白村江の戦いをわかりやすく解説!遣唐使が人質になるという衝撃的な戦いだった!

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「白村江(はくすきのえ)の戦い」とは、唐と新羅(しらぎ)の連合軍と日本と百済(くだら)の連合軍が戦った戦争のことです。

7世紀の中ごろに朝鮮半島の白村江で起きました。

朝鮮半島には、当時高句麗(こうくり)・新羅(しらぎ)・そして百済の3つの国があり、その中でも、百済は日本と同盟を結ぶなど、仲の良い関係でした。

日本はなぜ朝鮮半島に出向いてまで戦争をしなければならなかったのでしょうか?

今回は「白村江の戦い」を、わかりやすく解説していきます。

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目次

高句麗・新羅・百済という3つの国と日本


引用元:https://www.touken-world.jp/tips/10556/

600年代、朝鮮半島には北に高句麗、東に新羅、そして西には百済という3つの国がありました。

日本がまだ「倭国(わこく)」と呼ばれていた時代です。

朝鮮半島の南部には、これより前に、任那(みまな)や伽耶諸国(かやしょこく)というのもあって、倭国はこの地域から鉄資源を得ていました。

この地域は、朝鮮半島における倭国の出先機関(支社のようなもの)であったと考えられています。

たくさんの倭人がやって来て、朝鮮の人々とともに働いていたのではないでしょうか。

日本特有のお墓の形である前方後円墳が、この地域に点在しているのがその証拠となっています。

しかし、これら諸国は残念ながら500年代の中ごろに滅ぼされてしまいます。で、代わって倭国と仲良くなったのが百済でした。

百済とは位置的にも近かったので、倭国と百済は密接な関係を結ぶようになります。

人や物が行き交い、儒教や仏教も百済を通じて倭国に入ってきました。

友好関係を結ぶ中で、650年ころには百済の王子が人質として倭国にやって来ます。え?もう喧嘩?と思うかもしれませんが、人質といっても、牢屋に入れられたりひどい扱いを受けるようなものではありません!

大事な朝廷の公式行事などにも出席しているので、百済の大事なお客様という扱いだったと考えられます。

百済の滅亡

さて、一方、朝鮮半島の北の方はどうなっているかということ・・・

中国には隋という国がありました。

何度も朝鮮半島北部の高句麗に攻撃を仕掛けますが、なかなか侵略することはできません。

そして、高句麗を手に入れる事ができないまま隋は唐によって滅ぼされてしまいます。

隋とは違い唐は、周辺の国々を次々と自分の支配下に入れて領土を拡大していきました。

やがて拡大の手は百済にまでおよびます。そしてさらには新羅とともに百済にまで攻め込んできたのです。

唐軍は水上から、新羅軍は陸上から百済を攻撃し、ついには660年7月、百済は滅亡してしまいます。

遣唐使が倭国に帰れない!

白村江の戦いをわかりやすく解説!遣唐使が人質になるという衝撃的な戦いだった!

引用元:https://ja.wikipedia.org/wiki

ところで、倭国はといえば、唐には遣唐使を送っていましたよね。

唐が着々と百済攻略を狙って準備をしていた時の、659年にも第4回目の遣唐使を派遣しています。

当時、遣唐使は出発してからその翌年には帰りの船が出ていました。

唐としては、やって来た遣唐使の人たちが、いつどこで唐が百済を攻めるという情報を手に入れるともかぎりません。

倭国に帰ったら、きっと彼らは朝廷(=倭国の政府)に唐で知ったことを知らせるでしょう。

情報が倭国に伝わってしまうことを恐れた唐は、彼らが到着すると間もなく、都である洛陽(あるいは長安)に彼らをとどめるという強硬策に出ます。

それほど、密かに準備がされ情報が漏れることを恐れました

一回に派遣される遣唐使というのは、実際には総勢何百人という大人数です。唐は依然から中国にいた多くの倭人たちも含めて、彼らの自由を奪っていたのです。

ただただ秘密を漏らされたくないという理由で・・・・友好国である

彼らが倭国に帰れたのは、百済との戦いと「白村江の戦い」の後、10年以上も経ってからといわれています。

白村江の戦い

百済は滅亡しましたが、倭国には百済の王様の息子である王子が人質としていましたよね。

つまり百済の王族の血を引く人物です。

生き残った百済の官僚たちは、この王子を立て王として百済を立て直そうと計画します。

官僚たちは倭国に来て、その計画を話し倭国の援助をお願いしました。

そのころ倭国は大化の改新の真っただ中で大忙し。ですが、百済はかつての友好国です。

その友好国の頼みということで、倭国はこの申し出を受け入れます。直ちに人質の王子を解放し、やって来た百済の官僚たちとともに朝鮮半島に向かわせました。

と同時に、唐と新羅の連合軍をやっつけるための、百済復興軍を助ける軍隊が組織されます。

白村江の戦いで敗北したのは?

661年5月 先遣隊として第一派が出発しました。662年3月 そして、主力部隊の第二派が出発。

663年、倭国からの援軍が来たことで、かつて人質であった王子が今や王となって百済復興軍を率い、大いに奮戦しました。

しかし、水軍7000名を増やすなどして唐軍が兵力を増強。

唐・新羅連合軍が、海からと陸から倭国・百済の連合軍を挟み撃ちにして攻撃を仕掛けると、一気に劣勢に転じてしまいました。

逆転挽回をねらった8月、倭国・百済軍は、唐・新羅軍のいる白村江の河口に突撃をかけます。

が、これが大敗。

陸上にける百済復興軍も崩壊し、「白村江の戦い」は倭国・百済復興軍の敗北という結果に終わりました。

どうして負けてしまったのでしょうか?

