藤原隆家・海賊と戦ったエリート貴族

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貴族にとって昇進する上で最も重視された家柄。藤原隆家はどのような家に生まれたのでしょうか?

藤原氏の歴史を踏まえつつ、確認してみましょう!

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目次

名門・藤原北家

大化の改新で功績をあげた中臣鎌足

中臣鎌足

鎌足の子孫は藤原氏として、律令国家において権力を握りました。

藤原氏は不比等(鎌足の子)の子供の代に北家、南家、式家、京家の四家に分かれます。

同族でありながら、それぞれの家が権力争いを繰り広げていくのです!

そのような中、平安時代前期以降、幼くして即位する天皇が増えていきます。

幼い天皇では政治は行えません。

そのため、天皇の母方の祖父、おじ(外戚)が政治を補佐するようになりました。

彼らは摂政、関白という地位を与えられました。(摂関政治)

この摂関の地位を継承した一族が藤原北家だったのです。

摂関をめぐる骨肉の争い

権力を握った藤原北家。

しかしこの藤原北家内部でも摂関の地位を巡り、権力争いが行われるようになっていきます。

最初の摂政、藤原良房から藤原道長までの摂関就任者を以下の表に示します。

氏名在任時期
藤原良房858.8.27~872.9.2冬嗣
藤原基経876.11.29~884.12.14良房(養父)長良(実父)
藤原忠平930.9.22~949.8.14基経
藤原実頼(さねより)967.6.22~970.5.18忠平(小野宮)
藤原伊尹(これまさ)970.5.20~972.10.13師輔(九条) 
藤原兼通(かねみち)974.3.26~977.10.11師輔(九条)
藤原頼忠977.10.11~986.6.23実頼(小野宮)
藤原兼家986.6.23~990.5.8師輔(九条)
藤原道隆990.5.8~995.4.3兼家(九条)
藤原道兼995.4.27~5.8兼家(九条)
藤原道長1016.1.29~1017.3.16兼家(九条)

歴史上初めて関白に就任した藤原基経の孫世代に、摂関家は師輔(もろすけ)の系統である九条流と、頼忠の系統である小野宮(おののみや)流に分裂。

しかし小野宮流は外戚の地位を獲得できなかったため、九条流が嫡流となっていきます。

そして隆家は九条流の道隆と高階貴子(たかしなのきし)の次男として天元二年(979)に誕生します。

異母兄に道頼、頼親、同母兄に伊周(これちか)、同母姉に清少納言が仕え、一条天皇中宮となった定子がいます。

この時祖父、兼家は右大臣(朝廷の№3)の地位にあり、摂関獲得の準備を進めていました。

父、道隆はこの時28歳。

兼家の将来の後継者として、順調に昇進していました。

隆家も摂関家の一流というエリート家系の一人だったのです!

中関白家(なかのかんぱくけ)の栄華

兼家は最終的に関白に就任。

以降、摂関は兼家の子孫に独占されますが、兼家死後、摂関の地位は長男、道隆に継承されます。

道隆一門は後世、中関白家と呼ばれるようになりました。

中関白家の由来は諸説あります。

道隆が父兼家と弟道長の中間に位置するという説、兼家系統において2人目の摂関就任者からという説が知られています。

ここに道隆一門の栄華が始まります!

中関白家一族の昇進

永祚二年(990)5月8日、道隆は関白に就任。

道隆はさっそく子息を昇進させていきます。

道隆子息の昇進過程は以下の通りになります。

 道頼伊周隆家
永祚二年正暦元年1月29日 20歳伊予守5月13日参議 従三位7月10日 17歳右近衛中将9月1日蔵人頭10月22日正四位下1月29日 12歳侍従7月10日右兵衛権佐
同二年9月7日 21歳権中納言1月27日 18歳参議7月27日従三位9月7日権中納言1月7日 13歳従五位上 
同三年12月7日 22歳正三位8月28日 19歳権大納言12月7日正三位8月28日 14歳左近衛少将12月7日正五位下
同四年  1月7日 15歳従四位下3月9日左近衛中将11月15日従四位上

途中から伊周が年長の道頼を追い抜いていますね。

これは、伊周が道隆の後継者として確定した事を示しています。

隆家も若年ながら、父の恩恵を受けて急速に昇進しています!

まさにこの世の春といった具合でしょう。

嫌われる中関白家

若年ながら高官に至る道隆の子息達。

しかし、その昇進をよく思わない公卿達も多くいました。

更に伊周は周りの公卿と度々トラブルを起こしていました!

