戦国最強と呼び声の高い甲斐の虎、こと武田信玄の存在はご存知の方は多いと思います。
それでは、その跡目を継いだ、息子の勝頼はどうでしょうか? 名前くらいは聞いたことがあるのではないでしょうか?
今回は、偉大な父を持ちながら度重なる災難に見舞われ、37歳の若さで討ち死にした武田勝頼。
今日は勝頼って一体、何をした人なのか?評価がいまいちだけど、本当は勇将だったのでは?ということについて解説していきたいと思います。
加えて、武田信玄と上杉謙信との関係性についても解説してまいります。
武田勝頼の人となり
偉大な父を持つと子は大変と言いますよね。
優秀な父親のイメージが亡霊のようにまとわりついて、武田勝頼も相当な苦労をしました。
しかし果たして、武田勝頼は世間で言われるほど愚かな武将だったのでしょうか?
それどころか、周囲を見返すために頑張った結果を暴走と取られたり、協力関係にあった武将から裏切られたり、愛想を尽かした家臣たちから次々と謀反を起こされたりと散々な人生だったようです。
また、武田勝頼は武田信玄の後を継ぎ、多くの武勇を残しました。
同時に、織田信長・徳川家康の連合軍に惨敗し、武田家を滅亡に導いた張本人という汚名も残しました。家臣たちからの信任も得られなかったと言われています。
しかし、もし武田勝頼が愚将なのならば、なぜ武田信玄はそんな者に家督を相続したのでしょうか。
この章では武田勝頼の人となりを分析し、彼が実際はどのような武将だったのかを紐解いてまいります。
武田勝頼の生い立ち
武田勝頼は1546年、甲斐国(現在の山梨県)の武田家の四男として生を受けます。
武田信玄を父に持ち、諏訪御料人を母に持ちます。諏訪氏・武田氏両方の名跡を継ぎました。
母が側室で、諏訪氏は武田信玄が滅ぼした敵将の子孫だったこともあり、武田勝頼を快く思わない家臣も多かったといいます。
その詳細は、これから順を追って説明してまいります!
偉大なる父・信玄
勝頼の父である武田信玄は、言うまでもなく高名な武将でした。
風林火山を旗印にし、甲斐の虎と恐れられたことは有名です。
武田信玄は敵国を次々と攻めて領地拡大を進めますが、上洛を目前にして病に倒れました。
しかしその直前には若き日の徳川家康を相手に圧勝するなど、とんでもない強さを見せつけています。
そんな武田信玄の跡目ですから、重圧がないわけがありません。
武田勝頼は信玄の死後、父親の亡霊に苛まれることになります。
武田勝頼は本当に愚将だったのか?
武田勝頼は、武田家を滅亡に追いやった張本人として、愚将のレッテルを貼られがちな人物です。
しかし実際のところはどうでしょうか。
武田勝頼は父・信玄に劣らぬ勇将でした。しかし、重臣たちの反対を押し切って戦をするなど、暴走するようなところがありました。
武田勝頼からすると偉大な父親を越えなければという思いがあったのかもしれません。
しかしそれが思慮に欠ける暴走と取られて家臣たちからの信任が得られず、裏切りや謀反にあった挙げ句、織田信長の先兵に攻められ、天目山麓の田野(現在の山梨県大和村)で戦死しました。
しかし徳川家康に長篠城を取られた際、すかさず反撃に転じました。
美濃(岐阜県南部)に攻め込み、18もの小城を落とし、徳川方の高天神城を奪い取りました。
これを見るに、武田勝頼にも武将としての戦の才覚が備わっていたのではないかと思われます。
味方であるはずの家臣たちが信玄との比較から不信感を持つようなことがなければ、武田勝頼も愚将と呼ばれることはなかったかもしれません。
武田勝頼の災難
武田勝頼が武田家の跡目を継いでからというもの、苦難の連続でした。
歴史上有名な長篠の戦いでの敗戦や相次ぐ謀反で、武田勝頼は追い詰められることになりました。
この章では、武田勝頼に少し同情してしまうような内容になりそうです。武田勝頼が信玄の跡目を継いでから亡くなるまで、その軌跡を見ていきます。
家督を継いだ経緯
武田勝頼が武田家の跡目を継いだのは20代の時でした。
正確には、武田信玄は生後間もない信勝(勝頼の嫡男)を後継者にしました。勝頼は信勝が16歳になるまでの後見人としたのです。
武田勝頼は信玄の四男でしたが、腹違いの長男・義信は父と反目して自害させられ、次男の竜宝は出家、三男の信之は早世していました。
そういった理由で、武田勝頼は信玄の跡目を事実上相続したのでした。
長篠の戦い
天下取りを目指していた織田信長と徳川家康の連合軍が、武田家と同盟関係にあった浅井長政を討ったのが事の発端でした。
浅井長政を討ち取り勢力を増す織田信長・徳川家康に対して、武田勝頼は勇猛に戦い、一進一退の戦いを展開しながら武勇を重ねていきました。
武田勝頼が設楽ヶ原(現在の愛知県新庄市)へ進出して織田・徳川連合軍と対峙したところで、「長篠の戦い」が開戦となりました。
結果は武田軍の惨敗でした。
長篠の戦いは8時間にも及び、武田軍は一万人以上の死傷者を出したと言われています。
武田軍が総崩れとなる中、武田勝頼はどうにか退却したのでした。