研究者たちはその敗因について次のように分析しています。

まずは兵力。

倭国軍が総勢約5万人、それに対して、唐・新羅連合軍は、推定約18万人。

何と3倍以上の兵力です!

さらに、唐・新羅軍は、装備についても倭国軍を上回っていたといいます。

加えて、百済の復興軍は内部でもめ事が絶えず、統一されないままに実戦となったということ。

倭国軍にしても、強力な権限を持った指揮官がいなかったということが、この戦いの敗因とされています。

だいぶ無茶な戦いであったことが伺えますね。

白村江の戦いのその後と唐の関係

倭国にとって唐と対立するということは、とっても不利なことです。

唐は、当時のヨーロッパを含めて考えても、大きな領土をもち文化的にも発展したトップクラスの国でした。

そのため、倭国としては、唐と対立するなんてことは絶対に避けたい!しかし、唐の方はどうでしょうか?

戦いをした相手ですから、許してくれないかもしれない。

倭国に攻撃を仕掛けることは充分に考えられます。

倭国は大化の改新の真っ最中でしたね。

大王(おおきみ、後の天皇)を中心とした中央集権国家をつくるために、さまざまな改革をしていました。

白村江の戦いに負けたことで、これらの改革を急いですることとともに、国の防衛についてもしっかりと備えていく必要に迫られます。

国内の防衛と新しい国づくり

唐とは友好関係を保っていくという姿勢をとりながら、一方では、いつ攻撃があるかもしれないということから、国の防備について万全な準備をしていきます。

対馬(つしま、朝鮮半島と九州の間にある島)や壱岐(いき、北九州西部の島、さらに筑紫(つくし、今の福岡県)に「防人(さきもり)」を置き、監視に当たらせました。

さらに筑紫には「水城(みずき)」という高い堤と水を貯えた堀からなる防御施設と、「大野城」という山城をつくりました。

大野城を築いた山の山腹は土塁や石垣でめぐらせ強固にして、敵の攻撃に備えました。

また、667年には、都を難波から内陸の近江京に遷都して防衛体制をしきました。

中大兄皇子は即位しないまま、政治の中心にたって政務をこなしてきましたが668年、天智天皇として即位します。

捕虜だった遣唐使の帰還

このころ、朝鮮半島はどうなっていたかというと、唐・新羅の連合軍によって高句麗が滅亡します。

3国あった朝鮮半島で、百済に続いて高句麗が滅ぶと、新羅は半島全部をその支配下に置きたいという野望を抱くようになりました。

さて、唐と新羅との関係は、一緒にこれまで戦ってきたというだけでなく、宗主国と従属国という関係です。

唐の一番偉いリーダーを「皇帝」と言いますが、これは「王の中の王」という意味。

多くの王を束ねる、その頂点にいるのが「皇帝」です。唐が「皇帝」であるのに対して、新羅のリーダーは「王」です。

いわば「主従関係」のような関係なんですが、その新羅が唐に対して、何かと対立するようになってきます。

唐としては新羅を抑え込みたい、新羅に集中したいということになりますよね。

ということで、唐は倭に対しては攻撃ではなく、仲良くやっていく融和体制をとる道を選びます。

その融和のひとつの現れが、これまで捕えていた捕虜の返還です。

『日本書紀』によると、671年11月、唐の兵士や百済人も含めた総勢2000名が、74隻の船に乗ってやって来ました。

その後も何度かわたって、捕虜の返還が行われました。

「白村江の戦い」によって倭国はどう変わった?

「白村江の戦い」は、確実な史料によるわが国初の対外戦争でした。

敗北したことで、当時進めていた大化の改新をさらに迅速に進めていく必要に迫られます。

外敵からの備えとともに、国内でのいろいろな制度も整えられていきました。

全ての人民を把握するための戸籍が作られ、これをもとに税制も確立されます。唐に倣って、都が作られ律令制国家へと姿を変えていきます。

白村江の戦いをわかりやすく解説!遣唐使が人質になるという衝撃的な戦いだった!まとめ

倭国と友好関係にあった百済が滅び、その百済を復興するために、当時の朝廷は朝鮮半島に軍隊を派遣しました。

唐・新羅の連合軍と倭国・百済の連合軍が白村江で衝突したのが、「白村江の戦い」です。

少数でよく戦いましたが、倭国・百済の軍は敗北、倭国は朝鮮半島から撤退します。

今度は、倭国に大国、唐が侵攻してくるかもしれないという、危機的状況が生まれます。

初めて「国を守らなければいけない」 ということが意識されたのではないでしょうか。

701年に制定された「大宝律令」で、倭国は「日本」という国名を掲げます。

後には、建国の歴史を描いた『古事記』や『日本書紀』、各地の風物や文化を記した『風土記』が作られます。

「白村江の戦い」 は、新たな「日本」という「国」が誕生する大きなきっかけとなりました。

参考文献
「白村江の戦い」(Wiki)
「日本神話・神社まとめ」:https://nihonsinwa.com/
「刀剣ワールド」白村江の戦い:https://www.touken-world.jp/tips/10556/
「発掘ばい 九州古代ヘリテージ」古代日本と朝鮮半島探るhttps://horubai.jp/content/news/154

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