天皇てっ何者なの?どんな役割があるの?わかりやすく解説していきます!

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こんにちは!
みなさんは天皇についてどのようなイメージを持っていますか?

「何かよく分からないけど偉い人」「よく国民に向かって手を振ってる」「ニコニコしてる優しそうなおじさん(おじいちゃん)」などでしょうか?

これらのイメージは戦後約70年かけて作られた物で、最初から天皇はこのような印象を持たれていたわけではありません。

天皇は各時代によって扱いが違うのです。今回は4つの時期に分けて、天皇がどのような存在だったかを解説していこうと思います!!

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目次

期目の天皇

日本の歴史に最初から天皇という存在があったわけではありません。

天皇の原型となる存在が日本に現れたのは今から約1600年前。

日本が中国から「倭」と呼ばれていた古墳時代のころに遡ります。(ここでは倭ではなく、日本と呼ぶことにします。)

はじまりは大王から

古墳時代の日本を支配していたのはヤマト政権という政治連合体でした。支配といっても日本全国すべてに影響力を持つ権力者はまだ存在していません。

へ~そうなんだ~って感じですよね。

あくまで政治連合体なので、好き勝手に王が各地を支配している状況です。ただし、現在の奈良県大和地方に強力な王の集団がいたことは事実です。

各地の王も大和地方の王たちに従っており、自らの土地や人を献上していました。この大和地方の王たちは、さらに上位の存在を担ぎ出して大王という支配者を立てていました。

この大王が天皇に繋がる存在です。

でも、ただの大王‥ビックキングです。エンペラーたる天皇には比べようもないほど弱い存在です。

おそらく各地の王たちは「大王が何だ?そんなに偉いのか?」と思っていたでしょう。大和地方の王たちも「俺たちが担ぎ出しているから、大王は存在するんだ。調子に乗るな」なんて裏で言っていたと思います。

そんな状況だから、蘇我氏という一族が大王に代わって権力を握っていたのです。大王の中には蘇我氏に暗殺された人もいます。

民衆にいたっては、存在すら知らなかったのではないでしょうか。

大王から天皇へ

この状況を大きく変えたのがみなさんご存知の中大兄皇子です。

彼が歴史の表舞台に登場するころ、中国や朝鮮半島では皇帝や王に強力な権力が集中し、国全体をコントロールできる状況が完成しつつありました。

「このままではいけない‥日本も強力な統一国家にしなくては!」と中大兄皇子は考えたようです。

蘇我氏を滅亡に追い込み、大王へ権限が集中するよう改革を進めました。(大化の改新)

例えば、「全国の土地や人は俺のもの!」とか「王の序列は俺が決めるわ!」といった具合です。

これに各地の王たちは反発します。

志半ば‥中大兄皇子は病に倒れてしまいます。彼の跡をついだのは大海人皇子。中大兄皇子の弟にあたります。

彼は中大兄皇子の息子と皇位継承を巡って戦った上で権力を握りました。(壬申の乱)

この時に中大兄皇子に味方した有力な王ごと滅ぼしたので、後に残ったのは弱い王たちと大海人皇子のみです。

彼は強力な権利を握りました。彼に逆らう王は日本中どこにもいませんでした。彼は今まで使ってきた大王という称号をやめて、「天皇」という称号を使います。彼は天武天皇として即位します。

天皇という称号は中国の皇帝と同レベルだと思ってください。天武天皇はもはやビックキングではなくエンペラーとなったのです。

「え?それまで天皇はいなかったの?」と思う人がいると思います。

その通りです。それまでいた中大兄皇子(天智天皇)や推古天皇といった人たちは天皇の称号を使っていなかったのです。これらの名前は後の時代の人たちが送った名前です。

※天皇の称号はいつ始まったかについては諸説ありますが、私は天武天皇からスタートしたという説を支持しています。

天武天皇や彼の后の持統天皇がさらに改革を進め、日本は天皇が統治する国家になりました。

もはや天皇に逆らうものはいません。

期目の天皇

こうして日本のトップに君臨した天皇でしたが‥その権力を維持することができませんでした。

別の存在に権力を奪われてしまったのです。

形だけの存在へ

天武天皇や持統天皇の跡を継いだ天皇の失敗が目立ちます。例えば‥

聖武天皇‥理由はよく分かっていないが、何度も都を変える。全国に国分寺(国分尼寺)という官営のお寺を作らせる。大仏を作ることを命じる。これらの政策により国にお金がなくなる。

