【独眼竜】伊達政宗は何をした人?その功績をわかりやすく簡単に解説!

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独眼竜・伊達政宗の名前は誰しもが聞いたことがあるのではないでしょうか。そして彼の兜や甲冑のデザインもお洒落で格好良く、こちらも有名です。

しかし、伊達政宗が何をして、どのような武将だったのかについて詳しい人は少ないのではないでしょうか。

伊達政宗は遅れてきた戦国大名と言われています。

政宗が家督を継いだときには、天下は平定されていたからです。そのため、政宗は豊臣家や徳川家と上手くやらなければいけませんでした。

伊達政宗には数多くの逸話と名言があり、その処世術が現代にも通じるものがあるのでは?ということで注目されています。

というのも、伊達政宗は今で言う上司にあたる2人の大名、豊臣秀吉と徳川家康と上手に付き合うことに成功していたというのです。

その処世術がどんなものだったのか、ご紹介いたします!

また、伊達政宗のトレードマークである隻眼を本人が気にしていたというのも興味深いですよね。

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目次

伊達政宗の人となり

伊達政宗は遅れてきた戦国大名と呼ばれています。

その理由は、織田信長や豊臣秀吉、徳川家康らに比べて25から35歳も若く、ひと世代後の武将になるからです。

そのため、伊達政宗が家督を継いだ頃には天下は平定されており、戦国大名たちは天下取りを目指して他国と争うというよりは豊臣家や徳川家といかに上手くやるかが試されていた時代だったのです。

この章では伊達政宗の生い立ちや功績、上司である豊臣秀吉と徳川家康との関係について解説していきます。

伊達政宗の生い立ち

伊達政宗は奥州の名家の血筋を汲んだサラブレットでした。父が伊達氏16代当主・伊達輝宗(てるむね)、母が出羽国の戦国大名・最上義守の娘でした。

伊達政宗は幼少の頃は梵天丸(ぼんてんまる)と名乗っていましたが、天然痘を患い、幸い命は助かったものの右眼の視力を失ってしまいます。

その右眼は、白濁してしまったとも飛び出してしまったとも言われていて、いずれにしても伊達政宗はその容姿を醜いと感じていたようです。

コンプレックスを抱えた内気な少年だった伊達政宗を変えたのは、父・輝宗が招いた名僧・虎哉宗乙(こさいそういつ)でした。

虎哉宗乙は伊達政宗に学問の手ほどきだけでなく、武将としての行き方も示しました。

「痛ければ痛くないと言え、悲しければ笑え、暑ければ寒いと言え」

伊達政宗は虎哉宗乙の教えによって、己の弱さを克服する努力をしていったと言います。

伊達政宗は何をした?

戦国武将として有名な伊達政宗ですが、何をした人なのでしょうか? 彼の功績についてご紹介していきます。

伊達政宗は1585年、父・輝宗の隠居に伴って家督を相続し、伊達家の第17代当主となります。

家督を継いだ翌年、父の輝宗射殺事件が起こります。詳しくは諸説ありますが、この事件によって伊達政宗は父親を亡くすことになります。

それ以降、伊達政宗は領地拡大に乗り出します。

東北の諸大名と合戦を繰り広げ、1589年には強敵だった葦名氏を破り、わずか数年の間に福島・山形・宮城の三県にわたる広大な勢力圏を築き上げました。

こうして伊達政宗は、東北の王者に登り詰めたのでした。

2人の上司

伊達政宗の人生を語る上で欠かせないのが、政宗の上司にあたる2人――豊臣秀吉と徳川家康でしょう。

1590年春頃には陸奥・出羽の半ばを支配する東北の王者となった伊達政宗は、その年、小田原攻めに参陣して豊臣秀吉に臣従し、秀吉の死後は徳川家康に従いました。

豊臣秀吉との関係は、北条氏討伐を掲げた小田原合戦から始まりました。

もともと伊達氏と北条氏は同盟関係にあったので、当時の伊達政宗は決断に迫られました。北条氏に味方して玉砕覚悟で上方の遠征軍と戦うか、豊臣秀吉の参加に入るか。

悩みに悩んだ伊達政宗は豊臣秀吉に味方することを選びます。

その後、幾度も伊達政宗は豊臣秀吉の怒りを買う場面があるのですが、持ち前の処世術で切り抜けます。その謝罪力については第2章で触れていきます。

豊臣秀吉の死後、伊達政宗は徳川家康に忠誠を誓うことになります。

そして長女である五郎八姫(いろはひめ)を家康の六男・松平忠輝に嫁がせました。

1600年、上杉景勝征伐の包囲網が敷かれた際、徳川家康は伊達政宗に「戦後の報酬には伊達政宗が自ら切り取った領土をすべて与える」と書かれた約束状・百万石のお墨付きを受けています。

これは伊達政宗が上杉景勝との戦いに集中できるよう配慮されたもので、それだけ政宗が信頼されていたことを意味します。

名言と逸話で紐解く伊達政宗の処世術

伊達政宗といえば処世術が有名です。

戦国の世は、戦の強さだけでなく、外交的な駆け引きも必要でした。特に伊達政宗の時代は、豊臣秀吉や徳川家康などから好かれることも大切で、一匹狼では、やっていけなかったのです。

