武田信玄を2度まで敗走させた村上義清

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戦国時代で、約150年間にもおよぶ戦乱の時代でした。

そんな時代のど真ん中を生きた村上義清は信濃国更級郡葛尾城を居城とした戦国大名です。

かの有名な武田晴信(のちの信玄)を2度まで大敗させた猛将なのです。

村上義清を見ていきたいと思います。

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目次

信濃国の特徴

長野県の県歌「信濃の国」には聳る山はいや高く、流るる川はいや遠し、松本・伊那・佐久・善光寺(=長野盆地)、四つの平は肥沃の地という歌詞があります。

信濃国はこの歌詞にあるように、高い山々とその間を縫って流れる川があります。それらの川がつくった歌に歌われた大きな四つの盆地と諏訪湖を擁する諏訪盆地、佐久盆地から西北に続く上田盆地が主な平野です。

このような地形の特色から戦国時代に信濃各地に割拠した勢力は独立性が高くなりました。

信濃村上氏のはじまり

祖先は清和源氏。村上義清の祖先は清和源氏の中でも河内源氏の祖である源頼信です。この流れから源頼朝がでて鎌倉幕府を開きます。名門ですね。

さて、この頼信という人の時代の源氏は、=武士!ではまだありませんでした。

この人には関東でおこった兵乱を平定した強者という武官的側面と都の貴族に近侍する文官的側面がありました。

頼信の後を継いだ頼義・義家は、武官的側面を受け継いで関東武士と関係を深め、有名な前九年・後三年合戦を通じて武士の棟梁としての地位を築いていきました。

一方、頼義の弟であった頼清は文官的側面を引き継ぎ、位階や職歴の上でも兄の頼義より先んじていました。その後を継いだ仲宗、惟清も白河院政のもとでも文官としての地位を築いていました。

白河法皇のわがままで失脚

ところが、惟清の妻を所望した白河法皇のために失脚させられてしまうのです。倫理にはずれた白河法皇のわがままの犠牲です。
この事件で、父の仲宗以下、惟清、顕清、仲清、盛清ら全員が各地に配流された記録が当時の貴族の日記(『中右記』)にあります。

このうち盛清が信濃国に配流されたとありますが、村上氏の拠点となる更級郡村上郷との関係ははっきりしません。また、顕清が信濃国に配流されたとの記録(『尊卑分脈』)もあります。

平安時代末の村上為国が祖

しかし、いずれにせよ盛清の子である為国という人が嫡流を継いだことは間違いなさそうで、彼は崇徳上皇のもとで判官代(事務官)を都で務めています。

この時代は、都で最高級貴族のもとで出仕するのが家の繁栄のためだったので。この人は、村上判官代とよばれたので、すでに村上郷を基盤としていたようです。

ですから、実質的に信濃村上氏の祖はこの村上為国となります。

為国は保元の乱で崇徳院の側にたちますが、その後勝利した側の後白河院政で権力をふるう藤原信西の娘婿であったため没落を免れました。

ちなみに、この為国の弟の定国が伊予に移り、勢力を築いて村上水軍の祖となったようです。

鎌倉時代の村上氏についてははっきりせず、為国の子が鎌倉御家人として記録に見えているだけです。次に村上氏が歴史に登場するのは鎌倉幕府滅亡に際しての記録からです。

南北朝時代の村上氏

村上義光。後醍醐天皇が鎌倉幕府打倒のために挙兵すると、村上義光が護良親王(後醍醐天皇の長男)の軍に参陣しています。

幕府軍に追い詰められ切腹を覚悟した護良親王の身代わりとして自害した無二な忠臣として太平記に描かれた人物として有名です。

信濃惣大将となった村上信貞

義光は自害しましたが、その弟の信貞も天皇方に寝返りました。

信濃を中心に、北条時行が幕府再興を目指して兵をあげると、本拠地村上郷から更級郡一帯を朝廷側にたって平定します。

建武の新政が瓦解したあとは終始、北朝足利方として信濃国の鎮定にあたり、北陸にあった新田義貞討伐の命を幕府からうけたときは、信濃守護に任じられた名門小笠原貞宗とは別に、信濃惣大将として活躍しています。

