女性天皇の歴史をわかりやすく解説!

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女性天皇という言葉を聞いたことはありますか。

皇位継承に関連して現代でも話題になる言葉です。

日本の天皇は男性で、父から息子に継承されるイメージがあります。

しかし歴史を振り返ると、古代を中心に8人の女性天皇が存在します。

なぜ歴史上女性が天皇になったのかを古代史をメインに解説していきます!

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目次

女性天皇・女系天皇って一体何?

まず女性天皇の意味を確認しておきましょう。

女性天皇は、天皇(男性)から皇位継承した女性の天皇を指します。

よく似た言葉に女系天皇があります。女系天皇は、皇位継承した天皇が女性であった場合の皇位継承者のことを指します。

仮に、女性天皇が皇族以外の男性と結婚し、息子が生まれたとします。この息子が天皇に即位したならば、その天皇は女系天皇です。

現代の皇室でのルールを確認 ―皇室典範―

現代の皇位継承問題をめぐって女性天皇や女系天皇がしばしば話題になっています。

しかし、現代の皇位継承ルール上女性天皇や女系天皇は存在できないことになっています。

戦後の皇位継承ルールについては皇室典範(昭和二十二年法律第三号)という法律に定められています。皇室に関係する内容ですが法律ですので改正することも可能です。

該当箇所を以下確認します。

【資料1】皇室典範(昭和二十二年法律第三号) 第一条 皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する。

男子、ということですので、女性天皇は存在できません。

男系とあるので、女性皇族の子孫である男性が天皇になることもできません。

したがって女系天皇も認めらません。

 歴史上存在した女性天皇について

皇室典範では認められていない女性天皇ですが、日本の歴史上次のような女性天皇が存在しました。

推古天皇、皇極天皇、斉明天皇、持統天皇、元明天皇、元正天皇、孝謙天皇、称徳天皇、明正天皇、後桜町天皇の10代です。

このうち皇極天皇と孝謙天皇は退位後再び即位し(重祚・ちょうそ)、それぞれ斉明天皇、称徳天皇となっています。そのため10代8人の女性天皇がいたと推理できます。

日本史上の女性天皇のプロフィールを【表】にまとめました。

【表】合計8人(10代)の女性天皇のプロフィール

天皇号実名在位生没年備考
推古天皇額田部皇女593(崇峻3)-628(推古36)554(欽明15)-628(推古36)敏達天皇皇后
皇極天皇宝皇女642(皇極元)-645(皇極4)594(推古2)-661(斉明7)舒明天皇皇后後に斉明天皇として重祚
斉明天皇宝皇女655(斉明元)-661(斉明7)594(推古2)-661(斉明7)皇極天皇が重祚したもの
持統天皇鸕野讃良皇女690(持統4)-697(持統11)645(大化元)-703(大宝2)天武天皇皇后
元明天皇阿閇皇女707(慶雲4)-715(和銅8)661(斉明7)-721(養老5)草壁皇子后
元正天皇氷高内親王715(霊亀元)-724(養老8)680(天武9)-748(天平20)独身
孝謙天皇阿倍内親王749(天平勝宝元)-758(天平宝字2)718(養老2)-770(神護景雲4)独身後に称徳天皇として重祚
称徳天皇阿倍内親王764(天平宝字8)-770(神護景雲4)718(養老2)-770(神護景雲4)独身孝謙天皇が重祚したもの
明正天皇興子内親王1629-16431623-1696独身
後桜町天皇智子内親王1762-17701740-1813独身

古代女性天皇の原則〜推古・皇極(斉明)・持統

【表】を眺めていると、推古天皇から持統天皇の4代3人はいずれも皇后(天皇の正妻)であることがわかります。

古代の日本で女性が天皇になるには、男性天皇が死亡するなどして天皇が不在になったとき、中継ぎとして男性天皇の正妻にあたる皇后が天皇になる慣例があったようです。

奈良時代の女性天皇について ―天武・草壁系皇統を守れー

ここでは、なぜ奈良時代に女性天皇が多かったかの理由を探ります。

生涯独身の女性天皇はなぜ立てられたのか?

