【驚愕の事実】龍馬暗殺の謎を追え!一体だれが犯人なのか?

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歴史上の人物のなかでも屈指の人気を誇る坂本龍馬。日本初の株式会社ともいわれる海援隊を創設し、商社活動を通して倒幕の一大勢力を築き上げることに尽力しました。

しかし、明治という日本の新時代を目前に凶刃に倒れてしまったのです。

坂本龍馬はなぜ暗殺されてしまったのか。また犯人は誰なのか?

陰謀がうずまく幕末最大のミステリーの謎に迫ります!

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目次

坂本龍馬って何をした人?

天保6年11月15日(1836年1月3日)、土佐藩(現在の高知県)に郷士(ごうし)の子として生まれました。

郷士(ごうし)というのは、関ヶ原の戦い以前に土佐藩を治めていた長宗我部(ちょうそかべ)家に仕えていた家臣たちの末裔です。

長宗我部(ちょうそかべ)家は関ヶ原の戦いで西軍につき、敗れてしまったため、関ヶ原の戦い以後は東軍の山内家の支配下に置かれることとなりました。

山内家に仕えていた家臣たちの末裔を上士(じょうし)と呼びます。

土佐藩は身分差別が激しかったと言われますが、郷士にも功績に応じて上士と同格に扱う制度があるなど、優秀な人材が生まれやすい環境であったと言えるでしょう。

 そのような環境で育った龍馬は、19歳で江戸へ剣術修行に赴き、同時に日本と世界の情勢を知ります。

当時の日本はペリーの来航によって開国を迫られていました。

そして鎖国の体制を維持しようとする佐幕派と開国をしようと考える開国派が激しく対立していたのです。

結果的にはペリーの要求を飲み、開国をするのですが、同時に水戸藩をはじめとした尊皇攘夷派の動きも多くなっていきました。

天皇を中心として、外国を追い払おうという考えです。

当時の龍馬も例に漏れず血気盛んな攘夷派の考えでした。姉に宛てた手紙の中に「外国人を討ち取って見せます!」といった内容のものが残っています。

尊皇攘夷運動は全国的に広まり、土佐藩でも土佐勤王党が組織されるなど、志士と呼ばれる若者が活躍します。

龍馬も文久2年3月24日(1862年4月22日)、26歳のときに脱藩をして活躍の場を土佐から日本に移します。

日本初の株式会社?世界に羽ばたけ海援隊!

外国を追い払おうと土佐から飛び出した龍馬ですが、生涯の師である勝海舟(かつかいしゅう)と出会います。

海舟は幕府の家臣でありながら、外国との交易は不可欠なものであり、国力を高めるためには外国の力が必要だと解きました。

攘夷派に染まっていた龍馬にとって、勝海舟という男は国賊以外の何者でもありません。

しかし、海舟と面談し、話をしているうちに日本を案ずる気持ちは同じだということに気づき、そのまま門人となります。

後年、海舟は龍馬との出会いについて振り返り「坂本は最初、俺を斬りに来たのさ。なかなか度胸があっていい面構えしてたよ。」と語ったそうです。

これは海舟の冗談だったという説もありますが、龍馬にとっては人生を変える出会いであったのは間違いありませんよね。

門人となった龍馬は、海舟が主導で進めていた海軍操練所の設立のために奔走します。

亀山社中

元治元年6月(1864年5月)、神戸海軍操練所を設立しました。

その塾頭に龍馬が任命されます。

この操練所では航海術や工廠施設を兼ねるもので、龍馬らをはじめとした土佐藩士や攘夷派筆頭藩であった長州藩士などが多く在籍していました。

しかし、情勢は目まぐるしく変わり、佐幕派が政治の実権を握ると、薩摩会津の連合軍により長州軍が制圧され(八月十八日の政変)、長州藩は諸外国からの武器の購入を全面的に禁止されてしまいます。

これにより、薩摩藩と長州藩の関係は悪化してしまいます。

神戸海軍操練所も風当たりが強くなり、幕府の機関でありながらも攘夷派が多く在籍していたということから、慶応元年3月9日(12日とも)(1865年4月4日)、閉鎖を余儀なくされてしまいます。

龍馬たち操練所メンバーの行く末を案じた海舟は、薩摩藩に庇護を要請し、家老の小松帯刀(こまつたてわき)は要請を承諾します。

薩摩藩としても航海術や海戦術に長けた彼らの知識は必要なものでした。

薩摩藩は彼らに出資し、現代の株式会社によく似た組織である亀山社中を立ち上げます。

亀山社中の設立時に龍馬が携わっていると考えられるのですが、現存する設立時の資料の中に、龍馬の名前が見当たらないため、他の神戸海軍操練所のメンバーが立ち上げたものと推定されています。

この亀山社中は商社活動のほか、長州藩との関係和解活動も含まれていました。

そこで龍馬は薩摩藩名義で諸外国から武器を仕入れ、長州藩に横流しをし、長州藩から対価として米を仕入れ、薩摩藩に納めるよう斡旋し、薩摩藩と長州藩の和解を進めていきます。

これが亀山社中の初仕事となりました。

薩長同盟は坂本龍馬尾功績ではない?

