歴史は様々な出来事をきっかけに、その後の道を思わぬ方向へ変えることがあります。
昭和の時代において、日本の歴史を大きく変えた出来事の1つが、五・一五事件でした。
総理大臣であった犬養毅が、海軍の青年将校によって殺害されたこの事件。これをきっかけに政党政治は崩壊し、戦後まで、政治に民意が反映されるシステムが失われてしまったのです。
なぜ政党政治が崩壊したのか、そして、政党政治の崩壊が日本の歴史にどのような影響を与えたのかをこの記事でみていきましょう。
五・一五事件とは何か
1932(昭和7)年5月15日、この日、総理大臣を殺害するクーデター事件が東京で起こりました。
まだ20代の若い海軍の青年将校たちが、警察庁や牧野伸顕内大臣官邸、立憲政友会本部、日本銀行、三菱銀行などを襲撃し、そして総理大臣であった犬養毅を殺害したのです。
「話せば分かる」と言った犬養に対し、「問答無用」と引き金を引いたこのやり取りは、あまりに有名ですね。
軍人たちは、政治に対する不満を募らせ、総理大臣を殺害して軍人による政権を打ち立てようとしました。
私たちが生きる現代でも、ミャンマーでは軍人たちがクーデターを起こし、ハイチ共和国では大統領が襲われ殺害される事件が起きています。
こうしたニュースを聞くと、日本とは遠く離れた違う世界の出来事のように感じますが、驚くことに、同じような事件が昭和のはじめに日本でも起きていたのです。
五・一五事件によって変化した日本の政治
五・一五事件は、とりわけその後の政治制度に大きな影響を与えました。
この事件をきっかけに、日本で根付き始めていた民主主義は一度失われてしまったといっても過言ではありません。
当たり前の日本の民主主義は過去に一度なくなっていたんですね。若い方は知らないかもしれませんね。
アジアで先駆けて実現した政党政治
明治時代は、江戸時代から力をもった藩の代表や、身分の高い家柄の出身者が政治の実権を握っていました。
しかし、欧米と対等に渡り合える国づくりを進めるため、日本は議会制度を整え、納税や性別の制限はあったものの普通選挙を実現し、国民の意見を政治に反映させる仕組みをつくっていきます。
こうして、選挙でより多くの票を得た政党が、与党として内閣を組織し、政治を主導する政党政治が始まりました。
選挙を通して国民の声(このときはまだ選挙権を与えられたのは男性のみでしたが)を反映させる政治のシステムを、日本はアジアの中でもいち早く整えていたのですね。
国民の信用を失った昭和はじめの政党政治
昭和の初めは、世界的に非常に苦しく暗い出来事が世の中を襲いました。
それが、世界恐慌です。
日本でもこのあおりを受けて、中小企業の倒産や失業者が続出、農家は不況や凶作が重なったことで生活さえままならなくなります。
ちなみに、現代も世界的に新型コロナウイルスの感染拡大という大きな課題を抱え、政治家たちの政治手腕に注目が向けられていますよね。
恐慌に苦しんだ昭和のはじめも、現代の感染症に苦しむ状況も、どちらもこうした時こそ、政治家には国民を第一に考えた政治を行ってほしいところです。
しかし、世界恐慌の時代の政治家たちは、国民を救うための政策を打ち出すどころか、お互いの党のあら探しをして批判し合ったり、金や利権ばかりを求める行動をとったりしていました。
不況のあおりを受けるのは下層階級の労働者ばかりで、苦しむことなく豊かに暮らす政治家の姿をみて、国民の気持ちはどんどん政治から離れていきます。
なぜ政党政治が崩壊したのか
五・一五事件は、政治に対する不満が渦巻く中で、軍人による政権を打ち立てようとした海軍の青年将校たちが起こしたクーデター事件でした。
総理大臣が暗殺され、さらには、民意を政治に反映する民主主義のための大切なシステムだった政党政治が崩壊するにも関わらず、国民はこの事件を好意的に受け入れ、暗殺した軍人の方の肩をもちました。
なぜ、政党政治は崩壊してしまったのでしょうか。
政党政治が崩壊することのおかしさ
