鎌倉幕府倒幕運動の中、足利尊氏、楠木正成をはじめとして、多くの英雄が誕生しました。
幕府の本拠地、鎌倉を陥落させた新田義貞もその英雄の一人に数えられています。
名門の血筋ながら、幕府内では低い地位に甘んじていた新田氏。
なぜ新田義貞は、鎌倉を攻め落とし、歴史に名前を刻む事が出来たのでしょうか?
新田義貞はどんな人物?
そもそも新田義貞はどのような人物だったのでしょうか?
新田氏の歴史、鎌倉幕府内での活躍を確認してみましょう!
新田氏の出自は?
新田氏の祖は、源義国という人物です。義国は清和源氏の一流、河内源氏の出身。
河内源氏は、源頼朝などを輩出した武士の名門です!
義国は京都で上級貴族と路上トラブルになり、なんとその貴族の屋敷を焼き払ってしまったのです!
平安時代の武士は恐ろしいですね…。
その事件で天皇の怒りを買ってしまった義国。
義国は京都を出て、自分の所領である下野国(栃木県)足利荘の屋敷に籠ってしまったのです。
その後、義国は所領拡大の為、上野国(群馬県)新田郡(後に新田荘)の開発を行います。
義国死後、足利荘は義康(よしやす)、新田郡は義重(よししげ)という二人の子息に受け継がれていきました。
もうお気付きの方もいるでしょう。
義康の子孫が足利氏、義重の子孫が新田氏となり発展していくのです!
新田氏は幕府から嫌われていた!?
鎌倉時代、源頼朝が武士の頂点に立ち、同じ源氏である新田氏の地位はどうなったのでしょうか?
結論から述べますと、新田氏の地位は同門である足利氏と比べ、はるかに低いものになってしまったのです!
足利氏は御門葉(源頼朝一門)という特別待遇をうけました。
しかし、新田氏は御門葉にはなれず、一御家人に甘んじていました。なぜ、両氏はここまで差がついてしまったのでしょうか?
主な理由は二つあります。
・新田義重が源頼朝に協力的ではなかった
頼朝が義重に平氏との戦いで参陣要請をした際、義重は一向に参陣しませんでした。最終的に参陣はしましたが、遅延を理由に頼朝から厳しく叱られました。
・新田義重が娘を源頼朝に差し出さなかった
吾妻鏡の寿永元(1182)年7月14日条に、以下の記述があります。
「新田冠者義重、主御気色を蒙る。」
新田義重は、主(頼朝)に嫌われてしまいました、という意味です。
なぜ、嫌われてしまったのでしょうか?
頼朝が兄義平の未亡人である義重の娘を側室にしようとしていました。そこでラブレターを送っていましたが、良い返事はありませんでした。
そこで、父である義重に取りなしを頼みました。
しかし、義重は頼朝の妻、北条政子を恐れて娘を別の人へ嫁がせてしまったのです。
それ以来、頼朝は義重を嫌い、冷遇しました。
義重が頼朝から嫌われたために、高い地位を得る事が出来ず、新田氏は低い地位に甘んじる事になってしまいました。
鎌倉幕府御家人、新田義貞
源氏の一族ながら、幕府内でも低い地位にあった新田氏。
鎌倉幕府倒幕の英雄となる新田義貞も、幕府内では一介の御家人に過ぎませんでした。義貞の前半生は史料が殆ど残っておらず、はっきりした事は分かっていません。
正安2(1300)年、新田朝氏の長男として生まれました。文保2(1318)年に父が病死すると、新田氏8代目当主に就任。
同年には田畑を売却する証文に源義貞と署名があり、義貞の活動が確認出来ます。(長楽寺文書)
義貞の活躍は、元弘元(1331)年に発生した元弘の乱から始まります!
元弘の乱とは、後醍醐天皇の倒幕命令により、楠木正成が河内国にて挙兵した事件です。
幕府は追討のため、御家人を河内国に動員。
この時、義貞は大番衆(京都の警備係)として在京していました。
義貞も幕命により、新田一族を率いて河内国に進撃したのです。因みに元弘の乱には同祖を持ち、後にライバルとなる足利尊氏も参戦しています!