翌慶応2年1月(1866年2月)、京都にある小松帯刀の屋敷にて、薩摩藩の西郷隆盛と長州藩の桂小五郎(のちの木戸孝允)の会合があり、薩長同盟が締結されました。

龍馬がこの薩長同盟の締結に尽力したというのが通説ですが、近年の研究では疑わしいとの声もあります。

小松帯刀が主導し、龍馬が実務を担当した、とも考えられるからです。一方で、同盟締結後、桂が龍馬に対して締結内容の確認を求め、相違ない旨の裏書をした書簡も残っています。

いずれにせよ、ここに一大倒幕勢力が築き上げられたのは間違いありません。

薩長同盟成立後、長州を制圧しようと幕府軍が進軍しますが、最新の軍備を整えた長州軍に大敗を喫します。

これが倒幕の追い風となり、土佐藩もこの流れに乗るべく、機会を伺っていました。

土佐上士・後藤象二郎(ごとうしょうじろう)は、薩長とも深い関係であった龍馬に目をつけ、接触を図ります。

慶応3年1月13日(1867年2月17日)、龍馬と後藤は会談の場を設け、龍馬の脱藩の罪を放免し、亀山社中を土佐藩の外部組織とすることで了承し、名前を海援隊と改めます。

いろは丸沈没事件

海援隊発足後の慶応3年4月(1867年5月)、海援隊が航行する「いろは丸」と、紀州藩(和歌山県)の藩船「明光丸」が瀬戸内海で衝突事故を起こし、いろは丸が沈没するという事故が起こりました。

龍馬は紀州藩を相手取り、損害賠償を要求します。

当初、紀州藩の代表であった三浦安(みうらやすし)は龍馬の要求など聞き入れないという強行な姿勢でした。

徳川御三家の雄藩が土佐藩外部組織の一介の商船と衝突し、要求に応じるなど当時はありえなかったからです。

そこで龍馬は、当時の国際航行ルールを定めた万国公法を持ち出し、土佐藩の代表として後藤象二郎を立て、再度交渉に持ち込みます。

藩同士の交渉にまで発展した結果、83000両(現在の価値で約164億円)の賠償を勝ち取ります。(のちに70000両に減額調整)