元明天皇

古代の女性天皇は、皇后が次の男性天皇が成長するまでの中継ぎとして即位するのが原則でした。

女性天皇の多い奈良時代には、このルールは必ずしも適用されていません。

奈良時代の女性天皇は元明、元正、孝謙(重祚して称徳)の4代3人です。ですが、この3人はいずれも皇后を経験していません。

さらに元正、孝謙(称徳)の2人は生涯結婚することはありませんでした。江戸時代の女性天皇に引き継がれる、生涯独身の習慣はここから始まります。

古代女性天皇の原則であった、皇后経験者の即位はなぜ破られたのでしょうか。

元明天皇の場合 ―謎のルール、不改常典―

奈良時代最初の女性天皇である元明天皇の事例を見てみましょう。

【系図】をご覧ください。

元明天皇は草壁皇子の妃でした。

天武を父、その皇后の持統を母として持つ草壁は、天武の次の天皇と目されていた人物でした。

大津皇子謀反事件が有名ですが、皇位継承をめぐって草壁のライバルとなる他の皇子たちはおそらく母・持統の意向で退けられ、草壁の皇位継承は目前まで迫っていました。

ここで1つの誤算が起こります。

689年(持統3年)、草壁は即位することなく若くして亡くなります。

草壁には遺児・軽(かる)皇子がいましたがまだ幼く、天皇として即位するのは早すぎる年齢でした。

持統は、天武の嫡子である草壁の子孫の男性に皇位を継承させるために手を打ちます。

本記事ではこれを天武・草壁系皇統と呼びます。

持統から見ると草壁は彼女が産んだ唯一の息子であったため、草壁の男系子孫に皇位継承をさせたいのは自然なことかもしれませんね。

持統はまず、軽の成長を待つために自分が中継ぎとして即位をします。

690年(持統4年)のことです。

成長した軽、文武天皇に皇位を譲った後も、持統は史上初の太上天皇として政務を後見します。

持統太上天皇が亡くなった後も、成長した文武が持統の遺志をついで天武・草壁系皇統を伝えてくれるでしょう。

ここで2つ目の誤算が生じます。

707年(慶雲4年)、文武もまた若くして亡くなってしまうのです。

文武の遺児にはのちに聖武天皇として即位する首(おびと)親王がいましたが、当時7歳で即位するにはまだ早すぎる年齢でした。

ゆくゆくは首に即位させ、天武・草壁系皇統を守るための中継ぎとして、文武の母である元明が即位することになります。

元明の即位はやはり、女性天皇は皇后経験者に限るとする古代のルール破りに当たります。

夫である草壁が早世したことにより、元明が皇后になることはなかったためです。

当時の人々もすんなり受け入れられるものではなかったようです。

元明天皇即位の際の詔、すなわち公式の即位宣言を確認してみましょう。

元明は天武・草壁系皇統を守るために次のような理論武装をしています。

【資料2】元明天皇即位の詔

持統天皇は丁酉年(697年〈持統11〉)に皇位を日並所知皇太子(=草壁皇子)の嫡子の文武天皇に譲り、太上天皇として共に天下を治めた。これは天智天皇が、天地日月のある限り永遠に改まることのない恒久の規範(不改常典)として定めた法典に則って行ったことであると皆が承知して、仕えてきたのである。

(出典:渡辺晃宏『日本の歴史4 平城京と木簡の世紀』96頁 をもとに一部表現を改める)