南北朝の内乱という敵味方が入り乱れる時代、村上氏は幕府が送り込んできた守護斯波氏に国人を糾合して抵抗しています。

千曲川の対岸、坂木(城)に進出

南北朝の内乱が終わるころ村上氏は、拠点を村上郷から千曲川をはさんだ対岸に葛尾城を築き居城とします。

このころはまだ戦国時代ではなく、葛尾城の麓に濠をもった方形の居館をつくりました。現在、その地には満泉寺という寺院になっています。

1400年には、将軍足利義満は小笠原長秀を守護に任命します。再び小笠原氏が守護になったのです。やってきた小笠原長秀と村上満信は所領をめぐって対立し合戦におよびます。この合戦には勝利し、長秀は罷免されますが、反乱自体は幕府側によって鎮定されてしまいます。

その後、室町幕府にくじ引き将軍で有名な足利義教が就任すると鎌倉公方の足利持氏との間で抗争がおこり、この間、京都の幕府に反感を持ち続けていた村上氏は持氏よりの立場にたちます。

この対立は、1439(永享11)年、鎌倉公方足利持氏が京都の幕府によって滅ぼされるという前代未聞の結果となります。この出来事は永享の乱と呼ばれ、これ以後、応仁の乱に先立って東国では戦国時代に突入しました。

戦国時代

義清の父の祖父・父の代に大きく勢力範囲を拡大

本格的な戦国時代に入り、村上政国の代には葛尾城を拠点に、隣接する小県郡の海野氏、さらにはその先の佐久郡の大井氏を服従させて支配範囲を広げました。

しかしながら大井氏を失った佐久には武田伸昌が侵攻し、完全に支配することはできませんでした。

その後、政国と子の顕国は北方の水内郡への侵攻をはじめ攻略した。続いて高井郡の高梨氏と抗争を開始しました。これに対して高梨氏は越後の長尾為景(謙信の父)に援助を求め、村上氏も長尾氏討伐の意図をもった山内上杉顕定とともに一端は勝利します。

長尾・高梨方の反攻に会い、上杉顕定は討ち死にしてしまいます。

これによって長尾氏の越後支配が安定し、その庇護をうけた高梨氏を頼平は滅ぼすことができませんでした。

すると顕国は馬首を返して小県に侵攻し、海野氏の砥石城を攻め落としています。この砥石城は埴科郡と小県郡の境目にある城で、佐久を一望に見渡せる重要な城でした。

砥石城はのちの義清と信玄との戦いにおいて重要な地点となります。

村上義清の登場

村上義清は顕国の子として1501(文亀1)年に生まれます。武田信玄や上杉謙信より1世代年上になります。

義清が生まれた頃には村上氏は更科・埴科郡を基盤に水内郡、小県郡と佐久郡の一部も支配する独立した戦国大名となっていました。

甲斐を武田信虎が統一すると、信虎はしばしば佐久へ出兵し、義清と争いました。

しかし、1541(天文10)年に山内上杉氏の援助をえて、小県郡の海野氏が佐久西部の旧領奪回をもくろむと、義清は信虎と諏訪頼重および武田信虎と組んで佐久への侵攻を開始します。

この戦いで、海野氏は所領をすべて奪われ、山内上杉家のもとへ落ち延びます。これを海野平の戦いといいます。この海野一族の中に真田幸綱(幸隆)がいました。こうして義清は小県郡の全域を支配下に置くことに成功しました。

武田晴信との抗争

武田信虎の追放と晴信の信濃侵攻

義清が小県郡支配を完成させましたが、直後に甲斐国で政変がおこり、信虎が子の晴信に追放されました。ここから一転して、信濃国全域を狙う晴信との死力をつくした戦いがはじまります。

武田晴信は信濃攻略の第一歩として1542(天文11)年に諏訪氏を滅ぼし、板垣直方を諏訪郡代として統治させます。その間、佐久の大井氏、翌々年には伊那の高遠諏訪氏をほろぼして佐久、上伊那両郡を制圧します。