貴族にとって最も重要な政務である儀式。

儀式を先例通り、滞りなく行う事が貴族にとって必要なスキルでした。

しかし伊周は、自分の考えに基づいた儀式方法を主張する事が多々あったのです!

当然周りからの反発は相次ぎました!

これらの要素が重なり、伊周の人間関係は非常に悪化してしまったのです。

このような状況下の正暦五年(994年)8月28日、道隆は政権強化を狙い、大きな除目(じもく:人事異動のこと)を行います。

弟の道兼を右大臣、子息の伊周を内大臣、道頼を権大納言、隆家を従三位に昇進させました。

隆家は16歳にして公卿の地位を手に入れたのです。

道隆が父、兼家の後ろ盾で苦労なく昇進したように、自分の子息を昇進させていったのです。

この時、伊周は三人、道頼は5人をそれぞれ跳び越えて昇進。

伊周に昇進を越された3人の中には、後に激しい権力争いを繰り広げる藤原道長も含まれます。

更に伊周、この時21歳!

21歳で大臣に就任した例はありません。

これは先例を重視する公卿社会の秩序を狂わせるものであり、中関白家はますます周囲から嫌われた事でしょう。

そして、中関白家の栄華に陰りが見え始めます。

正暦五年、「小記目録」という史料には、「正暦五年十一月十三日、博陸(道隆)所悩事」と記され、病を患っていた事が分かります。

更に翌長徳元年(995)には病が悪化。

3月に入ると、道隆は自分が病の間の政務について、一条天皇と相談を行っています。

そして一条天皇からは、

「関白(道隆)が病の間は、雑文書や宣旨(天皇からの命令書)は先に関白に見せ、次に内大臣(伊周)に見せて奏聞するように」(小右記)

との勅語がありました。

しかし、伊周は「関白が病の間、自分に政務が委ねられている事は承知している。関白に先に文書等を見せ、その次に自分が見るという仰せがあったのは如何だろう。」

と反発!

天皇へ抗議したのです!

このやりとりを知った公卿の一人は

「この事はとても奇妙な事の極みである。必ず失敗するだろう。」

と批判を口にしています。

結局、伊周の抗議が通り3月9日、伊周は内覧(天皇への文書などを先に確認する役職)への就任を果たしたのです。

4月3日、道隆は関白を辞任。

ただし、この時、藤氏長者(藤原氏の代表)の地位を弟の右大臣道兼に譲っています。

これは伊周が後継者の地位を確立していない事を示しています。

中関白家の権力基盤は道隆あっての、非常に不安定なものでした。

この事を道隆も自覚していたのか、伊周を関白にするように一条天皇に奏聞。

しかし一条天皇は不快な様子を示し、拒否されてしまったのです。

4月6日の早朝、道隆は病の悪化により出家。

ただ幸いなことに、6日の除目において17歳の隆家が権中納言に昇進。

朝廷首脳部の一枠に入る事が出来たのです。

しかし道隆の病は回復せず、10日に死去。

時に43歳。

同時に、伊周の父が病の間という内覧就任条件も消滅。

中関白家はどうなってしまうのでしょうか?

道長VS中関白家

道隆死後、次の関白が決定したのは4月27日。一条天皇は伊周ではなく道兼を関白としました。

道兼は氏長者で右大臣であり、伊周よりも上位にいました。

更に、当時の慣習では兄弟順に摂関が継承されてきました。

道兼が関白に就任したのは当然の流れだったのです。

しかし道兼は当時病を患っていました。

この事から道兼が摂関を継承する事で、兄弟順に継承する事を明確化。

そして、道兼の次に控える道長への摂関継承が計画されていたと考えられます。

5月5日、伊周は内覧を止められ、中関白家の栄華は終わりを迎えようとしていました。

そして5月8日、道兼は35歳で病死。

5月11日、道長は内覧に就任。

摂関に就任するためには、大臣を経験している必要があるため、一度内覧に就任したのでしょう。

この時点での公卿の序列を確認してみましょう。(公卿補任)

氏名位階官職年齢
1.藤原伊周正三位内大臣22
2.藤原道長従二位内覧 権大納言左近衛大将30
3.藤原道頼正三位権大納言256月11日死去
4.藤原顕光従二位中納言 左衛門督52
5.藤原公季正三位中納言 春宮大夫40
6.源伊捗(これただ)正三位中納言 右衛門督太皇太后宮大夫585月22日死去
7.源時中正三位権中納言53
8.藤原懐忠(かねただ)正三位権中納言61
9.藤原隆家従三位権中納言17

