川中島の戦いをわかりやすく解説!勝敗は引き分けだったが両者は「勝ち」と思っていた?

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戦国時代といえば、武田信玄と上杉謙信を知らない者はいないくらい有名ではないでしょうか?

甲斐の虎・武田信玄と越後の龍・上杉謙信は、共に戦国武将の中でも人気で、ドラマや小説のモチーフや、ゲームのキャラクターにもなっています。

お互いをここまで有名にしたのが、川中島合戦です。

武田信玄と上杉謙信が計五度にわたりぶつかり合い、その戦いは足掛け12年に及んだといいます。

しかしこの合戦、名前は有名ですが、なぜ起きたのか、どのような戦だったのかについて、多くの人はあまりよく知らないのではないでしょうか。

そこで、今回は川中島合戦に焦点を当て、背景やその後、鎬を削った両武将についてなど、この戦の全貌を解説していきたいと思います!

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目次

川中島で戦った両武将

川中島合戦の主人公は、武田信玄と上杉謙信です。

川中島で両雄は5度にわたり合戦を行いますが、最後まで勝敗が決することはなかったといいます。

その年月、足かけ12年。信玄と謙信が宿敵と言われるゆえんです。

この章では、川中島合戦に至る経緯と、武田信玄・上杉謙信の両武将について解説していきます。

川中島の概略

武田信玄と上杉謙信についてご紹介する前に、両雄がまみえた川中島という地についてご説明したいと思います。

川中島は海に囲まれた島ではありません。

犀川と千曲川に挟まれた地帯のことを指します。

川中島合戦は1553年から1564年にかけて武田信玄と上杉謙信が計5回衝突した戦です。

そして川中島合戦の背景としては、以下のような流れがありました。

当時は、第13代将軍足利義輝が三好長慶との戦いに敗れて亡命するなど、幕府の権威が失墜してしまっていた時代でした。

甲斐(現在の山梨県)の武田信玄は勢力拡大のため、西の信濃(現在の長野県)への侵攻を始めます。

まさに侵掠すること火の如し。まずは諏訪氏を滅ぼします。

村上義晴や高梨政頼を討ち倒し、武田信玄は領土を広げていきました。そこに立ちはだかったのが越後(現在の新潟県)の上杉謙信でした。

そしてここから、川中島合戦に突入していくのです。

自国のために戦った武田信玄

武田信玄は父・信虎を追放してしまったり、手段を選ばない戦い方で成果をあげたりしたため、非情な人間という印象が強いです。

しかしその行動の一つひとつには、自国である甲斐国への深い愛情がありました。

全ては、甲斐国が他国から攻められず、なおかつ侵略によって自国の富を豊かにするための戦いだったのです。

武田信玄が天下取りを目指したのも、同様の理由からでした。

川中島合戦に至ったのも、領地拡大のため信濃に侵攻したためです。

諏訪氏を滅ぼし、村上義晴と高梨政頼を討ち倒したまでは良かったのですが、越後の龍の尾を踏んでしまいました。

そこから両武将の長い戦いが始まるのでした。

義のために戦った上杉謙信

同じ戦国武将といえど、皆が同じ目的をもって戦っているわけではありませんでした。

武田信玄が天下取りを目指して領地拡大のために戦っていたのに対して、上杉謙信は全く違った動機で動いていました。

実を言いますと、川中島合戦は上杉謙信にとって徒労以外の何ものでもなく、仮に勝ったところでメリットのない戦いでした。

それでは上杉謙信は何のために川中島で戦い、多くの血を流したというのでしょうか?

上杉謙信は私利私欲・領地拡大のためではなく、義すなわち大義名分のために戦ったのです。

川中島だけでなく、上杉謙信は生涯70回も戦をしたと伝えられていますが、そのどれもが大義名分のための戦いでした。

上杉謙信は武田信玄に攻められた村上氏や高梨氏の救援要請に応じて川中島に参上したのでした。

五度にわたった川中島合戦

クラシック音楽のソナタが楽章ごとに主題や強弱、展開が違うように、五度にわたった川中島合戦もまた、その時々で異なった戦いとなりました。

やはり回数を重ねていくごとに互いの手の内はわかっていき、時に慎重になりすぎて睨み合うだけになったり、時に激しくぶつかりあって互いに無事に済まなかったりしました。

この章では第一次から第五次まで、川中島合戦について詳しく解説してまいります。

第一次川中島合戦

1553年、村上氏と高梨氏を助けるために上杉謙信が川中島に参上します。そして信濃を制覇するために進軍してきた武田軍を討ち破りました。

これが第一次川中島合戦と言われる戦いです。

武田信玄はその後、越後との戦いを想定して今川氏・北条氏と手を組み甲相駿三国同盟を結びます。

第二次川中島合戦

甲相駿三国同盟を結成し戦いの準備を整えた武田信玄は、越後にほど近い旭山城を占領し、栗田鶴寿を味方につけて信濃に再度侵攻します。

第二次川中島合戦の始まりです。

上杉謙信は川中島より越後側に位置する旭山城からの攻撃を警戒してなかなか川を渡れなかったと伝えられています。

この戦いは、最終的に駿河の今川義元が仲介に入って停戦協定が結ばれました。

第三次川中島合戦

1557年、停戦協定を反故にした武田信玄は三度(みたび)信濃に攻め入り、協定で一度は手放した領土を次々と獲得していきます。

第三次川中島合戦は、上野原の戦いとも呼ばれています。

小競り合いはあったものの上杉謙信到着後は武田信玄の動きは消極的になり、大きな戦に発展しなかったと言います

天才軍師と名高い黒田官兵衛を擁する武田軍は、攻め入れられるとすぐに撤退する啄木鳥戦法(きつつきせんぽう)で相手を煙に巻き、謙信との正面衝突を上手に回避しながら領土拡大に成功しました。