長篠の戦いは武田軍にとって、優れた武将を数多く失い、その後も防戦一方の展開を余儀なくされる一大転機となってしまったのでした。
家臣たちに募っていった不信感
もともと武田勝頼は、敵将の諏訪氏の血を引く出自だったこともあり武田家の中で良く思っていない家臣も少なからずいました。
それと相まって、より武田勝頼への不信感を芽生えさせる事件が起きます。
織田信長に高天神城(現在の静岡県掛川市)を兵糧攻めされたときのことです。
城兵が餓死していくにもかかわらず、武田勝頼はこれを助けることができませんでした。
この出来事は武田軍の中に勝頼への不信感を募らせるきっかけになりました。
相次ぐ謀反
高天神城での出来事の後、直属の家臣だけでなく、協力関係にあった近隣の武将たちが武田勝頼を次々と裏切っていくことになります。
当時、武田勝頼は織田信長と徳川家康の連合軍と敵対していました。
そんな勝頼を1582年、謀反の連鎖が襲いました。
信濃と美濃の国境近くの木曽義昌が敵対中の織田方に寝返ったのです。
これを勝機と見た織田信長は美濃国へ、徳川家康も駿河国に攻め入りました。それによって今度は駿河の穴山信君(のぶただ)が、武田方から徳川方に寝返ってしまったのです。
これに慌てた武田勝頼は、頼った小山田氏に見放されて自害に追い込まれたと伝えられています。
享年37歳でした。
「越後の龍」と「甲斐の虎」
武田勝頼を語る上で欠かせないのが、やはり前の代で鎬を削ったこのニ名でしょう。
武田信玄と上杉謙信は川中島の合戦で五度にわたって死闘を繰り広げ、その後も良きライバルとして互いを意識しあいました。
武田信玄と上杉謙信の存在が武田勝頼に影響を与えたことは間違いありません。父親である信玄はもちろんのこと、上杉謙信も実は近所のおじさんのように勝頼のことを見守っていたのです。
この章では武田勝頼と両武将の関係性について見ていきたいと思います。
上杉謙信の存在
武田信玄のライバルといえばこの人、上杉謙信です。
五度にわたった川中島の合戦は有名ですが、信玄の跡目を継いだ武田勝頼については絶妙な立ち位置を保っていました。まるで信玄亡き武田家を見守るようでした。
信玄の死を上杉謙信が知ったときのことです。宿敵の死を嘆き悲しんだばかりか、喪に服すために三日間の歌舞伎音曲を禁止したほどでした。
そして信玄の死に乗じて出陣しましょうとの家臣からの進言を嗜め、「若い勝頼が跡目を継いだばかりではないか。そのようなときを狙って攻めるのは、大人気なき致し方だ」と言ったといいます。
また、長篠の戦いで武田勝頼が負け、武田軍が大きな打撃を受けていたときも、「人の落ち目を見て攻め取るは本意ならぬことなり」と言って出陣しなかったそうです。
これらのエピソードは上杉謙信の「義」を重んじる性分の表れでもありますが、武田勝頼に一目置いていたからこその言動でもあるのではないでしょうか。
武田信玄の亡霊
武田信玄は病に倒れた死の床で、武田勝頼にこう言いました。
「わしの死を三年間秘密にし、その間に戦備を整えよ」
武田勝頼はその通りにしました。武田信玄は病のために隠居ということにしました。
この遺言は武田家の将来を想ってのことでしたが、同時に勝頼のリーダーとしての資質を案じてのものでもありました。
信玄が死ぬことによって近隣の武将たちが甲斐国に攻め入ってくることを警戒したと同時に、武田家の中でも諏訪氏の血を引く勝頼への反感があることを見越していたのです。
武田信玄を慕っていた重臣ほど、勝頼のことを認めることができませんでした。
そうして武田家は信玄派と勝頼派に二分し、対立してしまうことになったのでした。
武田勝頼って何をした人?評価はいまいちだが本当は勇将だった!まとめ
以上が、武田勝頼の生涯でした。
武田信玄という偉大な父を持ち武田家の跡目を継ぐも、どうしても父と比較されてしまう苦悩や、長篠の戦いをはじめ様々な災難に見舞われました。
父・信玄の亡霊を振り切ろうとすればするほど家臣たちの心は勝頼から離れていくという矛盾に苛まれ、最終的には武田家を導くことになりました。
武田勝頼は戦での采配などを見る限り、決して無能な武将ではありませんでした。勝頼の武将としての力量は織田信長も認めていたところです。しかし武田信玄という上がりきってしまったハードルを越えるには至らなかったということでしょう。武田勝頼の最大の敵は、父である信玄と味方であるはずの家臣だったのです。
武田家の滅亡は、武田信玄というカリスマを失ったことによる内部崩壊が招いた結果だったのかもしれません。
戦国時代はそれぞれの武将の思惑が絡み合い、様々な人間模様が垣間見えるので非常に面白いですね。皆さんも少しでも名前を聞いたことがあって気になる武将がいたら勉強してみてください。思わぬエピソードや人となりが見えてきて面白いですよ!
【参考文献・参考サイト】
『2時間でおさらいできる戦国史』石黒拡親 大和書房
『読むだけですっきりわかる戦国史』後藤武士 宝島社
『戦国武将あの人の顛末』中江克己 青春出版社
『武田勝頼の歴史』刀剣ワールド
https://www.touken-world.jp/tips/38340/