「徳川家康の家臣と言えば?」と聞かれて皆さんは誰を思い浮かべますか?
本多忠勝や井伊直政といった、いわゆる「譜代」の家臣だと思います。
ですが「外様」ながら家康から絶大な信頼を得た家臣がいます、それが藤堂高虎です。
なぜ外様でそこまで信頼を得られたのか?高虎と家康の関係とは?
今回はそこをたっぷりと掘り下げていきましょう。
譜代と外様の違い
今回のお話をするにあたって、まずは譜代と外様の違いを説明します。
歴史に詳しい方はご存じかもしれませんが、そうでない方は意外とこの違いやそもそも言葉を知らないという方も多いです。
家臣は家臣でしょ?と思う方もいるでしょう。
ですが実際は、家臣は家臣でも大きく譜代と外様に分けられていたのです。
簡単に説明すると譜代は関ヶ原の戦い以前から徳川家康に仕えていた大名です。それに対して外様とは関ヶ原の戦い後に徳川家康に仕えた大名をさします。
読んで字のごとく譜代側から見て、外から来た大名という意味です。
関ヶ原の戦いがいかに、天下分け目と言われる戦いだったかがよく分かりますね。
外様の藤堂高虎
そして今回の話の中心となるのはその、外から来た外様の藤堂高虎です。
外様大名というのは基本的に、譜代の大名に比べて待遇がよくありません。
同じ家臣なのにと思うかもしれませんが、天下を取る事が想像もできなかった頃から家康に仕えていた家臣と、天下人が確定してから家康に仕えた家臣。
これを同じ待遇にしてしまうと昔から仕えてくれている家臣をないがしろにする事になってしまいますから、当然の待遇とも言えます。
そこで異彩を放つ存在が、外様でありながら譜代並みの待遇を得た藤堂高虎という訳です。
ここまで聞くと気になりますよね?藤堂高虎と徳川家康の関係が。
2人の間に一体何があったのか、お話しましょう。
家康と高虎の出会い
高虎と言えば仕える主を7度も替え大出世をした、世渡り上手のイメージが強いと思います。
ですがそんな高虎も最初から出世街道まっしぐらという訳ではありませんでした。
高虎が出世街道を歩み始めたのは豊臣秀吉の弟、豊臣秀長に出会ってからです。
秀長に拾われた高虎はメキメキと才能を発揮、出世の階段を一歩一歩と上っていったのです。
そんな高虎と家康の出会いは、とある一件からでした。
家康の京都屋敷を建てる
天正14年(1586年)、豊臣秀吉が関白になり、秀吉に謁見をするために家康は上洛。
その家康が過ごすための京都屋敷を建てる事を秀吉は弟の秀長に命じます。
そして秀長は家臣である高虎に家康の京都屋敷の建設を命じました。
これが2人の出会いとなります。
高虎は設計図を見て「警固に問題がある」と言って秀長への許可も取らずに、独断で設計図を変更します。
またその際の費用は自分で負担をして、高虎が変更をした設計図を元に屋敷が建てられました。
その屋敷を見た家康は高虎に「事前に見た設計図と違う所があるがなぜか?」とたずねます。
自分が寝泊りする屋敷の設計図が事前に聞かされていたものから変わっていたら驚きますし警戒もします、当然ですよね。
そして高虎は家康の問いに
「天下の武将家康様に不慮の事があれば主人秀長の不行き届き、関白様のご面目に関わると存じ、私の一存で変更いたしました。ご不興の際はご容赦なくお手討ちください」
と答えました。
家康は高虎のこの心遣いにとても感謝をし、書状も残しています。
「不快に感じたならどうぞ私を始末してください」そう言える高虎の根性と自信は誰にでもマネできるものではありません。
家康が高虎の心遣いや、忠義に関心するのも頷けますね。
2人の出会いはこうして生まれました。
豊臣から徳川へ鞍替え
しかしこの後すぐに高虎が家康に仕えた訳ではありません。
高虎はその後主人である秀長が亡くなると甥の豊臣秀保に仕えます。
ですがその秀保も早くに亡くなると高虎はなんと、高野山へと出家をしました。
この出家が自分を拾ってくれた恩人への感謝のための出家だったのか、それとも先を見据えた計算の出家だったのかは定かではありません。
しかし高虎の才能を惜しんだ秀吉は高虎を呼び戻し、結果としては加増を受ける事に。
天下人から呼び戻される程の才能、という箔がついた事は間違いないでしょう。
そんなまさに、豊臣恩顧の大名である高虎が家康に鞍替えをしたのは秀吉の死の前後あたりと言われています。
豊臣側が大きな分裂を迎えているのを見て、未来がないと思ったのかもしれませんね。
そして起きたのが天下分け目の関ヶ原の戦いです。
高虎は家康側、東軍の将として大谷吉継らと戦い、またその裏で脇坂安治らの寝返りの仲介も行っていました。
こうした活躍により家康は高虎の忠義に更なる関心を抱き、その証として高虎は加増を受け、20万国の大名となりました。