称徳天皇‥自らの治療をしてくれた道鏡というお坊さんを天皇にしようとして、政治的な混乱を引き起こす。

このあと桓武天皇や嵯峨天皇といった人たちが立て直しを図りますが、別の存在を頼らなければなりませんでした。

それが藤原氏です。

藤原氏は天皇家との関係を強める中で、一族の娘を天皇の妃にするという作戦を取りました。

天皇と藤原氏の女性との間に生まれた子どもが次の天皇になると以下の状況が生まれます。

「絶対的な権力をもつ天皇のお爺ちゃんや叔父さんが藤原氏」

この時代は母方の家で子どもを育てる習慣があったので、この天皇との関係性は強力です。自分を育ててくれたお爺ちゃんや叔父さんに逆らうのは難しいのです。

藤原氏はこの関係を利用して権力を握りました。こうなると天皇が優秀かどうかは関係ありません。

そう、形だけの存在で良いのです。8歳で即位した幼い天皇が出てくるのもこの時期です。

権力の正当性を証明する天皇

形だけの存在になっていく天皇でしたが、その存在価値までが消えたわけではありません。一度日本の頂点に立った天皇の血筋には価値がありました。

後の時代に出てくる権力者が天皇家の血筋をどのように利用したか見てみましょう。

上皇(院)‥もと天皇であり、現在の天皇の父親(祖父)であるという立場を利用。

平氏‥桓武天皇の血をひくという立場を利用。また藤原氏と同じく天皇家と婚姻関係を結び、平氏の血を引く天皇を立てた。

源氏‥清和天皇の血をひくという立場を利用。将軍というポストも天皇から任命されるものであった。

足利氏‥源氏の一族であるという立場も利用しながら、将軍というポストを天皇に求めた。

織田信長・豊臣秀吉‥全国を統一する中で天皇の権威を利用。とくに秀吉は自身の身分の低さをカバーするために天皇の補佐役を意味する「関白」の地位を手に入れた。

徳川家康‥源氏の一族の末裔であると主張し、源氏や足利氏と同じく将軍のポストを天皇に求めた。(この時には完全に天皇を統制しており、実質的な権力をほぼ全て奪い取っている。)

いかがでしょう。このように見てみると天皇の権威がいかに重要だったかが分かりますね。

また、どの権利者も天皇を滅ぼしたり天皇に取って代わろうとした者はいません。天皇という存在は最早越えられないものとなっていたのです。

ただ京都の人以外は天皇という存在をあまり知らなかったと思います。将軍がどうしても目立っていますから。

期目の天皇

幕末の時代、将軍を頂点とする江戸幕府は日本を率いる存在として相応しくないとの声が高まりました。

幕府を倒そうと動いていた薩摩藩(現在の鹿児島県)や長州藩(現在の山口県)の武士たちは、将軍の対抗馬として天皇を利用することにしました。

再び日本のトップへ

天皇は形だけとはいえ将軍より上位の存在です。周囲の人々にも説得力があります。「将軍を排除して元の天皇が強い状態に戻すだけだ」といえば反論できません。

また彼らは、幕府を倒した後も天皇の権威を使って日本をまとめることにしました。

再び天皇は日本のトップに立ったのです。

幕府に代わって新しく誕生した新政府は天皇が日本のトップに立ったことを示すために、天皇を全国に出かけさせ、威厳ある存在に描かれた御真影(天皇の絵)を学校などに配布しました。

この時から日本人の中に天皇を知らない者はいません。

天皇を尊敬させるような教育も徐々に始まり国民の中に根付き、染み付いていきます。

法的にも天皇に対して危害を加えた場合は特別な罪と罰が適用されました。

神聖不可侵な天皇

この天皇の権威は憲法(大日本帝国憲法)に規定されることになります。

第一条で「大日本帝国は昔から代々続く天皇が統治する」
第三条で「天皇は神聖な存在だから侵してはいけない」

といった具合です。

天皇の絶対的な権力が憲法で保障されました。

一方で天皇は憲法に縛られた存在であるという文も追加され、天皇は何でもかんでも自由にできるわけではないことが規定されています。

実際にこの憲法が作られた時の天皇(明治天皇)は、あくまで非常事態に絶対的な権力を使うよう教育を受けていました。

自由気ままに権力を使うのは昔の時代の王であるとされ、ヨーロッパでは常識だったのです。

明治天皇はこれをよく理解して、周囲の人間と相談しながら絶妙なタイミングで権力を使っていたように思います。

しかし昭和初期に、この神聖不可侵な天皇の権威を使い、思い通りに日本を動かしたいと考えた組織が現れます。

旧日本軍です。

「天皇の名を受けて動く日本軍に逆らうのは、天皇に逆らうのと同じである」という理論を使って、軍部は日本を日中戦争や太平洋戦争に引っ張っていきました。(もちろん軍部を止められなかった官僚・政治家、軍部を止めようとしなかったマスコミ・国民にも責任があると思います)