晴信にとって残るのは小笠原氏と村上氏になりました。

上田原の戦い

1546(天文15)年、晴信は佐久郡を制圧し、重臣小山田虎満を佐久郡代としました。義清との対決の準備が整ったのです。ここまで、晴信は順調に信濃制圧を進めてきましたが、その前に立ちはだかったのが義清でした。

1548(天文17)年2月1日、甲府を出発し、義清の拠る葛尾城を目指しました。諏訪から大門峠を越えて上田平に入り上田原に陣取ります。

葛尾城から南下してきた義清軍は千曲川に流れ込む産川をはさんで晴信軍と対峙します。

2月24日、ついに両軍は衝突します。先陣を切ったのは武田軍の板垣信方でした。

板垣隊は村上軍を突き崩し勝利を得ましたが、深く入りすぎて村上軍に包囲され、ついに諏訪郡代までまかされた重臣中の重臣である板垣を討ち取ります。村上軍の士気は多いにあがり、その後激戦が繰り広げられました。

同時代史料によると板垣の他に甘利虎泰など晴信を支えてきた重臣が討ち死にしていて、人々のみるところ武田軍の大敗でした。『甲陽軍鑑』には板垣の油断や義清が晴信本陣にまでせまった様子が描写されていますが、真偽のほどはわかりません。

『甲陽軍鑑』は後世の編纂ものでこの戦いを砥石くずれの前、しかも季節は夏におこったことになっているからです。

諏訪郡代の板垣が討ち死にし、諏訪郡内には動揺がはしります。諏訪氏旧臣の中には村上、小笠原方に内通するものもでてきました。

この機に乗じて小笠原長時は塩尻峠まで南下してきました。晴信はこれにただちに対応して小笠原軍を退け、村上側に奪われた佐久の回復を進めていきました。

義清は徐々に劣勢に立たされていきました。

晴信はこのあと府中(松本)の小笠原氏を下し、筑摩・安曇野両郡を手中にしました。残るは村上義清のみです。。

武田信玄の砥石崩れ

1550(天文19)年、義清が北方の高梨氏と対陣しているのをみて攻略の好機とし、橋頭堡として村上方の最前線である砥石城攻めをはじめました。砥石城は交通の要衝にあり、ここを取られると葛尾城が敵軍に包囲される危険性が高まります。


9月9日から武田方の砥石城攻めがはじまりました。

これに対して義清はただちに高梨氏と和睦し、さらに連合して武田軍にあたるべく南下しました。

砥石城は1ヶ月も持ち堪えていたのです。この事態に前後を挟撃されることを恐れた晴信は砥石城攻略を諦め陣払いを始めましたが、これを察知した義清は猛烈な追撃戦を仕掛け武田軍は大敗し、晴信もあやうく難をのがれています。

これを砥石崩れといいます。


このあと義清は上田原の戦いの後と同様に佐久へ侵入し失地挽回をはかりますが、佐久国衆の反応は悪く、はかばかしい戦果は得られませんでした。武田との地力の差はもはや埋めがたかったのです。

葛尾城と砥石城


本拠地、葛尾城は標高800m、比高400mの山城です。最高点五里ケ峰から南に延びる尾根の最初のピークを本丸として築かれています。

五里ケ峰に続く尾根には堀切を複数設けて防御とし、南側の尾根筋に郭を設けるシンプルな形状です。さらに尾根筋を南にとった次のピークには出城である姫城が設けられています。

本丸からは更科・埴科両郡はもちろん、善光寺平の西部も遠望できます。

本城に劣らず上田平を一望する砥石城も重要拠点でした。はるか北佐久地方も望むことができます。砥石城は葛尾城と同様に尾根続きに北方には枡形城、西方に米山城を出城として構えた複合城郭でした。

砥石城は千曲川沿いに北上する北国街道から、それて地蔵峠を越えると松代にいたる街道に面していました。したがって、砥石城を抜かれると葛尾城は南北から挟撃されかねなかったのです。

砥石城落城

砥石城の攻防に勝利したのもつかの間、義清にとって思いもかけないことがおこります。

天文21(1552)年5月、武田方の真田幸綱が調略によって砥石城をあっけなく落城させてしまいます。背景には真田の故地であったことや、国衆の村上ばなれがありました。