この作戦が功を奏し、上杉謙信は敵国の領土にまで深追いするわけにいかずに、撤退を余儀なくされました。

第三次川中島合戦までは、1勝1敗1分といったところでしょうか。

第四次川中島合戦

川中島合戦の中で最も激しく、被害が甚大だったのが第四次川中島合戦でした。

フィクションとする説が濃厚ですが、武田信玄の啄木鳥戦法(きつつきせんぽう)と上杉謙信の車懸りの陣(くるまかかりのじん)と、互いに奥の手を出しあい、裏をかきあって死闘を演じたと言います。

一説によると武田軍の戦死者は三千四百人余りの戦死率27パーセント、上杉軍の戦死者は四千六百人余りの戦死率23パーセントと言われています。

あまりに犠牲者を多く出してしまったため、武田信玄と上杉謙信はその後正面からぶつかることをしなくなったとまで伝えられています。

第五次川中島合戦

またしても両雄は川中島で対峙しますが、前の合戦で互いにダメージが大きすぎたため、第五次川中島合戦では衝突することなく終わりました。

川中島合戦について、武田信玄と上杉謙信は、互いに「自分の勝ちである」と主張していました。

一見するとおかしな話ですが、川中島合戦における両者の目的・視点の違いがそうさせたことだったのです。

もともと武田信玄は領土拡大を目指して信濃に侵攻しましたので、この合戦によって川中島一帯を獲得していますので、その意味で「勝利した」と言ったのです。

一方、上杉謙信は領土争いを目的としていませんでした。謙信の出兵の目的は越後への侵略者を追い払うことでしたから、こちらも「勝利した」と言えるのです。

川中島合戦のその後

前章までで、川中島合戦の流れについて見てきました。

両軍が最も激しくぶつかったのが第四次川中島合戦と言われていますが、そのときの被害は互いに甚大でした。

12年という歳月をかけて行われた川中島合戦ですが、その後どうなったのでしょうか?

この章では、川中島合戦の後、戦国の世がどう流れていったのかを見ていきます。

武田信玄と上杉謙信のその後の動向についても解説していきます。

川中島合戦以降の戦国

川中島合戦以降、武田信玄と上杉謙信が真っ向からぶつかることはありませんでした。

両者はそれぞれ目的は違いましたが上洛を目指しますが病のために互いに叶わず・・・夢途中で破れます。

しかし面白いのが、違う目的でそれぞれ動いていた武田信玄と上杉謙信が、図らずも一人の武将とその後関係していくのです。

それが皆さんご存知の、織田信長だったのです。

その詳細は続く項で紹介してまいります。

武田信玄のその後

武田信玄は川中島合戦の後、駿河(現在の静岡県中央部)を攻め、京に上ろうとしました。

武田信玄は1572年10月3日、二万七千の大軍を率いて甲府を出陣しました。

遠江(とおうみ)、只来城(ただらいじょう)、二俣城を攻略して三方ヶ原(静岡県浜松市)に進みました。

当時、天下統一を目指していた織田信長にとって武田信玄は最大最強の敵でした。

信玄のこの動きを黙って見過ごす訳にはいかない信長は、同盟関係にあった徳川家康を向かわせて信玄の上洛を阻止しようとしました。

これが三方ヶ原の戦いです。

徳川家康は当時31歳でした。一万の軍勢で戦に挑み、千人を超える戦死者を出して敗走しました。

武田信玄はその後も三河(現在の愛知県東部)へ兵を進め、野田城を攻略しましたが、病気の悪化により上洛を断念しました。

その後も体調は回復せず、武田信玄は息子の勝頼に「わしの死を三年間秘密にし、その間に戦備を整えよ」と遺言し亡くなったといいます。

上杉謙信のその後

武田信玄との戦から足を洗った上杉謙信は、川中島合戦の後は越中の一向一揆との戦いに力を注ぎました。

この一向一揆は武田信玄が裏で手を引いたと言われています。

突如台頭してきた織田信長に対して、最初は好意的だった上杉謙信でしたが、将軍足利義昭をないがしろにしたため態度は変わりました。

一向一揆の指導者であった本願寺顕如と、織田信長を共通の敵とすることで和解しました。

これで妨害するものがなくなった上杉謙信は越中を難なく攻略します。

着々と西に向かう上杉謙信を食い止めるため、織田家家臣の柴田勝家が挑みましたがまるで歯が立たず。

この結果を受けて織田信長は謙信恐るべしと震えたわけですが、両者の直接対決は叶いませんでした。

翌年上杉謙信が突然死してしまったからです。

死因は脳卒中と考えられています。

川中島の戦いをわかりやすく解説!勝敗は引き分けだったが両者は「勝ち」と思っていた?まとめ

以上が、有名なのに意外と知らない川中島合戦に関する解説でした。

武田信玄と上杉謙信の目的の相違によるスタンスの違いが興味深いですね。上杉謙信が領地争いのために進軍していたのだとしたら、こんなにも合戦が長引かなかったかもしれません。

謙信が大義名分のためにのみ動く武将だったからこそ、徒労とも言える戦を何年も続けられたのではないでしょうか。

上杉謙信が川中島で立ちはだかったがために武田信玄は天下を取りそこねたのではないかという見方もあります。そう考えると川中島合戦は戦国時代の命運をかけた戦いであったと言えるのかもしれません。

【参考文献・参考サイト】

『2時間でおさらいできる戦国史』石黒拡親 大和書房

『読むだけですっきりわかる戦国史』後藤武士 宝島社

『戦国武将あの人の顛末』中江克己 青春出版社

『武田信玄と上杉謙信の関係』歴史プラス

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