鞍替え、と一口に言うのは容易いですが、鞍替えした先で信頼を得る事はとても難しい事です。
それが豊臣恩顧の大名ともなればなおの事難しくなります。
ですが高虎は身を粉にして家康への忠義を示し、信頼を得る事ができたのです。
こうして家康から高虎への信頼は確固たるものへとなっていきました。
江戸城の改築
慶長11年(1606年)、高虎は家康から江戸城の改築を命じられます。
しかし高虎は「天下の城なので軍学者や譜代の大名に命じてほしい」と何度も断りました。
せっかくを大仕事をなぜ?と思う方もいるかもしれませんが、高虎はけっして偉ぶりたいタイプではありませんでした。
ですから「近江の片田舎から出世をしてきた外様の自分が江戸城の改築に関わると問題になりかねない」といった思いがあったのでしょう。
しかし家康は「任せるならお前しかいない」と言って、高虎に命じる姿勢を変える事はありませんでした。
これを機に家康は天下普請の城は、ほとんどと言っていいほど高虎に命じています。
家康がどれだけ高虎の才能と人柄を理解し、信頼していたかがよく分かりますね。
一大事には高虎を一番槍に
家康が病気になり、その病状が悪化した元和2年(1616年)に家康はとある遺言を遺しています。
「国家に万が一の事があれば一番槍を高虎に、井伊家を二番槍とせよ」です。
国に一大事が起きた時に一番槍を任せられる人間というのは、よっぽど信頼ができる人でないと任せられません。
なんと言っても国に一大事が起きている状況です、これはチャンスだと矛先を翻すような人では困りますよね。
そんな、絶対的な信頼を置いていないと任せられないポジションを、家康は高虎にと遺言を遺したのです。
これは家康がどれほど高虎を信頼していたかがよく分かるエピソードですね。
ちなみに幕末まで藤堂家と井伊家は転封がありませんでした。
家康の遺言を徳川家がずっと守っていた、徳川家からも信頼されていた証です。
和子姫の嫁入りに奔走
家康は天皇家と将軍家が一体になる事が必要だと考えていました。
そのため家康は息子である秀忠の5女、和子姫を天皇に嫁がせる事を願っていたのですが、大坂の陣が起こりまとまっていた縁談は延びに延びていきます。
そんな中、和子姫が嫁ぐ予定だった天皇が他の女性と関係を持ち、子供を産んでしまった事で事態は悪化。
家康の願いを叶えるため、高虎は和子姫の嫁入りに奔走。
反対派の公家と揉めに揉めた結果、無事和子姫は天皇の元へと嫁ぐ事ができました。
この際幕府側は、天皇の側近である公家を6人も処罰をするという異例の事件にもなりましたが、高虎の尽力により家康の願いは叶えられました。
家康の死の間際
家康の病状が悪化していく中、高虎は外様ながらその枕元に侍る事を許されました。
そして家康の死の十日前、家康は高虎を呼び出し「世話になった」と伝えます。
あの家康に世話になったと言われる事がどれほど凄い事なのかは、現代を生きる私達にも少し想像ができますね。
家康は続けて「だが来世ではお前に会えないのが辛い」と涙を流します。
家康は天台宗、高虎は日蓮宗であった事を踏まえての発言です。
しかし高虎は「来世でも家康様に仕えるつもりですので、私も天台宗に改宗いたします。これで来世もお仕えできます」と涙ながらに答えました。
来世でも仕える為に改宗をすると言った高虎の言葉が、死を悟った家康にとってどれほど嬉しい言葉だったのか、想像するまでもありませんね。
家康の死後と東照宮
家康の死後、高虎は家康の息子である秀忠に仕える事になります。
そして東照大権現の神号を受けた家康の遺体を駿河から改葬するため、東照宮が建てられました。
そう、あの有名な日光東照宮です。
その東照宮を建てる命を受けていたのが高虎でした。
東照宮の家康像の両脇には高虎と天海正僧の像が安置された事からも、高虎がいかに家康に信頼されていたのかがよく分かります。
藤堂高虎と徳川家康の関係とは?まとめ
いかがだったでしょうか?
高虎の忠義が晩年の家康を支えていたのが、よく分かったのではないかと思います。
余談ですが、慶応4年1月3日(1868年1月27日)に起きた鳥羽・伏見の戦いにおいて藤堂家は幕府側ではなく、新政府側へとついています。
この寝返りは決定打とまではいかずとも幕府側には痛い寝返りで、結果として新政府側の勝利となりました。
その際「藤堂家がついた方が勝つ」と噂された事もあります。
この頃には藩主は11代目となっており、初代藩主である高虎がどういった人物だったのかを知らない人もたくさんいたのでしょう。
7度も主を替えて出世をしてきた事だけを見ての揶揄も含まれていたのかもしれませんね。
【参考文献・参考サイト】
『藤堂高虎公と遺訓二百ヶ条』著:福井健二 公益財団法人伊賀文化産業協会