戦国時代に限らず、数多い歴史上の合戦の中で天下分け目の戦いといえば、まず思い浮かぶのは、関ケ原の戦いではないでしょうか。
まさに日本全国の戦国大名を二分し、東軍・西軍に分かれて合戦が行われました。
そして、のちに天下人となる東軍・徳川家康に対峙した西軍の主導者が石田三成という戦国武将です。
今回は、石田三成はどのような武将だったのか、その生涯や功績について解説したいと思います!
豊臣政権の中心人物

みなさん、石田三成というとどのようなイメージを持っていますか?
多くの方は、関ケ原の戦いで徳川家康に敗北した武将、あるいは戦いを仕掛けた謀反人というイメージを持っているのはないでしょうか。
石田三成は、ネガティブな印象がある悲運の戦国武将という一面だけではなく、実は豊臣秀吉の忠実かつ有能な官僚として天下統一事業を支え、政権運営の中心人物でもあったのです。
石田三成の生涯
石田三成は豊臣秀吉に仕え、政治の中枢を担い五奉行として活躍したことはよく知られています。
そして、豊臣秀吉の死後は、豊臣家を守るために徳川家康と対峙していくことになりますが、戦国武将としてどのような人生を歩んだのか詳しく見ていきたいと思います。
石田三成の生い立ち
石田三成は、永禄3年(1560年)に近江国坂田郡石田村(現在の滋賀県長浜市)の土豪・石田正継の次男として生まれ、幼名は佐吉といわれています。
その生家は、その土地の庄屋格であり、身分の高い武士ではなかったようです。
主君秀吉との出会い
石田三成が15歳の頃、近江国観音寺で小僧をしている時に、当時長浜城主だった羽柴秀吉と偶然出会い、仕官することになります。
その出会いは「三献の茶」という逸話で有名です。
ある日、自分の領内で鷹狩りをしていた秀吉がのどの渇きを覚え、観音寺に立ち寄り、茶を求めたところ、少年の三成がお茶を献じたのです。
三成は秀吉の様子を見て、まずは大きな茶碗にぬるい茶をいっぱいに満たして出しました。
のどが渇いていた秀吉は一気に飲み干し、もう一杯所望しました。
次に三成は、最初よりも小さめの茶碗にやや熱く煎れた茶を出したのです。
秀吉は試しにもう一杯求めると、最後は小さな椀に熱い茶を煎れて出しました。
相手の様子を観察し、求めているものを察して対応する心配りに感銘した秀吉は、三成少年を近侍として取り立てたのでした。
有能な官僚として活躍
1582年(天正10年)6月2日に本能寺の変で織田信長が亡くなった後、主君・羽柴秀吉は天下統一への道を進んでいきました。
それとともに石田三成の役割もより重要なものへ変わっていきました。
1585年(天正13年)に、秀吉が関白に就任すると、石田三成も従五位下治部少輔となり、軍事面よりも内政面での優れた才能を発揮し、頭角を現すようになります。
さらに、堺の町奉行に任命される一方で、全国を飛びまわり太閤検地に尽力するなど豊臣政権の財政運営や政策を支えていくことになるのです。
家康との政治的対立
1598年(慶長3年)に天下人・豊臣秀吉が死去すると石田三成を取り巻く環境は大きく変化していきます。
豊臣政権では石田三成を中心とした文治派と、加藤清正や福島正則といった戦場での働きが得意な武断派という二つの派閥が対立をしていました。
その原因の1つとなったのが、朝鮮出兵でした。
諸大名は国内での戦いで疲弊しているにも関わらず、豊臣秀吉の命によって朝鮮へと攻め入ります。
石田三成も目付として朝鮮へ渡海し、戦いの様子や諸大名の働きざまなどを秀吉に報告しました。
朝鮮出兵は、現地での激しい抵抗を受け、結果的に失敗に終わりましたが、三成の報告により罪を被ることになった一部の大名から恨みを買うことになったのです。
また、秀吉死後、豊臣政権の内部対立を仲裁してきた五大老・前田利家が没したことにより、その対立は一気に緊張を増すことになります。
加藤清正、福島正則、黒田長政、細川忠興、藤堂高虎、浅野幸長、蜂須賀家政といった武断派の七将が石田三成を討伐する武力行使を企てる事件が発生します。
これにより、三成は大坂から離れ、政権の中心から遠ざけられることになったのです。
一方、三成の失脚により、徳川家康は武断派の武将たちと交流を深めつつ、諸大名と政略結婚を行うなど、着々と豊臣家に対する政治的圧力を強めていくことになります。