しかし、二人の身分にはこの時点で大きな差がありました。
尊氏は従五位上(じゅごいのじょう)、前治部大輔(さきのじぶのたいふ)という身分にあり、北条氏一門に次ぐ地位でした。
一方の義貞は無位無官であり、尊氏とは雲泥の差がありました。
皮肉な事に、足利氏の家柄の良さが義貞の鎌倉攻めに重要な役割を果たしたのです!
新田義貞の幕府反逆
元弘の乱に幕府方として参戦した義貞は、どのような経緯で倒幕を決意したのでしょうか?
反逆の狼煙~義貞は仮病を使って裏切った!?
義貞は、楠木正成の籠る金剛山の搦手の攻撃を行っていました。しかし、戦いの最中、仮病を使って新田荘に帰ってしまったのです!
太平記に詳しくその経緯が記されています。
「義貞はいずれ、帝を担ぐ勢力が北条氏を倒すだろうと考えていました。
そこで、腹心である船田義昌に高野山にいる後醍醐天皇皇子、大塔宮(おおとうのみや)に接触するように命じました。
大塔宮からの令旨(りょうじ)があれば、官軍という名目がたち、ただの裏切りにはならないからです。
船田義昌はすぐに野伏を捕らえ、大塔宮への使者としました。
そして野伏が持ち帰ってきたのは、令旨よりも格の高い、帝の倒幕命令を伝える綸旨(りんじ)でした。
これに義貞も大変喜び、仮病を使って軍を引き上げたのです。
天皇からの綸旨を得た事で、倒幕に踏み切った事が分かりますね。
後世、天皇の忠臣と呼ばれる義貞。
しかしこの時点では、天皇への忠誠心よりも、北条氏への不満や、新田氏の地位上昇を狙った野心から倒幕運動に参戦したのではないかと、筆者は推測します。
義貞が帰郷した後、新田荘に幕府から有徳銭(うとくせん)徴収の命令が届きます。
有徳銭とは富裕な商工業者に課される税金です。
元弘の乱の軍費徴収が目的でした。
義貞の領内に徴収使、紀親連(きのちかつら)と黒沼彦四郎入道が入部。しかし、義貞は彼らの態度に激怒。
なんと、黒沼を斬首、親連を監禁したのです!
この事件はすぐに幕府へと報告され、義貞追討も時間の問題となりました。
このような状況下、ついに義貞は挙兵へと踏みきったのです!
新田一族の結集~生品(いくしな)明神での挙兵
元弘3年5月8日午前6時頃、新田一族の武士が新田荘内にある生品明神に結集しました。
太平記に拠ると、この時の兵力約150騎。
徒歩の兵を含めると、この数倍だと考えられます。
ここに義貞軍の進撃が始まります!
義貞軍は最初に上野国中央部へと進軍しました。
中央部には幕府の守護が抑える国庁があり、幕府勢力に圧力をかける事が目的です。
その後、上野、越後、甲斐の源氏一族と合流し、兵力は7000騎にまで増大しました!
いよいよ、鎌倉を攻める準備が整ったのです!
足利氏との連携~足利千寿王との合流
義貞挙兵前日の5月7日、京都において足利尊氏が六波羅探題を制圧。
足利氏も倒幕運動に加担していました。
そして、京都か遠く離れた新田軍に足利千寿王という人物が合流したという記録が残っています。
梅松論という史料には、
「義詮の御所時に四歳、(中略)義貞に同道あり。」
と記されています。
足利千寿王は、後の室町幕府2代将軍となる足利義詮です。
なんと、僅か4歳で参戦していたのです!
この時、千寿王は、父・尊氏が出兵している間の人質として、鎌倉に残されていました。父の六波羅制圧に伴い、鎌倉を脱出していたのです!
そして、5月12日上野国世良田にて蜂起した事が確認できます。(鹿島利氏申状案)
この世良田の蜂起には新田一族の世良田満義(せらだみつよし)という人物が協力。
この事から、義貞と千寿王の蜂起は二段構えになっていたと考えられています。
つまり、この時点で新田氏と足利氏は倒幕という共通の目的から協力関係にあったのです!
義貞と千寿王は武蔵国で合流。
足利軍の参陣でその兵力は20万騎に及んだそうです!