左右大臣が空席となっており、序列上では道長より伊周が上位に位置していました。

しかし、道隆から道兼に兄弟で摂関が継承された以上、道長が次代の政権担当者となる事は明白だったのです。

中関白家の不幸は続きます。

6月11日伊周の異母兄、道頼が25歳の若さで病死してしまったのです。

6月19日、道長は伊周を跳び越えて右大臣に昇進。

伊周は当然よく思ってなかったでしょう。

7月24日、伊周の怒りが爆発したのか、道長との間でトラブルが発生します!

「右大臣(道長)、内大臣(伊周)が仗座(公卿の座席)において口論になった。それは闘乱のようなもので、官人や従者達は壁の後ろに集まり、これを聞いた。人々はこの状況を嘆いた。」

と小右記(しょうゆうき)という史料に記されています。更に27日には隆家の従者が大事件を起こします!

この事件も小右記に詳細が記されています。要約すると以下のような内容です。

「七条大路にて道長の従者と、隆家の従者である玉手則武との間で合戦があった。則武は多数の弓矢を持った者を引き連れていた。則武を捕らえた際、則武は暴れだし、矢で2人を射た。そのため則武は看督長(かどのおさ)(牢獄の看守)に預けられた。」

8月2日には隆家の従者が道長の従者を殺害しています。

27日の事件の報復だと思われます。

隆家の従者には暴れ者が多かった事が分かりますね。

このような者達を従者にする隆家も相当血の気が多い性格だった事でしょう。

隆家の従者については後の大事件にも関わってきます!

因みに隆家は、2日の事件によって朝廷への出仕を止められてしまいました。

長徳の変~伊周、隆家兄弟が起こした大事件!

政権の座から転落してしまった中関白家。

ただ、道長自身も病弱であり、伊周にもチャンスは残されていました。しかし伊周、隆家兄弟はとんでもない事件を起こしてしまいます。

勘違いから起きた法皇への反逆事件

長徳二年1月16日、花山法皇に矢が放たれる大事件が発生したのです!

犯人は伊周、隆家兄弟の従者。

事件の発端は伊周の勘違いから起きた恋愛トラブルでした!

伊周はこの頃、藤原為光の三女に好意を抱き、屋敷に通っていました。

同時期、花山法皇も為光の四女のもとへ通っていたのです。

元々好色で知られた花山法皇。

出家の身でありながらやりたい放題ですね。

これを伊周は、花山法皇も為光三女が好きなのではと勘違い。

そして1月16日、伊周、隆家兄弟と花山法皇が為光邸で鉢合わせ。

お互いの従者が闘乱に及んだのです!

特に隆家の従者は大暴れ。

なんと法皇の従者2人を殺害し、首を持ち去ったのです!

更に闘乱の過程で法皇へも矢が向けられたのです。

矢が法皇の袖を貫いた、なんて話も伝わっています。

この事件をきっかけに伊周、隆家は罪人となってしまったのです。

中関白家は自滅したのです。

4月24日の除目において中関白家関係者の左遷が決定されました。

処罰された人々を以下の表に記します。(小右記)

処罰者氏名身分処罰内容備考
藤原伊周内大臣大宰権帥(だざいのごんのそち)道隆子
藤原隆家権中納言出雲権守伊周同母弟
高階(たかしな)信順(さねのぶ)右中弁(うちゅうべん)伊豆権守伊周、隆家外戚(おじ)
高階道順(みちのぶ)右兵衛佐(うひょうえのすけ)淡路権守伊周、隆家外戚(おじ)
源明理(あきまさ)右少将殿上の簡(ふだ)を削除(昇殿の身分をはく奪する事)伊周義兄弟(伊周妻の兄弟)
藤原頼親(よりちか)左中将殿上の簡を削除伊周、隆家異母兄
藤原周頼(ちかより)右少将殿上の簡を削除伊周、隆家異母弟
源方理(かたまさ)右少将殿上の簡を削除伊周義兄弟(伊周妻の兄弟)
藤原相尹(すけただ)左馬権頭(さまのごんのかみ)勘事(とがめを受ける事)藤原師輔孫遠量子
源頼定弾正大弼(だんじょうだいひつ)勘事村上天皇孫為平親王皇子