関ケ原の戦い

石田三成は、豊臣秀吉の死後、豊臣政権簒奪の動きを強めた徳川家康との対立を深め、1600年(慶長5年)に、毛利輝元を西軍の総大将に押し立て、ついに反家康挙兵に踏み切ることとなります。
家康の東軍とほぼ同等の兵力を擁し、緒戦では互角の戦いを展開するものの、味方の寝返りが相次ぎ、総崩れとなった西軍は大敗します。
石田三成自身は、身を隠して再起を期しましたが、近江国で捕らえられて、京都の六条河原で斬首されてしまいます。
石田三成の功績
石田三成って教科書で名前は見たことあるけど実際に何をした人なのか、よくわからないという人も多いと思います。
ここでは、石田三成が豊臣政権の中で具体的にどのような実績を積み上げてきたのかについて解説します。
豊臣政権下での政治的手腕
石田三成は、豊臣政権下における内政や外交における実務官としての役割を担います。
豊臣秀吉が天下統一後実施した太閤検地で活躍したことはもちろんですが、天下統一に至るまでの戦いの中でも、四国・長宗我部攻めや九州・島津攻めなどでは後方支援で戦いを支えました。
また、九州攻めで荒廃した博多の町の復興にも尽力し、博多の商人たちからの信頼を得るだけでなく、寺社勢力とも交流を図っており、豊臣政権の官僚として多方面に渡って実力を発揮しました。
さらには、豊臣家に臣従した上杉家や島津家などの有力大名と友好関係を築くなど、豊臣政権を盤石なものとすべく東奔西走するのです。
戦場での働きざま
石田三成は、官僚としての活躍が多く、戦場での槍働きは多くはありませんが、関ケ原の戦い以外にも、一軍の将として大きな戦いに参加したことはあります。
それは、1590年(天正18年)小田原・北条攻めで、武蔵国忍城攻めでした。
籠城している敵方を攻めあぐねた石田三成は、周囲に約28キロにも及ぶ巨大な堤を築き、利根川と荒川の流れを引き入れて、城全体を孤立させようとしました。
まさに、主君・豊臣秀吉が備中高松城攻めで実施した水攻めの戦法を再現しようとしたのです。
しかしながら、この時は豪雨のため気づき上げた堤防が決壊し、水攻めは失敗に終わってしまいました。
三成がめざした政権運営
石田三成は、自分を取り立ててくれた主君・豊臣秀吉に対して、忠誠を尽くすとともに、豊臣秀吉の死後も豊臣政権の維持・発展に尽力をしました。
五奉行の筆頭として政務を行い、豊臣政権の舵取りをしていく中で、石田三成は、まだ幼かった当主・豊臣秀頼を中心とした中央集権国家をめざしていたと考えられています。
上杉家や毛利家はもちろんのこと、最終的に対立する徳川家などの有力な大名を五大老として政権内に取り込み、豊臣秀吉による独裁的な政治ではなく、仕組みによって政権を安定させようとしました。
関ケ原の戦いは、単純な豊臣対徳川の戦いではなく、政権の成り立ちを模索した末に辿り着いた政治的内乱であったとも言えるのではないでしょうか。
石田三成の人となり

石田三成といえば、ドラマや映画などでは真面目で怜悧(れいり)な官僚というイメージで描かれることが多いのですので、同様の印象を持っている人も多いのではないでしょうか。
もちろんそのような一面もあったようですが、豊臣秀吉の側近として、政権運営を支える中、高い志をもって天下国家を良くしたいという理想をもっていた武将でもありました。
大一大万大吉の精神
石田三成は、関ケ原の戦いで使用した旗印といわれているのが、「大一大万大吉」というものでした。
この旗印は、「一人が万民のために、万民は一人のために尽くせば、天下の人々は幸福になれる」という意味です。
江戸時代に定着したイメージという説もありますが、石田三成が理想としていた考えを表していると言われています。
三成に過ぎたるもの
石田三成の家臣に島左近という武将がいました。
のちに「三成に過ぎたるものが2つあり、島の左近と佐和山の城」と謳われるほど戦に長けた名将ですが、石田三成はこの武将を召し抱える際に、自分の領地の半分を与えるという破格の待遇で迎え入れたのです。
石田三成は、自分には政治の才能はあっても軍事の才能はないと分析し、その弱点を補うために自分の利益よりも必要な人材への投資を優先したのです。
石田三成って何をした人?その生涯や功績を解説!まとめ
ここまで石田三成の生涯や功績をまとめてきました。
石田三成は、豊臣秀吉の天下統一を官僚として支えただけではなく、豊臣政権自体の安定運営をめざした忠義の厚い武将であり、自分の成すべきと決めたことに対して誠実に向き合った武将であるといえるのではないでしょうか。
【参考文献・参考サイト】
『石田三成』著:太田浩司 宮帯出版社
『関ケ原合戦と石田三成』著:矢部健太郎 吉川弘文館
『真説 戦国武将の素顔』著:本郷和人 宝島社新書
『戦国武将 敗者の子孫たち』著:髙澤等 洋泉社
『家系図で読み解く 戦国名将物語』著:竹内正治 講談社