長屋王という人をご存知でしょうか。
長屋王の変で自殺に追い込まれた、奈良時代の悲劇の皇族と語られることが多いと思います。
裏を返せば、長屋王は奈良時代の政治上極めて重要な立場の人物だったと推測できそうです。
今回は、長屋王の変の原因考察から長屋王の政治的立場について解説していきたいと思います!
長屋王ってどんな人?
長屋王が奈良時代の朝廷でどういう立場であったか、またどのような家族を持っていたかを整理します。
長屋王の生活ぶりについても、発掘調査の成果からわかっていることをご紹介します。
これにより長屋王の人物像をつかんでいきたいと思います。
長屋王とその家族のプロフィール·高貴な血筋の政府首班
生年には676年(天武5)説と684年(天武13)説があり、729年(神亀6)に亡くなっています。
亡くなった当時の官位は正二位左大臣、長屋王は奈良時代の朝廷にて非常に地位の高い官人であったと言えます。
長く左大臣であった長屋王は、元正天皇と聖武天皇のもとで政府首班でした。
長屋王の家族にも注目です。
父の高市皇子(たけちのみこ)は天武天皇の皇子として壬申の乱にも従軍し、持統天皇の政権を支える重要な皇族でした。
母の御名部皇女(みなべのひめみこ)は天智天皇の皇女で、元明天皇の妹にあたります。
そして正妻の吉備内親王(きびないしんのう)は、元明天皇の娘であり元正天皇の妹でした。
このことから長屋王は、皇親メンバーの中枢部に位置する血筋の人物、といえます。
地位の高い官人であり皇親メンバーの中枢に位置する高貴な血筋の人物であることは、長屋王の変を考える重要な鍵となります。
長屋王家木簡にみる豪華な暮らしぶり
長屋王の邸宅跡は、発掘調査の結果明らかになっています。
平城宮跡の東南方面に近接した一等地に位置します。
この場所からは大量の木簡が発見されており、長屋王の経済的に豊かな生活ぶりを現代に伝えています。
・冷蔵庫のない奈良時代に専用の氷室を持っていた
・乳製品を作るために専用の乳牛を飼っていた
・飼い犬にまで米を支給していた
など、なんだか羨ましくなってしまうような生活ぶりです。
長屋王の変
奈良時代の身分の高い貴族であり、天皇に近い高貴な血筋であった長屋王が命を落とすことになった長屋王の変。
ここからは、事件の経緯をまとめ、長屋王にかけられた嫌疑について整理します。
藤原四兄弟と事件の経緯
長屋王が命を落とすことになった長屋王の変について、経緯を整理しておきましょう。
奈良時代の正史『続日本紀(しょくにほんぎ)』の伝える経緯は次のとおりです。
729年(神亀6)2月10日の夜、長屋王邸を六衛府の兵が囲みます。
指揮官の中には藤原宇合(うまかい)、すなわち藤原四子の三男が含まれています。
藤原四子とは、藤原不比等の4人の息子たちを指し、長屋王政権下の政府でも主要な地位を占めていました。
藤原四子を含む藤原氏メンバーと長屋王・天皇家の関係は系図でご確認ください。
同日、三関の「固関(こげん)」が実施されます。
三関とは鈴鹿関・不破関・愛発関の3箇所にあり、畿内と東国方面を結ぶ交通の要所に置かれた関所になります。
関所の封鎖により、軍事的にも厳戒態勢が敷かれたことがわかります。
翌日2月11日、長屋王の罪状を問うための使者が長屋王邸に派遣されます。
舎人親王(とねりしんのう)・新田部親王(にいたべしんのう)・大納言多治比池守(たじひのいけもり)らと共に派遣された使者の中には藤原武智麻呂(むちまろ)、すなわち藤原四子の長男が含まれています。
長屋王の罪状は国家転覆罪、つまり、私か(ひそか)に左道を学んで、国家を傾けようとしたとのことでした。
「左道」とは呪詛、すなわち聖武天皇を呪詛した疑いがかけられたということです。
その根拠は前日の密告にあります。
従七位下漆部君足(ぬりべのきみたり)、漆部駒長(うるしべのこまなが)、無位中臣宮処東人(なかとみのみやところのあずまびと)の3人が密告者です。
いずれもあまり身分が高くない者たちです。
翌日2月12日、長屋王は自邸にて自経(自ら首を括り死ぬこと)します。
正妻の吉備内親王(きびないしんのう)と、子である膳夫王(かしわでおう)、桑田王(くわたおう)、葛木王(かつらぎおう)・鈎取王(かぎとりおう)も共に自経しています。
翌2月13日、長屋王と吉備内親王(きびないしんのう)の遺骸を生駒山に葬るにあたり、聖武天皇が勅(天皇の命令書)を出しています。
「吉備内親王に罪はない。礼によって葬儀をいとなむよう。(中略)長屋王は罪人であるが、葬儀はあまりに醜くしないように」
それならば何故長屋王一家を自殺に追い込んだのだ、と聖武に聞いてみたくなるような奇妙な勅です。
事件の後処理の過程で、本来縁坐(連帯責任)の罪に問われるべき長屋王の兄弟・子や家令たちにはほとんど追及が及ばないことになりました。
2月26日の記事を最後に、長屋王の変に関する記事は『続日本紀』から姿を消します。
政府リーダーだった長屋王が国家転覆罪で自殺に追い込まれた大事件の割には、あっけない幕引きという印象を受けます。
長屋王は無実だった?
