禁門の変とは何なのかわかりやすく説明します!戦いは1日で終わり?!

  • URLをコピーしました!
スポンサーリンク

禁門の変は別名蛤御門の変(はまぐりごもん)と呼ばれます。

この名称を聞いて、御所の門で小競り合いでもやったのかなというイメージを持つ方もおられるかもしれませんが、とんでもない!

禁門の変は、長州、桑名、会津、薩摩、筑前などの大名同士が京都で市街戦を繰り広げ、結果的に京都市中3万戸が焼失するという一大事件なのです!

幕末を扱う作品ではかなりの確率で出てくるのですが、なにせこの時期は毎年どころか毎月毎週のようになんらかの政治的事件が起こっているため、大抵さくさくとストーリーが展開していってしまいます。

結局なんか撃ち合っていた記憶しか残らない、なんて事もしばしば。

そこで、「禁門の変って聞いた事あるけどなんだっけなーという方に、できるだけわかりやすく解説いたします!

スポンサーリンク
目次

長州の幕府への不信感は200年以上前から!

禁門の変の一方の主役は長州藩。

その藩主は毛利氏です。当時の当主毛利輝元は関ケ原の合戦の際は、大坂城から出陣することはなかったとはいえ、豊臣軍の総大将の任についていました。

そして関ケ原で豊臣軍が敗北した後、毛利は所領安堵(土地の所有権を保証すること)の約束を取り付けていたのですが、家康はこの約束を反故にしました。

領地は4分の1に減封されてしまったのです。つまり収入が激減!これでは家臣を養う事も危うかったでしょう。

そこで新たな検地に乗り出し、大変な苦労をして石高(こくだか)を倍増させました。石高(こくだか)とはその土地の農業生産力を米の量にし表したものになります。

その後も新田開発を続け、幕末には100万石(100万人の人が1年間米を食べていけるくらいの経済状態)を超えていたと考えられます。

あまりピンとこない人も多いと思いますが、石高としては、日本でも屈指の大大名です!つまり経済的にはかなり余裕があった大名と言えます。

黒船来航、日本開国が世界的ニュースに!

幕末当時の欧米は鯨油を目的に世界中で捕鯨を行っていました。日本近海は好漁場とされており、補給拠点としてアメリカは日本に開国を求めてきたのです。

それもかなり強引に。

複数の大型軍艦で浦賀に現れたのも、日本人を怯えさせて交渉を有利に進めるためでした。

余談ですが、この時ペリー提督は日本人の教養、技術、知識欲を意外なほど高く評価し、遠からず日本の工業は欧米に追い付くだろうと予言しています。

しかしそれはそれ、これはこれ。

幕府もペリーの主張を却下したり、こちらの条件を認めさせたり奮闘しましたが、最終的に日米和親条約を結ぶに至ります。

日本の開国はイギリスやフランスでも新聞紙面を賑わす大ニュースとなりました!

攘夷論者が多かった理由

攘夷とは外国を追い払うという事です。

当時の日本人は、現代人が想像するよりはるかに世界の事を知っていました。世界地理に通じ、中南米のパナマ運河建設の事まで知っていたそうです。

当然欧米がアフリカやアジアを侵略し、搾取していたことも知っていたでしょう。

もっと直接的にイギリスの軍艦がオランダ国籍と偽って長崎港に侵入する事件もありました。禁門の変より50年前のことです。

1840年にはアヘン戦争が起こり、イギリスに負けた清は香港を割譲させられました。

次は日本だと警戒したとしても不思議はありません。しかし幕府はその後、アメリカ、オランダ、ロシア、イギリス、フランスと通商条約を結んでいくことになります。

この頃には攘夷論と、むしろ欧米と積極的に交流して対抗できる力をつけるべきだという開国論の二つの意見がありました。

つまり、攘夷にしろ開国にしろ欧米の侵略を防ぐという点では一致していたのです。ただその方法が正反対。

開国路線の幕府に攘夷派の長州は反発し、長州の一部の藩士は尊王攘夷から尊王倒幕へと活動は過激になっていったのでした!

