桶狭間の合戦で有名な今川義元は、駿河国(現在の静岡県中部)の武将・大名でした。
尾張国(現在の愛知県西部)の織田領に進行しようとした矢先に、桶狭間の合戦で織田信長の急襲に遭って42歳で命を落としました。
今川義元は圧倒的な兵力差がありながら織田信長に討ち取られたことから、無能な愚将のレッテルを貼られがちです。
さらに白塗りに麿眉、お歯黒をしていて、戦場を輿(こし)で移動していたことから、バカ殿と揶揄されることも…。
しかし、実際の今川義元は有能だったというエピソードも多々あるのです。
そこで今回、今川義元の本当はすごかったエピソードを4つに厳選してご紹介してまいります!
エピソード1・文武両道・高貴な振る舞い
今川義元は名家の生まれでした。
元をたどれば今川家の血筋は清和源氏にまで通じます。清和源氏とは第56代清和天皇の子供たちが授かった姓のことです。
今川家は、その流れを汲む足利将軍家の親族の分家にあたります。
その影響で、彼は公家を見習ってお歯黒をつけ、眉を引き、常に化粧をしていました。その他、高貴な振る舞いを心がけていたといいます。
今川義元にはこんなエピソードがあります。
功を急いだ家臣にブチギレ
ある戦で、今川義元は若い家臣に先陣の様子を見てくるように命じました。家臣が駆けつけると、先陣は戦いの最中で、味方が苦戦していました。
そこでその家臣は戦いに参加して敵の首を1つ取りました。褒めてもらえると思っていた家臣でしたが、戻って戦況を報告すると今川義元は激しく怒りました。
「わしは敵情を探ってこいと命じたはずだ。それなのに、お前は功を急ぐあまり、槍を交えて敵の首を取った。これは忠に似て不忠だ。戦場での使命を履き違えている。即刻、軍法にかける」
武功を挙げて得意になっていた家臣は今川義元の逆鱗に触れて意気消沈してしまいました。そして、思わず藤原家隆という有名な歌人の歌を呟いたのでした。
「刈萱(かるがや)や身にしむ色はなけれども見て捨てがたき露の下折れ」
それを聞いた今川義元は機嫌をなおし、「本来なら許されないことだ。しかし、一命に関わる急場に臨んで家隆の歌を思い出すとは、立派な心がけである」と言って、その家臣を許したといいます。
今川義元は由緒正しき家柄の生まれで、文武両道を実践していました。茶の湯や和歌などの教養も身につけていました。
武将としての才覚だけでなく文化的素養も兼ね備えていた今川義元だからこそ、家隆の歌を呟いた家臣を許したのでした。
エピソード2・海道一の弓取り
今川義元は海道一の弓取りと言われていました。
弓取りとは、弓矢で戦う武士から転じて国持ち大名のことを指します。つまり、今川義元は東海道で1番の戦国大名だと称えられていたのです。
紆余曲折はありながらも、今川義元は三河・遠江・駿河の三国を手に入れて東海道周辺を抑えたのでした。
海道一の弓取りという評価の通り、今川義元は順調に領地拡大を進めていきました。
今川義元が戦国大名として世に出たのは17歳のときでした。
花倉の乱

義元が今川家の当主となる直前に、後に今川家の御家騒動と言われる花倉の乱が起こります。
有力家臣の1人が、自分の家から出た側室が産んだ、義元の異母兄・玄広恵探(げんこうえたん)を当主にしようと画策し謀反を起こしたのです。
今川義元は、始めは苦戦しましたが、北条家に協力を願い、玄広恵探の自害によってこの騒動は終了しました。こうして、今川義元はようやく今川家の当主になったのでした。
今川義元が広大な領地を手にすることができたのは、取り組む課題をシンプルにする手法を取ることができていたからだと分析できます。
これから領土を広げる方向と敵対勢力、死守するべきボーダーラインが明確化できていたのです。
今川義元はまず東の北条氏康を攻略するために、上野国(こうずけのすけのくに)の上杉憲政をそそのかして挟み打ちにする作戦を画策しました。
北条氏を共通の敵として、利害関係の一致をうまく利用して上杉憲政を味方につけることに成功したのでした。
武田氏とは婚姻関係を結び、その縁を使って武田信玄を動かしました。信玄と結託することによって、河東の乱で北条氏から旧領を奪い返すことにも成功しました。
今川義元は寄親・寄子制度をいち早く導入していたことでも有名です。
この政策は家臣団に上下関係を持たせ、縦割りの集団にすることによって兵の動員数を増やすという統制システムです。
この制度を先取りして他国を凌ぐ兵力を持ったのが今川義元だったのです。
エピソード3・優れた外交手腕を発揮
今川義元が治めていた駿河国は、武田・北条・織田など、強国に囲まれていました。
今川義元は優れた外交手腕によって、他国からの侵攻を牽制しながら自国の領地拡大に成功してきました。
三河国の松平氏にすり寄り、いつの間にか松平広忠を支配下に入れて、その子である竹千代(後の徳川家康)を人質に取ったというエピソードからも、今川義元のえげつないまでの有能さが伺えます。