天皇(この時は昭和天皇)自身もいたずらに権力を使うのは良くないと考え、そこまで積極的に軍部を止めようとはしませんでした。

最新の研究では、一部軍部に乗っかって戦争を肯定した時もあるようです。

こうして神聖不可侵な天皇の名のもと始まった戦争で、日本はアメリカに敗れ300万人以上の犠牲を出しました。

期目の天皇

日本の敗戦後、アメリカは2度と日本が戦争を起こさない国にしたいと考えました。

日本を占領しながら、様々な改革を日本政府に要求します。

その中で天皇をどうするべきなのか議論になりました。再び天皇のもと日本が戦争を起こさないように、天皇という存在を排除するという話が出てきます。

死刑になる可能性があった天皇

アメリカの世論では約3割が昭和天皇を死刑にすべきであると考えていました。これは当然の話で「天皇の名のもと起こされた戦争なのだから、最高責任者は責任を取らねばならない」と多くのアメリカ人は考えたのです。

そのほかの日本と戦った国々(中国やイギリスなど)の一部の人たちが昭和天皇を死刑にすべきであるという意見を出していました。

しかし、この時日本の占領を担当していたGHQのマッカーサーは昭和天皇を死刑にしたら日本の占領が上手くいかなくなるのではないかと考えました。

日本人の中に根付いた天皇の存在を奪うことはむしろ危険だと判断したのです。

この読みは当たっていたように思います。アメリカは比較的スムーズに日本の改革を進めることができました。

もし天皇を死刑にしていたら何かしらの反乱が起きていた可能性があります。

紆余曲折を経て天皇は象徴へ

天皇を処罰しないことは決まりました。

ただ天皇の権力をそのままにしておくわけにはいかないし、かといって天皇の存在を無くすことも難しい‥

そこで、日本人の中からある案が出てきました。

日本国民の「象徴」とする。

これはいいアイデアです。天皇の存在や威厳は保たれるけれど、具体的な権力を奪い取ることができます。

アメリカはこのアイデアを採用して、日本国憲法に盛り込むことを認めました。

日本国憲法第一条には「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく。」と書かれています。

こうして、現在の象徴天皇が始まったのです。

しかし、昭和天皇は絶対的な君主として生きてきた人です。今さら象徴なんて言われても困ったのではないでしょうか。

象徴としての天皇とはどうあるべきか。

この問いに向き合ったのは昭和天皇の息子(2021年現在は上皇陛下)です。

上皇陛下は「象徴としての天皇はこうあるべきだ」と模索しながら、生きてきました。

例えば災害が発生し被災地を訪れた時‥象徴としての天皇はどうあるべきか。彼が出した答えは「被害を受けた人と同じ目線で語り合う」というものでした。

上皇陛下は誰に言われることもなく、自分の意思で両膝をつき被害を受けた人々と語り合ったのです。

我々がイメージする「ニコニコしながら手を振る」天皇像は、彼が作り上げたといっても過言ではないでしょう。(もちろん宮内庁の功績も大きいと思います)

ちなみに上皇陛下は普段から質素な生活を心がけ、コートもボロボロになども着続けるそうです。

また学者としての顔も持っており、ハゼの研究者として有名です。ハゼについての論文を書くだけでなく、新種のハゼも発見しています。

彼自身とても優秀なのです。天皇にしておくのがもったいなかったかもしれません。

今後彼の意思を継いでどのような象徴天皇を担っていくかは、後世の天皇にかかっています。 

天皇って何者?どんな役割があるの?わかりやすく解説・まとめ

いかがでしたか?

今回は天皇について4つの時期に分けて解説しました。天皇が何者で、どんな役割があるのかは時代によって大きく異なります。

ただ天皇という存在は少なくとも約1500年続く王家であり、日本に欠かせない存在であったことは間違いありません。

ここまで長く続く王家は他にありません。これからも天皇という存在があってほしいと筆者は思っています。

しかし一方で、天皇は様々な権利を制限されています。

分かりやすい例を挙げると、天皇に職業選択の自由がないことです。天皇を職業というのか分かりませんが、天皇以外になることを許されていません。

今後も天皇という存在を維持していくならば、天皇の権利が制限されていることもあわせて考えていく必要があるでしょう。

天皇について考える時に、この記事が役に立っていただければ幸いです。

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