このいろは丸事件は蒸気船の衝突事故、訴訟にまで発展した海難事故として日本初のものです。

近年の研究では、非があったのはいろは丸の方であったと言われています。小回りが効く小型船のほうに回避義務があるからです。

また、積荷についても外国から仕入れた最新の武器などを積んでいたとのことで巨額の賠償金を勝ち取りました。

しかし1980年代の潜水調査によると積荷は確認できたものの、武器などは一切発見されませんでした。

いろは丸自体が沈没してしまい、証拠となるものが無かったため、龍馬が交渉を有利にすすめるためにでっち上げたものだったのかもしれません。

その後も蝦夷(北海道)での開拓計画を立案するなど、世界を駆け回るべく、海援隊は少しずつ羽ばたきはじめていました。

内戦を回避せよ!起死回生の大政奉還

長州征討が失敗に終わった幕府は、14代将軍家茂が亡くなり、慶喜を15代将軍に迎えました。

それと同時に薩長を中心とした武力による倒幕勢力の勢いが増していきます。

土佐藩はこの勢いに乗り遅れてしまっていました。

幕府側もこのままでは倒幕勢力に屈し、徳川家が滅ぼされてしまうかもしれないという状況に追い込まれていました。

この状況下で考案された策が大政奉還でした。

260余年続いた徳川幕府による政権を朝廷に返還し、薩長による武力倒幕の大義名分を失わせようとするものです。

大政奉還という策自体はすでに存在しており、龍馬が提案したものではありません。

薩長に後れを取る土佐藩は、大政奉還を幕府に進言し、幕府が承諾すれば薩長を出し抜けると考えました。

また龍馬も武力倒幕による内戦が勃発してしまうと、清国のように混乱に乗じて諸外国によって植民地化されてしまうことを懸念していました。

徳川の滅亡は避けたい幕府、薩長を出し抜きたい土佐藩、内戦を避けたい龍馬。

三者の利害が一致し、龍馬が後藤に大政奉還を進言するように提案したと言われています。

慶応3年10月14日(1867年11月9日)、15代将軍徳川慶喜は大政奉還を上奏(明治天皇に申し上げ)をし、翌15日に勅許が下りました。

その結果、260年以上続いた武家政権は終わりを迎え、明治という新時代がすぐそこまで来たのです。

その日…起きてしまった悲劇

大政奉還が実現した直後の慶應3年11月15日(1867年12月10日)夜。

京都河原町通蛸薬師下ルの醬油商・近江屋にて、龍馬、中岡慎太郎、下僕の山田藤吉の3名が何者かに襲われ、殺害されるという事件が起こりました。

坂本龍馬暗殺事件

龍馬はほぼ即死、藤吉も16日に死亡し、中岡は一命を取り留めたものの、2日後の17日に息を引き取りました。

龍馬は頭部に傷を負っており、脳にまで達していたと言います。犯人は確実に龍馬を殺そうと執拗に頭部を狙ったことがわかりますね。

では、一体誰がこのような凶行に及んだのでしょうか?

現在わかっているのは

①4〜8人の複数犯であったということ。

②近江屋周辺を取り囲み、逃げられないように周到に計画されていたということ。

③凶器の刀が通常の長さのものではなく、小太刀(こだち)と呼ばれる刃渡りが短いものだということ。

これは、当時の建物の天井が低いという特徴から、通常の刀を振り回すと刃が天井に引っかかる可能性があることを想定していたと考えられます。

つまり戦闘に慣れていた人物であるということ。

これらのヒントを基に犯人を考察していこうと思います。

新選組説

まず事件後、犯人としてまっさきに疑われたのは新選組です。会津藩お抱えの治安維持組織として、日々幕末の京都で志士たちの動向を注視し、鎮圧を繰り返していました。

実力派揃いの剣客集団ですから、龍馬を暗殺することもできたでしょう。

しかし、「あれだけ志士たちと衝突し、暗殺も繰り返しているから犯人は新選組に違いない!決まり!」と安直に疑われたわけではありません。

現場には「瓢亭(ひょうてい)」と印が入った下駄、刀の鞘が遺留品として残っていました。瓢亭は新選組隊士が通っていた料亭であり、刀の鞘も新選組の隊士のものとの証言もあったそうです。

2日間生き延びた中岡の証言によると、斬り合っているときに「こなくそ!」という方言が聞こえたとのことです。

これは四国、とりわけ伊予地方(現在の愛媛県)のものです。

伊予出身の新選組隊士は原田左之助(はらださのすけ)がおり、容疑者として浮上しました。

しかし、歴戦の剣客集団の新選組隊士が、現場に鞘を落としていくようなことはするでしょうか?

何者かが犯人を新選組に仕立て上げる工作だったのかもしれませんね。

京都見廻組説

次に、通説とされている京都見廻組説です。

見廻組は武家階級の旗本、御家人の次男や三男で構成された組織で、メンバーになるには剣術に長けていることが条件でした。

なかでも組頭の1人でもあった佐々木只三郎(ささきたださぶろう)は日本一の小太刀の使い手と評されるほどでした。

そう、先ほど述べた凶器に使われたという小太刀の達人が見廻組にはいたのです。

さらにこれだけではなく、明治3年(1870年)、見廻組のメンバーであった今井信郎(いまいのぶお)という男が刑部省で取り調べを受けた際、自身を含め佐々木ら7名の名前を挙げ、龍馬を斬った旨の供述をしました。

この時、今井自身は見張り役だったと述べたため、一部当時の現場記録と異なる供述もありました。

このことがきっかけで今井は投獄されています。

また、今井以外のメンバーは、ほとんどが鳥羽伏見の戦いで戦死しており、結局真相にたどり着くことはできませんでした。

実行犯とは別に黒幕がいた!?

さて、今日まで研究され、多くの状況証拠から導き出された新選組説、通説となっている見廻組説について解説してきました。

実行犯はほぼこの2組のどちらかに絞られていますが、幕府の治安維持組織にすぎない両組織が単独で龍馬暗殺を企てたとは考えにくいですよね?そうです、龍馬を亡き者にしたいという黒幕がいたのです。

一体誰が黒幕なのか?こちらも考察していこうと思います。

幕府説

まず順当に考えられるのは幕府説です。幕府から見た龍馬というのは、薩摩藩を後ろ盾として諸外国と貿易をし、薩長をはじめとした倒幕派に武器を供与しているという大罪人なのです。

国家転覆をも企てているような者を生かしておくわけにはいかない、と考えていたようです。

しかし、幕府側の人間全員がそう思っていたわけではありませんでした。

勝海舟(かつかいしゅう)や永井尚志(ながいなおゆき)といった大政奉還容認派もいたため、幕府が大政奉還をすることで、薩長の倒幕の大義名分を失わせようとする点では、龍馬の考えていたこととも近かったのかもしれません。

事実、暗殺される前日に龍馬は敵であるはずの永井尚志と会談をしているのです。ここでどのような話がされたのか?