上記の表の内、藤原相尹、源頼定については中関白家との血縁関係は不明です。

源頼定は枕草子に記録があり、定子付きの女房達との縁から中関白家と繋がりがあった可能性があります。

伊周は大宰府、伊周は出雲国(島根県)への左遷が決定。

また中関白家の縁者や親しくしていた人々も処罰を受け、朝廷内の中関白家勢力は一掃されてしまいました。

中関白家の没落

配所への左遷が決定した伊周、隆家兄弟ですが、二人は抵抗します。

一条天皇の中宮であった定子の御在所へ隠れたのです。しかし、定子の御在所へも捜索の手は伸びてきました。

隆家は観念し、出雲国へ送られました。

一方で、伊周は行方をくらましたのです。

5月4日、母親の貴子と出家姿で姿を現し、大宰府へと送られたのです。

しかし2人とも病のため配所へ赴く事ができないと言い出しました。

明らかに仮病ですよね…。

しかしなんとこの言い分は受け入れられたのです!

病が治るまで、伊周は播磨国(兵庫県姫路市)、隆家は但馬国(兵庫県豊岡市)への抑留が許されました。

7月27日、事件連座者の赦免が行われました。

10月7日には隆家が入京の許しを請う文書を天皇へと奏上しました。

しかし同日、伊周がまた事件を起こします!