朝廷内で激化する政治闘争・八月十八日の政変

攘夷運動の中心になっていた長州藩。

下関を通る外国船を砲撃し、戦争に発展したこともあります。

幕府は長州を抑え込もうとしましたが、長州は急進的攘夷派の公家と通じ、どんどん攘夷運動を展開していきました!

朝廷では孝明天皇を含めて攘夷支持が多数だったとはいえ、あくまで幕府に攘夷を委任する方針の勢力と、急進的攘夷論の勢力に分かれていました。

倒幕の動きを強める長州に対して、危機感を抱いた孝明天皇、中川宮、会津、薩摩が手を組んで動きます。急進派公家の参内を禁じ、長州は御所警護の任を解くという思い切った行動にでました。先手必勝です!

そして、三条実美を含む七人の公家とその背後にいた長州藩は御所から締め出されてしまいました。

御所から追い出されるなんて不名誉の極み!七卿の公家たちも長州へと逃れますが、相当恨んだ事でしょう。

これが八月十八日の政変です。

政変後の経緯と池田屋事件の影響

京都から排除されてしまった長州ではその後の対応についての意見が分かれました。

1つは京都への進軍を主張する来島又兵衛や真木保臣らの進発論。

もう一方は進軍はリスクが大きすぎると反対する桂小五郎や高杉晋作を中心とする慎重論。

ところがある事件をきっかけに長州内では新発論が優勢になりました。

それがかの有名な池田屋事件なんです!

一部の過激派攘夷志士は会津藩松平容保らの暗殺、孝明天皇を長州に連れ去るなどの計画を立てていました。それを知った新選組が京都市中の池田屋にてその多くを討ち取り、捕縛し、計画を阻止した大事件です。

この事件で中心人物の多くを失ってしまった進発論派はいきりたち、その勢いに押される形で長州は京都に向けて挙兵したのです。

禁門の変・戦闘はたったの一日!

挙兵したと言ってもいきなり戦闘に入ったわけではありません。

先発隊の久坂玄瑞は長州藩に対する赦免と入京許可の嘆願書を提出。認められれば、武力衝突は避ける考えでした。しかし、それは叶えられず、やむなく退去命令に従おうとします。

同行していた来島又兵衛は、その方針に納得せず進軍しました。

御所の蛤御門で長州と会津・桑名が衝突。中立売門では筑前藩の守りを突破して御所に侵入しましたが、応援に来た薩摩藩によって形勢逆転。来島又兵衛は自決。

久坂玄瑞は開戦に遅れながらも堺町御門を攻撃しましたが、打ち破ることはできず。そこで鷹司邸に赴き、鷹司輔煕に長州藩の復権の嘆願を共にしてくれるよう願いましたが、拒否され、その場で自害しました。

歴史に大きく残る内戦ですが、戦闘自体はたったの一日だったんです。

敗北が決した長州藩兵は長州藩邸に火を付けて逃走、会津藩兵も長州藩士が隠れているとされた家屋を攻撃しました。

この二か所から出た火が延焼し、大火となって3万戸を焼失させてしまいました。

武士たちも命懸けだったとはいえ、京都の民はたまったもんじゃありませんよね……。

禁門の変って何だっけ?わかりやすく整理してみた!まとめ

御所に銃口を向けた長州は朝敵となりました。孝明天皇の命を受けた幕府は長州へ討伐するべく進軍。

そもそも長州は幕府に代わって日本を牛耳ろうとしたわけではありません。天皇の敵になるつもりもありませんでした。ただ、日本に突きつけられた外交問題に対して、幕府の方針と意見が相違していたのです。

その後、薩摩と長州は薩長同盟を結び、倒幕へと時代は進みます。

禁門の変とは長州がはっきりと幕府と袂をわかち、自分達の手で新しい時代に築こうと肚を決めた分岐点だったのではないでしょうか。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!
目次