流石に誇張があるかと思いますが、相当な兵力となった事は間違いなさそうですね!
足利氏の影響力の高さが伺えます。
鎌倉進撃
足利軍と連携し、鎌倉を目指す義貞。
ついに幕府軍との戦いが始まります!
鎌倉街道の戦い
ここでは鎌倉街道で行われた戦いについて詳しく見ていきたいと思います。
小手指河原合戦
5月10日、義貞軍と幕府軍は入間川で対陣。
11日朝8時頃、義貞は入間川を渡り、小手指河原(所沢市)で合戦となりました。
この戦いで義貞軍300騎、幕府軍500騎が討死。
両軍共に疲労から撤退しました。
分倍、関戸河原合戦
12日朝、義貞軍は敵陣のある久米川を攻め、優位を築きました。
幕府軍は分倍河原に撤退。
幕府は勢力挽回の為に、新たに兵10万人を動員!
15日未明から分倍、関戸河原(府中市、多摩市)で合戦になりました。
幕府軍の勢いに義貞も敵わず、堀兼(狭山市)まで退却となりました。
二度目の分倍河原合戦
15日の晩、義貞に嬉しい増援があります。
三浦義勝が相模の武士、6000騎を率いて到着しました。
実はこの三浦義勝、足利氏直臣である高一族から養子に入った人物です。
恐らく、足利氏から援軍要請があったのでしょう。
足利氏のネットワーク恐るべしですね!
16日未明、義貞軍は幕府軍を急襲。
勝利を掴んだのです!
ここから義貞軍は、一気に鎌倉へと押し寄せていきます!
一方の幕府軍も義貞の鎌倉街道南下に備えて守りを固めていました。
鎌倉は周囲を山、海に囲まれる天然の要塞。
鎌倉へ通ずるのは七ヵ所の切通しのみです。
そこで義貞は兵を三手に分けて、極楽寺坂、化粧坂(けわいざか)、小袋坂の三ヶ所から攻める作戦を採用。
義貞の失敗~第一次稲村ヶ崎突破
18日午前6時頃、義貞軍の侵攻が始まりました!
幕府軍も三ヶ所の切通しを固め、更に鎌倉中に兵を配備。
どの場所にも援軍を送れるようにしていました。
三ヶ所の両軍の指揮官は以下の通りです。
極楽寺坂
大舘宗氏、江田行義(義貞軍)
大仏(おさらぎ)貞直(幕府軍)
化粧坂
新田義貞、脇屋義助(義貞軍)
金沢貞将(幕府軍)
小袋坂
堀口貞満、大島守之(義貞軍)
赤橋守時(幕府軍)
兵力で勝る義貞軍。
しがし、鎌倉の守りは固く、激戦となりました!
小袋坂の合戦では、赤橋守時が義貞本陣の背後、州崎(鎌倉市山崎、寺分)まで迫ってきました!
しかしながら、州崎の合戦では義貞軍は戦いを有利に進めていきます。
そして18日晩、赤橋守時は自害し、義貞軍の勝利となりました!
一方、極楽寺坂と化粧坂では激戦が続いていました。
特に極楽寺坂では、坂の突破を諦め、稲村ヶ崎の波打ち際から回り込む作戦に変更となりました。(第一次稲村ヶ崎の突破)
この作戦は成功!
しかし、幕府軍の猛攻にあい指揮官、大舘宗氏が討死。
義貞軍は敗北してしまったのです。
敗戦の報せを受けた義貞。
自身も化粧坂の戦いに苦戦していましたが、指揮を脇屋義助に任せ、21日極楽寺坂へ駆け付けたのです。
鎌倉陥落~挙兵から僅か2週間での勝利!
22日、義貞は稲村ヶ崎の干潮を利用して、鎌倉へと進軍しました。(第二次稲村ヶ崎の突破)
この時、義貞は黄金の太刀を海に投げ入れ、龍神に引き潮を祈ったそうです!(龍神伝説)
鎌倉へ進軍すると、北条氏の屋敷に火を放ち、鎌倉の町は炎に包まれました。
北条高時ら幕府首脳陣は、先祖代々の墓所がある東勝寺に立て籠り防戦。
しかし、形勢は覆せませんでした。
高時以下北条一族283人は自害。
ここに鎌倉幕府は滅亡したのです。
新田義貞は5月8日の挙兵から僅か二週間にして鎌倉を攻略!