長屋王の変の顛末を確認する限り、長屋王が国家転覆罪の嫌疑に弁明した記録は残っていません。
実際のところ、長屋王は本当に有罪だったのでしょうか。
『続日本紀』には次のような内容の記事が収録されています。
「天平10年(735)、長屋王の変から6年後の秋のこと、左兵庫少属従八位下大伴子虫(おおとものこむし)は、右兵庫頭外従五位下中臣宮処東人(なかとみのみやところのあずまびと)と囲碁をしていたところ話題が長屋王の変に及び、東人(あずまびと)を面罵したのち斬殺してしまいます。実は、大伴子虫(おおとものこむし)とはかつて長屋王に仕えていた者であり、中臣宮処東人(なかとみのみやところのあずまびと)の方は、長屋王を「誣告(ぶこく)」した人でした。」
『続日本紀』には誣告(ぶこく)、すなわち「故意に事実と異なる内容で、人を訴える」と明記されています。
長屋王が無実の罪で自殺に追い込まれたことは、『続日本紀』が編纂された平安初期の政府内では公然の事実だったのでしょう。
長屋王が排除された理由を考える
ここまで長屋王の変の経緯と、実は長屋王が無実であったことを確認しました。
それではなぜ長屋王が政治的に排除されることになったのでしょうか。
彼の血筋と、聖武天皇の正妻光明子の実家であった藤原氏側の事情を整理し、理由を推測してみます。
長屋王の血筋は聖武天皇に匹敵する高貴な血筋?
長屋王が政治的に排除された真相について、『続日本紀』には明記がありません。
そこで、長屋王の政治的立場から推測してみたいと思います。
まずは、彼の血筋についてです。
長屋王の父は天武天皇の皇子・母は元明天皇の妹であったため天武系皇統の中心に近い高貴な血筋を持っていたことは、すでにお話したとおりです。
一方、長屋王の変当時の天皇だった聖武天皇に目を向けてみましょう。
聖武天皇は、天武天皇・持統天皇の孫である文武天皇の子として生まれ、天武皇統の直系の血筋であると言えます。
文武天皇の死去時に首皇子が幼少であったため、文武の母であった元明天皇が中継ぎとして即位したと考えられています。
ただし聖武天皇の母は藤原不比等の娘宮子であり、皇族ではなく臣下身分の出身でありました。
成長した聖武天皇が正妻として迎えたのは、やはり藤原不比等の娘光明子でした。
このように、聖武天皇は母系・外戚関係で臣下である藤原氏と強いつながりを持っています。
藤原氏と天皇の外戚関係が定着するのは平安時代以降のことで、奈良時代当時では聖武天皇の血統は天皇として必ずしも満点ではないという印象もあったでしょう。
父母双方と正妻が皇族である長屋王は、官人の立場ながらも皆を納得させられる血筋の持ち主でした。
この点、聖武天皇との婚姻関係を通じて勢力拡大を狙う藤原氏にとって、長屋王は脅威だったと推測されます。
藤原氏との関係〜光明子立后問題、基王立太子問題〜
長屋王が政治的に排除された理由について、通説では「光明子立后問題」が原因と考えられています。
天皇の正妻である皇后になる女性は、皇族でなければいけないという原則が律令にはありました。
これは、万一天皇が亡くなり後継者が未成年の場合、皇后が中継ぎの天皇として即位する事例に備えてのことです。
藤原氏出身の藤原光明子が聖武天皇の皇后になることは、その原則から外れることを意味します。
長屋王、実は聖武天皇が母である藤原宮子に対して尊号「大夫人(だいぶにん)」を奉ろうとした際、律令の規定では「皇太夫人(こうたいぶにん)」と書かれていることを指摘したことがあります。
これを受けて聖武天皇は、一度出した勅を撤回しています。(724年、皇太夫人事件)
律令に忠実に仕事を進める長屋王の姿勢が伺えますが、光明子立后のことについても長屋王なら律令との相違を聖武天皇にきっちり指摘しそうなところです。
727年(神亀4)閏9月29日、聖武天皇と光明子の間には待望の男子が生まれます。
この子は基王(もといおう)と呼ばれています。
同年11月、生後33日の基王は皇太子に立てられます。
未成年の天皇が認められなかった奈良時代では、新生児の立太子は前代未聞のことでした。
実際当時の大納言多治比池守(たじひのいけもり)は基王立太子を祝うために藤原邸に赴いていますが、政府内で上席の長屋王は行っていません。
当時の常識から外れた基王立太子に対して、律令に忠実だった長屋王ならば賛成していなかったかもしれませんね。
しかし基王(もといおう)は728年(神亀5)に生後1年を待たずして病死してしまいます。
長屋王の変と同じ年729年、神亀6年から天平元年に改元されます。
それと同時に光明子立后が正式に布告されます。
藤原氏にとってみれば、基王(もといおう)を通じた外戚関係により勢力拡大をする手段がなくなった以上、光明子の立后は何としてでも押し切りたいところでした。
これには、奈良時代の皇后は、天皇に万一のことがあった場合即位する可能性があったという事情が深く関わります。
長屋王の変をわかりやすく解説・まとめ
長屋王は皇族の中で高貴な血筋を引いており、律令に忠実に政務を執り行ったリーダーとして政府を主導していました。
長屋王の変で彼にかけられた嫌疑は冤罪で、臣下出身の光明子立后という、律令に違反することを押し通そうとする藤原氏との対立が、長屋王の変の原因と考えられそうです。
【参考文献】
青木和夫『日本の歴史3 奈良の都』(中公文庫 1973年)
渡辺晃弘『平城京と木簡の世紀』(講談社学術文庫 2009年)