとめ
天武天皇の生い立ちから、壬申の乱、その後の治世を紹介しました。
天武天皇は挙兵後のすばやい行動によって多くの味方を集めた一方、大友皇子はそれに失敗したことが勝負の分かれ目となりました。
壬申の乱や天武天皇は多くの書籍や漫画などで取り上げられる人気テーマです。
興味を持たれた方は、ぜひご覧いただければと思います。
参考文献
天武天皇と持統天皇 著:義江 明子 山川出版社
壬申の乱と関ヶ原の戦い –なぜ同じ場所で戦われたのか 著:本郷 和人 祥伝社
公益財団法人 日本肉食消費総合センターのホームページ