今川義元の外交戦略の中で最も有名なのが、武田と北条との三国同盟です。
越後国(現在の新潟県)から度々攻めてくる上杉謙信に悩まされていた武田氏と北条氏。その状況を好機とばかりに、今川義元は両氏に同盟を申し出たのです。
上杉謙信に備えたい武田と北条を味方につけて、今川義元は尾張国の織田家攻めに専念できるようにしたのでした。
これは3家が互いの子供たちを結婚させることで背後の安全を共有しようとするものでした。3者の関係は、政略結婚で結ばれた絆だったわけです。
これを、甲斐・相模・駿河の三国の頭文字を取って甲相駿(こうそうすん)三国同盟と言います。
今川義元の腹心である太原雪斎(たいげんせっさい)和尚が交渉をまとめ、1554年に締結されました。
エピソード4・桶狭間での壮絶な最期

桶狭間の合戦は織田信長が名を上げた有名な戦ですが、そのとき討ち取られたのが今川義元でした。
今川義元は戦場を貴族のように輿に乗って移動し、白塗りに麿眉、お歯黒などの化粧をしていたといいます。そのうえ油断をして、圧倒的有利な状況から逆転を許して討ち取られたとされているので、どうしようもない愚将のようなイメージを持たれがちです。
しかし、それには誤解も少なからずあるのです。
輿での移動や化粧については事実のようですが、これには今川義元なりの理由がありました。
今川義元は由緒ある家柄に生まれ、その高貴さをアピールするためにも、公家に習ってそのような身なり・振る舞いを心がけていたのです。
今川義元にとって、それは戦場であっても変わらないものでした。
桶狭間の合戦は最初、今川方の一斉攻撃で始まりました。
先陣を務めた松平元康(後の徳川家康)は、現在の名古屋市に位置する丸根砦と鷲津砦を陥落させることに成功しました。
今川義元の本隊は大高城へ向かっていましたが、途中で戦勝の報告を受けました。それを聞いた義元は約5千の兵が留まれるほどの広さがある、桶狭間近くの田楽狭間で昼食の休憩を取ったとされています。
その間、織田信長は3千ほどの兵力で近くまで忍び寄っていたのです。途中で降った大雨も、大軍の姿を隠すのに役立ちました。
織田信長の号令で、織田方の兵は一斉に今川方へ攻め込みます。今川方が大混乱に陥ったのは言うまでもありません。
今川義元は当初、300ほどの旗本に守られていましたが、織田信長の奇襲を受けて数が減り、50ほどになってしまいます。
今川義元に1番槍をつけたのは織田方の服部小平太でした。
義元はとっさに太刀で払って小平太の膝を斬りつけました。しかし、そこへ飛び出した毛利新助に組み敷かれ、首を掻き落とされてしまったと言われています。
その直前、義元は最期の抵抗とばかりに信助の人差し指を食いちぎったと伝えられており、その壮絶さがわかります。
今川義元は決して軟弱な貴族かぶれの大名ではなく、最期まで闘志を絶やさない武将の意地を持っていた人物でもあったのです。
今川義元の猛将エピソード4選・まとめ
以上が、今川義元の本当はすごいエピソード4選でした。
いかがですか、今川義元へのイメージは変わったのではないでしょうか?
今川義元は決してお高くとまった貴族かぶれの愚将ではありませんでした。今川家の格式をアピールしながら、近隣の強国を出し抜いたり利用したりしながら、強(したた)かに領地拡大に成功した人物だったのです。
その辣腕振りは、甲相駿三国同盟や松平氏を懐柔したことからもわかるのではないでしょうか。
そう考えると、不利な状況から今川義元を討ち取ってしまった織田信長の才覚には、恐ろしいものがあったと言えます。
それまで順調だったために、今川義元にも油断はあったかと思われます。しかしながら、それを差し引いても桶狭間の合戦での織田信長の勝利は劇的でした。
一方の今川義元は、後世に持たれたイメージから察するに、この戦で明暗が別れてしまったことは否めないでしょう。
しかし今回ご紹介した通り、一見バカ殿に見える今川義元の身なりや振る舞いには理由があったことですし、それまでの駿河国の繁栄が今川義元の功績であることは、間違いないありません。
また、今川義元最期のエピソードでもご紹介した通り、義元は討ち取られるそのときまで諦めずに戦い、敵兵の指を食いちぎるほどの根性を持った武将でした。
馬鹿にされがちな今川義元という武将も、深く知れば知るほどにその有能さや意外な面を発見することができました。そのような発見が、歴史を勉強することの面白いところではないでしょうか。
【参考文献・参考サイト】
『2時間でおさらいできる戦国史』石黒拡親 大和書房
『読むだけですっきりわかる戦国史』後藤武士 宝島社
『戦国武将あの人の顛末』中江克己 青春出版社
『戦国武将へ突如、躍り出た今川義元の生涯エピソードや功績』歴史イズム
『今川義元』戦国武将のハナシ』https://busho.fun/person/yoshimoto-imagawa