伊周が密かに入京。

定子の御在所に潜んでいるという噂が流れました。

この噂は真実でした。

10月11日、伊周は捕らえられ、ついに大宰府へ送られたのです。

せっかく罪が許されるという風潮があった所に、自分から罪を重くしてしまったのです。

道長政権下での隆家

長徳三年4月、大赦によって伊周、隆家は都へ召還されました。隆家は5月21日、伊周は12月に京へ帰ってきたのです。

長徳四年10月23日、隆家は兵部卿へ任官しています。

復帰の第一歩です。

この時まだ20歳だったため、まだまだ高官を狙える位置でしょう。

一方の伊周の復帰は長保三年(1001年)です。

閏12月26日、伊周は元の位階である正三位に復されました。長保四年9月24日、隆家は権中納言への復任を果たしました。

これは一条天皇と定子との間に産まれた敦康親王の後見を期待されたものと考えられます。

更にこの年隆家に長男、良頼が誕生します。

隆家にとっては最高の1年だった事でしょう。

隆家は伊周と比べて、道長や周りの公卿と仲が良かったようです。

これが早い復帰につながったのでしょう。

長保五年11月5日に隆家は正三位に昇叙。

順調に昇進していますね。

しかし、伊周には官職は与えられず、まだまだ本格的な復帰とはなっていませんでした。

寛弘元年(1004)に入っても隆家は道長主催の行事などに積極的に参加しています。

道長からも好印象を持たれていました。

この時期から本格的に伊周復権の動きが行われるようになりました。

そして寛弘二年2月25日、伊周は大臣の下、大納言の上に列するという宣旨が下されたのです。

後世、官職の1つとして定着する准大臣の初例となります。

以降、伊周も道長とはそれなりに良好な関係にあったようです。

寛弘六年1月7日、伊周は正二位に昇叙。位階の上では道長と並んだのです。しかし、平和に思えたのも束の間。

1月13日、伊周の縁者が道長の娘で一条天皇皇后であった彰子とその皇子、敦成親王を呪詛していた事が判明。

呪詛を行った人物の1人に円能という僧がいました。

円能を尋問した所、伊周に依頼されたと自供したのです。これを受け2月22日、朝参を停める宣旨を下されたのです。

伊周の政治生命は完全に絶たれてしまったのです。

しかし伊周の罪は6月19日には早くも許されており、道長側の陰謀の可能性も考えられます。

隆家に関しては、3月4日に正官の中納言に昇進しています。

全く事件の影響は無かったと思われます。

この翌年、寛弘七年1月28日、突然伊周死去の報が記録されます。

享年37歳。

公卿補任、小右記、権記など当時の史料にはただ伊周の死を記すのみで、死因や最期の様子などは全く記されていません。

記すことがないほど、あっさりした最期だったのでしょう。

それとも伊周のことは、もはや眼中になかったのでしょうか。

考えが尽きませんね。

ともかく中関白家の未来は隆家に託されたのです。そして寛弘八年6月22日、一条天皇が崩御。

東宮であった三条天皇が即位。この三条天皇、道長が外戚ではありませんでした。

それに加え政治意欲が強かったため、道長とは相性が悪かったようです。

一方、三条天皇と隆家の関係性はどうだったのでしょうか。

小右記に三条天皇に信頼されている公卿について、「左大臣(道長)、大納言道綱(道長弟)、中納言隆家、三位中将教通(道長子息)」の4人が挙げられています

道長派の公卿が並ぶ中、隆家の名前があるのは道長の対抗勢力として期待されていたのでしょうか。

このように三条天皇治世下でも政務、儀式を順調に勤めていきました。

3刀伊の入寇~海賊と戦う平安貴族

道長政権下の長和二年(1013)頃から隆家は突目(つきめ)という眼病を患います。

突目は角膜に異物が刺さり、傷口が化膿する病気です。

隆家はこの病に苦しみ、治療法を探していました。

隆家、大宰府へ

眼病の治療法について、隆家は周囲の公卿達に相談していたようです。相談した公卿の一人に小右記の作者、藤原実資(さねすけ)がいます。

実資から九州の博多に腕の良い唐人の医師がいる事を知ります。

中々よくならない病状に対して大宰府にいる医師への期待が募っていきます。

やがて大宰府への赴任を希望するようになります。

そして長和三年11月7日の除目にて希望が通り、大宰権帥に任官します。

伊周が左遷された時と同じ官職だと思われますよね。

大宰権帥には2つの側面がありました。

そのまま大宰府の長官という面です。

正官である大宰帥は当時、親王が任命される官職であり、実務には関わりませんでした。

実務面は、権帥か大宰大弐(帥の一階級下)が執り行っていたのです。

隆家は①に該当します。

高官の左遷先としての面です。

大臣クラスの官人が左遷される官職として大宰権帥が用いられました。

この場合も実務には関わりませんでした。

伊周やあの菅原道真も②に該当します。

隆家は長和四年4月、大宰府へ赴任。

隆家は大宰府ではどのような活躍をしたのでしょうか。

大鏡という史料に隆家の大宰府統治の様子が記されています。

「まつりごとよくしたまふとて、筑紫人さながらしたがひ申たりければ」

隆家の統治が素晴らしく、九州の在地勢力が心酔していた様子が記されています。

この人望が後の大事件に大きく影響してくるのです!

海賊との戦闘

任期の最終年であった寛仁三年(1019年)、日本有史以来の大事件が起こります!

刀伊(とい)の入寇(にゅうこう)と呼ばれるこの事件。

663年の白村江の戦い以来の対外勢力との戦争だったのです。刀伊は女真族(東部満州の民族)の事を指しています。

事件のあらましは以下のようになります。

3月28日、刀伊軍が約50艘で対馬、壱岐に来襲。壱岐守藤原理忠(まさただ)が殺害されました。

4月7日、刀伊軍は筑前国怡土郡(福岡県福岡市西部、糸島市の一部)、志摩郡(福岡県福岡市西部、糸島市の一部)、早良郡(福岡市南西部)を侵略。

この時、志摩の人文室忠光(ふんやのただみつ)達兵士が防戦。数十人を矢で射て、忠光は海賊の首、武器を献上しました。

またこの日、大宰府は都へ刀伊軍襲来の報せを京都に送りました。

隆家も実資に手紙を送っています。4月8日、刀伊軍は能古島を襲撃。日本も兵士を警固所に派遣し、防衛。

4月9日、刀伊軍は博多の警固所を襲撃。平為賢、為忠らが防戦し、海賊を多く射殺したそうです。

4月12日、刀伊軍は再び早良、志摩両郡に上陸。この時既に防戦の準備は万全の状態でした。

大蔵種材(たねき)、藤原到孝、平到行、為賢、為忠らが防戦に当たりました。

4月13日、刀伊軍は肥前国松浦郡(佐賀県唐津市、長崎県佐世保市一部、平戸市、松浦市)にて略奪を行いました。

源知(さとる)が兵士を率いて合戦、刀伊軍を退却させました。

4月16日、大宰府は刀伊軍の脅威が去った事を京都に報せました。

2週間の戦闘で被害は甚大なものとなりました。

殺害された者364名、捕まった者1280名、家畜(牛馬)の被害は355頭に上りました。

急な襲撃に対して、何とか対応した隆家率いる九州の豪族たち。

九州の豪族が隆家に協力的だったのは、先ほど述べた隆家の人望が厚かった事が大きいでしょう!

それに加え、この戦いに参加した平到行は隆家の従者とされています。

京都では様々な事件を起こした隆家従者達ですが、彼らが九州にいたおかげで日本は国難を乗り切る事が出来たのです!