意見が近い両者にも決裂するような事態が起こっていたとすれば…?

薩摩藩説

次に考察するのは薩摩藩説です。

開国はしたものの、諸藩は自由に貿易をすることはできませんでした。

これに対し、藩という枠に縛られない浪人の龍馬は、海援隊を組織し、薩摩藩から船及び資金の援助を得て、諸外国と自由に貿易をしていたのです。

ここで仕入れた西洋の武器を倒幕派の諸藩に供与し、倒幕勢力の拡大に繋がっていきました。

しかし、その一方で龍馬は、隣国の清国が諸外国の植民地と化していることを知っていました。

薩長と幕府が戦争をしてしまったら、混乱に乗じて欧米列強が日本を植民地化してしまうかもしれない。

それだけは何としても回避したく、武力以外の倒幕の道を考えていたのです。

龍馬が残した新政府の在り方を示した「新政府綱領八策」には「〇〇〇を盟主とする」と伏字で記されています。

この伏字の人物は、徳川慶喜だったのではないかと言われているのです。優秀な人材は身分や立場を超えて政治に携わるべきと考えていたわけですから。

もしこのような形で倒幕が成ってしまうと、薩摩藩としては、武力で幕府を倒し、徳川を討つという本懐が遂げられなくなってしまいます。

薩摩藩にとっては最悪のシナリオを避けるため、邪魔になった龍馬を亡き者にした、というのが薩摩藩黒幕説です。

また、先述した元京都見廻組の今井ですが、投獄されたあと、恩赦によって釈放されています。その恩赦を手配した人物こそ、西郷隆盛でした。

なぜ西郷はこのようなことをしたのでしょうか?

土佐藩説

龍馬の出身地、土佐藩説も存在しています。

先述したとおり、大政奉還を幕府に進言したのは土佐藩の後藤象二郎でした。

現存している土佐藩大政奉還建白書には龍馬の名前は載っていません。

後藤をはじめとした土佐上士4名の名前だけなのです。なぜ龍馬の名前が載っていないのか?後藤ら土佐上士が手柄を独占したかったのではないかと言われています。

事実、龍馬の死後、葬式には一切参加していないのです。このことから後藤が黒幕だったのではないかと言われています。

龍馬を充分に信頼していなかったのかもしれません。

紀州藩説

最後に考察するのが、紀州藩説です。

龍馬が暗殺される直前、いろは丸事件で多額の賠償金を支払うことが決まっていました。

その日付は龍馬が殺される8日前でした。

徳川御三家の雄藩が一介の土佐藩士に翻弄され、多額の賠償金を支払ったなど、面子に関わる出来事だったことでしょう。

紀州藩の代表であった三浦安(みうらやすし)が実行犯に指示をしたのではないかと言われています。

龍馬の死後、海援隊と新選組との衝突がありました。(天満屋事件)

これは、龍馬暗殺の実行犯が新選組だったからとも、黒幕が三浦だったからとも言われ、海援隊にとっては弔い合戦だったのでしょう。結局、三浦を討つことはできずじまいで終わります。

【驚愕の事実】龍馬暗殺の謎を追え!一体だれが犯人なのか?まとめ

いかがでしたでしょうか?龍馬暗殺は日本の歴史の大きな転換期だったからこそ起きた事件なのではないでしょうか?

犯人、黒幕の特定は難しいでしょう。龍馬はあらゆる方面から命を狙われていました。

考察したすべての説を合わせると

「紀州藩が幕府に龍馬を討つよう頼み込み、龍馬を邪魔者と思った薩摩藩、土佐藩が龍馬の居場所をリークし、京都見廻組が暗殺を実行した。その後の処理は新選組に任せるようわざと新選組が実行犯に見えるように仕向けた。」

となります。

その後の天満屋事件は起こるべくして起こったものなのかもしれません。

幕末最大のミステリーの真相は未だに闇の中で、今後も真犯人を探す研究が続くでしょう。しかし、それでいいのかもしれません。我々を惹きつけてやまない、幕末のヒーローたちが生きた証なのですから。

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