しかし、これによって葛尾城の防衛は非常に困難になりました。

その後、義清は小笠原長時を擁して、安曇郡攻略を試みるも、晴信が出陣して小笠原残党を掃討し、完全に安曇郡を制圧してしまいました。

義清の没落・長尾景虎を頼る

武田軍の勢いに、義清にしたがっていた葛尾城周囲の国衆は次々と離反していきました。

1553(天文22)年4月、一族の屋代氏まで離反するにいたって義清は本城をすて、越後を統一した長尾景虎を頼ります。しかし、義清はあきらめていませんでした。

一時的に葛尾城を奪回

その直後、残党に長尾景虎からの援兵を加えて義清は葛尾城奪還をはたし、さらに上田盆地の南端の塩田城にはいります。

塩田城は山城ではなく、1200mの独鈷山から北川に伸びる尾根と尾根の間の谷と前面の扇状地を利用してひな壇状に郭を造成した城です。

両側を急峻な尾根筋、前面には入口を塞ぐように堀が備えられています。多くの兵と物資を収容できる兵站基地としての性格が強い城です。谷の最奥部の頂点からは塩田平と千曲川をこえた上田平が一望できます。

戦国大名村上氏の終焉

義清はここを拠点にじっくりと旧領回復をするつもりだったのでしょう。しかし、周辺の国衆は味方せず、わずか3ヶ月で、塩田城を脱出し、葛尾城も奪い返されてしまいます。

結局長尾景虎の家臣となる道を選びました。ここに一時は北信濃の数郡の国衆をしたがえた戦国大名村上氏は終焉しました。

長尾家家臣となった義清・川中島の戦い

義清を家臣に加えた長尾景虎は、義清を先陣として自ら出陣して晴信と対決する道を選びます。世に言う川中島の戦いの始まりです。

この第一回目の戦いでは、長尾軍は荒砥城を落とし、義清の旧領にまで迫りますがついに奪還は叶いませんでした。

義清は景虎から、越後上杉氏の一門で断絶していた蒲原郡山浦氏の旧領を与えられました、この地については義清の子である国清が受け継ぎます。義清自身は越信の国境を守り、信濃に続く街道をまもる根知城主として配されます。

第二回目、三回目の戦いに義清は従軍しました。景虎の関東出兵にも家臣を出陣させています。この時、景虎は関東管領職

上杉の名跡を譲られ上杉政虎となのります。武田晴信もまた信濃守護に任じられ出家して信玄となりました。

第四回目はもっとも激戦が行われた戦いで、義清も部将として参陣しています。妻女山の麓に布陣したことが上杉家の家譜に記録されています。

この戦いで信玄の弟典厩信繁が討ち死にしていますが、近世の軍記物にはこれを討ち取ったのは義清であるとするものもありますが、根拠のある話ではありません。

これ以後、上杉方の史料には義清は出てこなくなります。

天正1(1573)年正月、村上義清は根知城において73歳の生涯を終えたと伝わります。信玄の死の4ヶ月前のことでした。

その後義清の子、国清は山浦をなのり、上杉景勝の部将として、景国と改名します。

そして、かつての旧領に含まれる海津城主となりますが、謀反を疑われて村上家旧臣とも切り離されて父が居城としていた根知城に移されてしまい、そこで生涯を終えました。

主家上杉氏は関ケ原の戦いののち米沢に移され、以後山浦氏は米沢藩士として続きます。

ただし、2代目藩主定勝の時にその生母の公家四辻家から山浦氏は養子を迎えたので、血脈としてはそこで途絶えることになりました。

まとめ

信濃村上氏は清和源氏の流れを組み、浮沈はありつつも名門武家として勢力を伸ばしてきました。

戦国時代にはいって自立した国衆となり、村上義清の時代にいたって複数の郡を支配下におき、多くの国衆を家臣とする戦国大名に成長しました。

義清自身は勇猛な武将で、二度にわたって武田晴信を敗北させた事蹟は輝かしいものがあります。

しかし、それほどの武将であったとしても戦国時代後期の大大名同士の抗争の中で滅びざるをえませんでした。もはや時代は勇猛さだけでは勝ち残れない時代となっていたのです。

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