元明は天武・草壁系皇統の正統性を訴えています。

その根拠は天智天皇が定めた法典、つまり不改常典であると述べています。

不改常典、本文がわからないため内容をめぐって様々な議論が重ねられてきました。

ただ天武・草壁系皇統を守るためには、嫡系皇位継承法を指すと考えるのが自然でしょう。

元明はまた詔の中で、自分の皇位継承は亡くなった文武の遺志であると説明しています。

本来は天武・草壁系皇統を守るために嫡系男性皇族が天皇になるべきところ、前任の天皇の文武の意向でピンチヒッターとして元明が即位することになった、というわけです。

これならどうにか辻褄が合いますね。

最後に元明在位中の事績について確認をします。

元明の最大の仕事は、710年(和銅3年)平城京への遷都が挙げられます。

古代の女性天皇は中継ぎで即位したとはいえ、重要な政策を遂行していったといえそうです。

元正天皇の場合 −聖武天皇の母代わり−

元正天皇

次は元正天皇の場合です。

元明は文武の遺児かつ天武・草壁皇統の嫡系男子である首親王の成長を待って彼に天皇位を譲るはずでした。

しかし715年(和銅8年)に元明が天皇位を譲った相手は首ではなく、元明の娘である氷高(ひだか)内親王でした。

氷高は即位して元正天皇となります。

元正天皇は即位当時36歳で独身であり、皇后ではありませんでした。

元正の即位も、女性天皇は皇后経験者という古代のルール破りと言えます。

また独身の女性天皇は元正が史上初めてです。

このように例外の多い元正はなぜ即位することになったのでしょうか。

答えは、天武・草壁系皇統の嫡系男子である首親王、のちの聖武天皇の血筋の弱さを補うためだと説明できます。

天武・草壁系皇統の嫡系男子である聖武は文武を父、藤原不比等の娘である宮子を母に持ちます。

成人後の聖武は同じく藤原不比等の娘・光明子を正妻に迎えます。

光明子は聖武の即位後、皇族以外の女性として初めての皇后になります。

母・正妻を藤原氏から迎えた聖武はつまり、母方で皇族の血を引いていない天皇と言えます。古代の天皇になるには父方はもちろん、母方で皇族の血を引いていることが極めて重要でした。

藤原氏をバックグラウンドに持つ聖武は、どうしても血筋の上で見劣りしてしまうのです。

聖武の血統の弱さを補うために白羽の矢が立ったのが、元正です。

元正と聖武は擬制的母子関係を結んでいたと考える学説があります。

2人は実際には母子ではないのですが、形式面で皇族の母を持つことで聖武の立場を補強しようと考えたわけです。

そのために元正は独身のまま皇族に残り、天武・草壁系皇統の嫡系男子である聖武を万全にサポートするための中継ぎとして即位したといえます。

元正は聖武に天皇位を譲ったのち、太上天皇として聖武の政務を長く支えます。

まさに聖武を、天武・草壁系皇統をサポートする生涯でした。

なお元正の在位中は妹婿である長屋王が政権トップでした。

長屋王政権の下三世一身の法を出すなど律令体制の積極的な運用に力を尽くしています。

元明に続き元正天皇も中継ぎでありながら重要な政策を進めていく治世を敷きました。

女性天皇の歴史をわかりやすく解説!まとめ

本記事では日本ではなぜ女性天皇が存在したか、古代をメインに解説をしました。

古代には男性天皇が急死するなどして欠けた場合、次の男性天皇が成長し即位するまでの中継ぎとして皇后が即位する慣習がありました。

7世紀後半に天武天皇の嫡子草壁皇子の系統に皇位を継承させる構想ができました。

天武・草壁皇統の男子は若死が続いたため、奈良時代には中継ぎの女性天皇が多く即位しました。

天武・草壁皇統の嫡系を守る目的があったため、奈良時代の女性天皇は皇后だけでなく、元正天皇のように血統の近い独身の皇族女性が選ばれることもありました。

江戸時代の女性天皇が2人とも生涯独身だったルーツは、女性天皇の多い奈良時代にあったというわけです。

【参考文献】

レファレンス事例「女系天皇と女性天皇の違いは何か。」(県立長野図書館、2019年12月4日事例作成)

https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000269881

e-gov 皇室典範(昭和二十二年法律第三号)

https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=322AC0000000003

吉川真司『天皇の歴史2 聖武天皇と仏都平城京』(講談社学術文庫 2018年)

藤田覚『天皇の歴史6 江戸時代の天皇』(講談社学術文庫 2018年)

渡辺晃宏『日本の歴史4 平城京と木簡の世紀』(講談社学術文庫 2009年)

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