この章では、伊達政宗がどのような処世術を用いていたのか、名言と逸話で紐解いていきます。

伊達政宗五常訓

伊達政宗の処世術を表す名言の中に、伊達政宗五常訓(ごじょうくん)というものがあります。これは中国の儒教の教えを伊達政宗流にアレンジしたものです。

①仁に過ぎれば弱くなる(思いやりが強すぎると相手のためにならない、ということです)

②義に過ぎれば固くなる(正義感が強すぎると融通が利かない、ということです)

③礼に過ぎれば諂(へつら)いとなる(礼儀を重んじすぎると媚びるだけの人になる、ということです)

④智に過ぎれば嘘をつく(知恵をつけすぎると嘘をつく、ということです)

⑤信に過ぎれば損をする(信用しすぎると損をする、ということです)

これら5つを総合すると、過ぎたるは及ばざるが如しということでしょうか。

伊達政宗の時代は出る杭は打たれる世の中で、政宗の処世術は、絶妙なバランス感覚によるものだったということがこの名言でわかります。

命懸けの謝罪力

小田原合戦で豊臣秀吉の傘下に入ることを選んだ伊達政宗は、1590年5月に出立し、同年6月にようやく小田原に到着しました。

しかし伊達政宗が到着した頃には、ほとんど勝負は決しており、秀吉の怒りを買うことになりました。

このときの有名な逸話が、死に装束での謝罪でした。

豊臣秀吉との謁見の場に現れた伊達政宗は、白衣の死に装束をまとっていたのです。

その前の堂々とした弁明でも一目置いていた豊臣秀吉は、持っていた杖で政宗の首を叩きながら「もう少しでそちの首は落ちていたぞ」と言ったと伝えられています。

その後も伊達政宗は豊臣秀吉の怒りを買うたびに奇抜なアイデアと堂々とした弁明で切り抜けたといいます。

一揆を扇動したとして秀吉に問い詰められた際も死に装束に十字架を掲げて、秀吉への忠誠心を示したと伝えられています。

伊達政宗の病と最期

伊達政宗のトレードマークである隻眼は、病によるものでした。

他にも持病を持っていた伊達政宗は、「物事、小事より大事は起こるものなり。油断するべからず」を養生訓として、少しの病でも必ず薬を服用し、気をつけていたと言います。それだけ健康には気を配っていたそうです。

そして死因も病によるものでした。

このように伊達政宗の人生には病がつきまとっていました。

この章では伊達政宗の隻眼に触れながら、病と死因について解説していきます。

伊達政宗は隻眼コンプレックス?

伊達政宗は敬意を持って独眼竜政宗と呼ばれています。しかしその隻眼は病によってなったもので、政宗本人は非常にコンプレックスに感じていたようなのです。

伊達政宗は遺言状に「画像や木像を作るようなことがあれば両眼とも健全な造りにしてほしい」と書いているほど、最後まで隻眼のことをコンプレックスにしていたようです。

伊達政宗の死因

伊達政宗は1636年5月24日、江戸桜田の伊達屋敷で70歳の人生を終えたと伝えられています。

死因は病死で、食道噴門癌による、癌性の腹膜炎だったそうです。

病気の影響で、生前よくむせていたとも言われています。

1636年3月頃から病状は悪化していたのですが、伊達政宗は病をおして4月20日、江戸へ出発しました。

これが最後の旅になるかもしれないと悟っていたのでしょうか、政宗は旅立ちの前に家臣たちを集め、嫡子である忠宗に忠義を尽くすように命じたといいます。

江戸に到着して江戸城で三代将軍徳川家光に面会した伊達政宗でしたが、病状がかんばしくなく、見かねた家光が心配のあまり京都から名医を呼び寄せて治療させたといいます。

それでも病気は悪くなるばかりで、家光が見舞いに行った5月21日、正宗の腹は大きく膨れ上がり、苦しそうだったと伝えられています。

死期が近いことを悟った伊達政宗は性質の愛姫(めごひめ)に遺言状を送りました。そこには前項で触れた、画像や木像を作る際には隻眼で作らないでほしいということも書かれていたようです。

伊達政宗は病床になるべく人を入れないようにと命じて、静かにこの世を去りました。20人ほどの殉死者がいたとも伝えられています。

【独眼竜】伊達政宗は何をした人?その功績をわかりやすく簡単に解説!まとめ

以上、伊達政宗の処世術や病、死因などについて解説してまいりました。

隻眼がトレードマークの伊達政宗が、隻眼にコンプレックスがあったとは意外でしたね。病気によるものだということも、あまり知られていない事実でした。

伊達政宗は、生まれた時代が早ければ天下を取っていたかもしれない武将と言われており、そのような「たられば」を考えるのも歴史の面白さの1つですよね。

【参考文献・参考サイト】

『2時間でおさらいできる戦国史』石黒拡親 大和書房

『戦国武将あの人の顛末』中江克己 青春出版社

『伊達政宗の歴史』刀剣ワールド

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