海賊への対応~都と現地の温度差

九州では大変な事態となっている中、京都で貴族たちはどのような対処を行っていたのでしょうか?

4月17日、除目の最中に7日付きの大宰府からの報せが届きました。4月18日、公卿層は対策を協議。

要害の警固、賊徒の追討、神仏への祈祷、勲功者への恩賞などが決められました。

4月25日、16日付きの刀伊軍撤退の報せが京都に届きました。6月29日、勲功者についての評議がありました。

ここで議題にあがったのは、どのような恩賞を与えるか、ではありませんでした。

そもそも恩賞を与える必要があるか、でした。

驚くべき事です!

なぜ、このような論点がずれた事を協議しているのでしょうか?

それは、恩賞を与える決定をしたのは18日。

戦闘自体は13日には終了していたため、恩賞の対象外ではないかとの事でした。

恩賞の付与に反対する公卿がいる中、恩賞を与えるべきと主張したのは実資でした。

「若し賞進むる事無くんば、向後の事、士を進むること無かるべきか」

もし賞を与えなければ、今後は奮戦する者はいないだろう、とまっとうな意見を述べています。

この意見に他の公卿も賛成。

そして7月3日の除目にて恩賞が与えられました。大蔵種材が殺害された理忠の後任の壱岐守に就任。

また藤原蔵規(くらのり)という人物が対馬守に就任。史料上では、恩賞に預かったのはこの2名のみ。

更に恩賞の内容も壱岐、対馬という辺境国の国守でした。隆家についても恩賞が与えられた形跡はありません。

京都の公卿層にとっては、これほどの国家の一大事であっても大した問題とは認識されていなかったのだと思われます。

もし、隆家以外の貴族が大宰府に赴任していた場合、日本はどのような歴史をたどったのでしょうか。

当時は軽く見られた刀伊軍撃退の功績は、後世大きく評価される事となりました。

そして隆家は歴史に大きく名前を残す事ができたのです。

4隆家の晩年

海賊からの侵略を防いだ隆家。帰京後の隆家はどのような生活を送ったのでしょうか。

殺人事件に巻き込まれる!?

長久元年(1040)4月10日、肥後前司であった藤原定任(さだとう)が殺害される事件が発生したのです。

この事件に、藤原正高という人物が関係している事が判明。

この正高、父の則高と共に隆家に仕えていたのです。

疑いの目は隆家にも及びました。正高、則高の2名は全国へ指名手配されたのです。

結局30日に別の人物が、犯人として逮捕されました。

晩年においても隆家の従者は暴れ者が多かったのでしょうか。

興味が尽きませんね。この四年後の寛徳元年(1044年)1月1日、隆家は66歳で薨去。

貴族らしからぬ生涯に幕を閉じたのです。

隆家の子孫は?

隆家の子では良頼と経輔が公卿に昇進しました。

良頼の子孫は公家としては名前を残す事ができませんでした。

ただ、良頼のひ孫、宗兼の娘に源頼朝の助命を平清盛に嘆願した池禅尼がいます。

経輔の子孫からは書家として著名な水無瀬(みなせ)家があります。

特に将棋の駒銘、水無瀬駒は著名であり、安土桃山時代に後陽成天皇、豊臣秀次、徳川家康などに献上されました。

水無瀬家は、七条、桜井、町尻、山井などの分家を輩出。

いずれも羽林(うりん)家(近衛次将を経て大中納言に昇進する家)の家格を有したのです。

隆家の血脈は継承され、現在まで続いているのです。

まとめ

摂関家というエリート一門に生まれた藤原隆家。

彼の残した功績は当時の貴族には考えられないようなものばかりでした。

特に刀伊の入寇での活躍に関しては、日本の危機を救ったといっても過言ではありません!

時代が異なれば、武家の棟梁にもふさわしい人物であったと筆者は思います!

実家である中関白家の衰退。

このような状況下でも隆家は見事、競争の激しい貴族社会を切り抜けたのです!

その処世術も評価されるべき点であると思います。

そして隆家は中関白家の血筋を後世に伝える事に成功したのです。

【参考文献】

「国史大系 公卿補任」編:経済雑誌社

「尊卑分脈」 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1182864

「藤原伊周・隆家」著:倉本一宏 ミネルヴァ書房

「摂関家の中世」著:樋口健太郎 吉川弘文館

「小右記」 https://dl.ndl.go.jp/pid/949530/1/1

「大鏡」 http://codh.rois.ac.jp/pmjt/book/200015311/

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