歴史に名前を刻んだのです!
鎌倉攻めにまつわる伝説
英雄に伝説はつきものです!
義貞とて例外ではありません。
鎌倉侵攻に際して、上述の龍神伝説が伝えられています。
稲村ヶ崎の龍神伝説
極楽寺方面の敗戦の報せを受けた義貞。
義貞は21日、応援に駆けつけました。
この時、極楽寺坂の防御は万全となっており、突破は困難だと判断しました。
そこで義貞は、稲村ヶ崎へ回り込み、海上から攻める作戦へと変更したのです。
ここで太平記には、黄金の太刀を海に投じて波を引かせる劇画的な場面を記しています!
「義貞馬より下給て、甲を脱で海上を遥々と伏拝み、龍神に向て祈誓し給ける。(中略)金作の太刀を抜て、海中へ投給けり。真に龍神納受よし給けん、(中略)稲村ヶ崎、俄に二十余町干上て、(中略)不思議と云も類なし。」
また、梅松論にもこの奇跡について記載があります。
「ここに不思議なりし事は、稲村ヶ崎の浪打際は、石高く道ほそくして、人馬の進退難儀の所に、俄に塩干て合戦の間、併馬場になりき。」
鎌倉攻めの決め手となったこの龍神伝説。
しかし、疑問点もあります。
それは、この広大な干潟が太平記、梅松論以外には記録されていない事です。
太平記、梅松論共に軍記物語であり、史実を脚色している恐れがあるのです!
龍神伝説の真相は?
一般に義貞は干潮を利用して稲村ヶ崎を進んだと考えられています。
天文学者小川清彦氏の調査によると、干潮が起こったのは5月21日の午前4時15分頃。
義貞の侵攻もこの頃でしょう。
しかし、この干潮は幕府軍も承知しており、手配をしていたはずです。
御家人として鎌倉に在留していた義貞も知っていたでしょう。
考えられる可能性として、干潮に加え、突発的な自然現象が加わったのではないかと言われています。
鎌倉侵攻より二年前の元弘元年、諸国大地震があり、紀伊国の千里浜で広大な干潟が発生した記録があります。
元弘三年5月に地震があった記録は残っていません。
ですが、干潮を利用した未明の作戦に加えて、突発的な自然現象による干潮の拡大が加わった事は十分に考えられるのです!
未だ伝説の真相は判明していません。読者の皆様はどうお考えですか?
新田義貞は何をした人?奇跡の武将源義貞をわかりやすく解説・まとめ
鎌倉幕府の一御家人に過ぎなかった新田義貞。
彼はなぜ、幕府倒幕という大業を成し遂げられたのでしょうか?
筆者はその背景に、源氏の末裔という血筋、後にライバルとなる足利氏との連携が大きいのではないかと思います。
幕府に抑えつけられていた源氏は、義貞だけではなかったでしょう。
そのような時、同じ源氏である義貞が挙兵する事で、諸国の源氏達も協力しようという気持ちになったのだと思います。
また、途中で合流した足利千寿王の軍は義貞軍をはるかに凌ぐ兵力でした。
足利氏が幕府内で高い地位にあったからこそ、ここまで兵力が集まったのです!
しかし、この事は源氏の正統は足利氏だと認識されていた事の裏返しです。
これが、義貞と足利尊氏の仲が悪くなる原因の一つとなります。
ともかく、時代の潮流に乗り新田氏の最盛期を築いた義貞。
しかし、時代は動乱の南北朝時代へと向かい、義貞は再び戦いに身を投じるのです!
【参考文献】
「国史大系 吾妻鏡」著:黒板勝美 吉川弘文館
「国史大系 公卿補任」編:経済雑誌社
「新田義貞」著:峰岸純夫 吉川弘文館
「南北朝の動乱」著:佐藤進一 中央公論社
「21世紀によむ日本の古典 12 太平記」著:森詠 株式会社ポプラ社
「太平記」https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2552708?tocOpened=1
「尊卑分脈」https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1182864
「後鏡」https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/772471