五・一五事件は、政治家に対する不満が大きく膨らむ中で起こりました。
本来であれば、政治家は国民のことを第一に考え、誠意をもって政治を行うべきですよね。
それを実践できる人が選挙で選ばれ、実践できない政治家ならば落とされるのが正しい形です。
そうして国民の政治に対する信用を高めていくべきなのですが、政治への不満を正しくない形で解消しようとしたのが五・一五事件です。
この事件をきっかけに、政党内閣は崩壊し、軍人が政治の中心となりました。国民による選挙で選ばれた政党による政治という、国民の大切な権利が奪われたのです。
国民の望む政治を実現できなかったのは政治家の責任であるはずなのに、権利を奪われたのは国民の側だなんて、おかしな話ですよね。
五・一五事件で政党政治が崩壊したということは、国民にとって非常に理不尽なことなのです。
政党政治が崩壊した理由1~軍人によるテロやクーデターの脅威~
今ではあまり考えられませんが、昭和のはじめの時代は政治家や財閥などを狙ったテロやクーデターが頻繁に起こっていました。
軍人たちは、軍縮や中国の侵略拡大をやめさせられるなど、政治に対する不満を強めていたのです。
軍人によるテロが活発になってくると、政治をする側が恐怖に支配され、軍部の気持ちをくんだり、引いてしまったりする雰囲気になりました。
そうして、事件後は軍部の意向を考慮した内閣が組織されていきます。
政党政治が崩壊した理由2~国民の信頼を得られなかった政治家~
世界恐慌や軍人によるクーデターが政党政治を崩壊させた一番の原因ではありますが、その他に、政治家自身が国民からの信頼を得られなかったということも見逃せません。
国民の生活を第一に考え、不況対策や福祉政策を打ち出していれば違ったでしょう。
しかし残念ながら、有効な一手を打ち出すこともできず、利権や金という汚い世界に手を染めた政治家たちに、国民は厳しい目を向けました。
政治家は今の状況を打破できないばかりか、自分たちのことばかりで、国民の生活を政党に任せることはできない、そういう思いが広がっていったのでしょう。
軍人が中心の内閣が組織されても、国民から政党政治を求める声は上がらぬままでした。
政党政治の崩壊が及ぼした政治への影響
政党政治が崩壊したことは、その後の日本の政治にどんな影響を与えたのでしょうか。
五・一五事件の前と後で、日本の政治システムはがらっと変わり、国民の生活や人生までも大きく変えてしまいます。
明治以降、国民の声を反映させる政治システムを整えようと進んでいたにも関わらず、事件後に政党政治は崩壊し、内閣のメンバーは軍人によって占められることになりました。
民意は当然反映されず、政策も軍の意向にかたより、日本は軍国主義へと進んでいきます。軍人による政治は、世界情勢にもアンテナを張り切れず、日本は次第に世界から孤立しました。
そして、泥沼のアジア・太平洋戦争から抜け出すことができず、人々の中に消えることのない大きな傷を残したのです。
五 ・一 五事件と政党との関係!日本はその、、政治の崩壊へ!まとめ
総理大臣が暗殺されるという、重大な事態が起きた五・一五事件。
この結果、日本では政党政治が終わりを迎え、軍部の力が強い軍国主義の時代へと向かっていきます。
この事件によって、国民の声は政治に届かず、多くの命が犠牲となる戦争の道へと突き進むことになるのですが、皮肉なことに、当時の国民は五・一五事件を好意的に受け止めました。
現代も、新型コロナウイルス感染症やオリンピックという出来事の中で、政治家の利権や保身を優先する姿に、国民の気持ちは政治からどんどん離れていっています。
しかし、ここで国民が政治から目を背けてしまえば、五・一五事件のような出来事が繰り返されてしまうかもしれません。
五・一五事件は、私たちに政治とのかかわり方を改めて考えさせてくれる重要な事件なのではないでしょうか。
【参考文献】
井上寿一『論点別 昭和史 戦争への道』株式会社講談社、2019年