織田信長を語る上で欠かせない人物の1人に、美濃の蝮こと斎藤道三がいます。
斎藤道三は織田信長の舅(しゅうと)にあたる人物で、信長の妻・濃姫(帰蝶とも言います)の父親です。
斎藤道三は謀略の限りを尽くしてのしあがった、下剋上の見本のような戦国武将でした。
破天荒な容姿と言動で大うつけと呼ばれていた織田信長と斎藤道三の初対面のエピソードは有名です。その後も2人は互いに信頼し合い、強い絆で結ばれました。
今回は斎藤道三と織田信長の関係性についてご紹介していきたいと思います。
織田信長の舅・斎藤道三とは?
織田信長の舅として知られる斎藤道三は、修行僧から油売りとなり、美濃国守護・土岐頼芸(ときよりなり)に仕えた武士の1人でした。
斎藤道三は織田信長の妻・帰蝶(濃姫)の父親というだけでなく、織田家にとって心強い同盟相手でもありました。
事実、斎藤道三は織田家と同盟関係を結ぶことによって美濃の平定に成功します。
この章では、斎藤道三がどのような戦国武将で、どのような利害関係で織田家と繋がっていたのかについて見ていきます。
美濃の蝮
斎藤道三の元々の出自は長井氏でした。
斎藤道三は世の中の乱れに乗じて謀略の限りを尽くし、主君・土岐頼芸を追放して美濃国(現在の岐阜県南部)を手に入れて戦国大名になりました。
その野望むき出しの悪運無道のやり方で、斎藤道三は美濃の蝮と恐れられました。
厳密に言うと斎藤道三の国盗りは親子2代に渡って達成されたものとされています。
しかし最終的に土岐頼芸を追放したのは斎藤道三であり、主筋への反逆度でいえば、道三のほうが蝮の異名に相応しいと言えるのです。
織田家との利害関係
斎藤道三が父の長井新左衛門尉(しんざえもんのじょう)から家督を継いだ頃、道三に対抗してきたのが織田信秀でした。
織田信秀は信長の父親です。1544年9月、信秀は越前(現在の福井県北東部)の朝倉孝景(たかかげ)と手を結び、2万5千もの大軍で美濃へ侵攻しました。
これに対して斎藤道三は、巧みな戦術で数百人を討ち取り、敗走する織田・朝倉連合軍を追撃しました。
これによって、連合軍は木曾川で2千から3千人ほどの溺死者が出たといいます。
織田信秀はその後も美濃を攻め、その度に斎藤道三が追い払うというやり取りがありました。
これでは埒が明かないとなったのか、織田信長の傅役(ふやく)であった平手政秀(ひらてまさひで)の斡旋によって、斎藤道三は娘の帰蝶(濃姫)を信長に嫁がせ、織田信秀と同盟を結んだのでした。
織田家と和睦したことで、織田の後援を受けた斎藤道三は対抗していた勢力を滅ぼして、美濃国を完全に平定したのでした。
斎藤道三と織田信長の絆
斎藤道三は織田信長の舅です。
そのきっかけも、信長の父・織田信秀との争いを止めるための同盟関係のための政略結婚に近いものでした。
しかし大うつけと名高かった織田信長との初めての面会で、信長は斎藤道三の心を掴みます。
そしてその後、互いに強い信頼関係を築くことになります。
織田信長も斎藤道三に全幅の信頼を置き、今川義元との戦いでは重要な役目を道三の軍に任せたといいます。
織田信長も斎藤道三も乱世を狡猾に生きた者同士とは思えないほどの人間臭い信頼の情を見せており、そこがまた非常に興味深いとこでもありますよね
織田信長と斎藤道三の出会い
織田信秀との和睦後、斎藤道三は織田信長のもとへ娘の帰蝶(濃姫)を輿入れさせて、正徳寺で会見を行いました。
それまで奇抜な恰好や言動で大うつけと名高かった織田信長。
大うつけとは、現代の言葉に直すと大馬鹿者ということです。最初は斎藤道三も、そんな男に大事な娘を預けていいのだろうかと懐疑的でした。
しかし織田信長が鉄砲隊を引き連れて正装で現れたことに、斎藤道三は大層驚いたといいます。
屋敷を出たときはいつものチャランポランな恰好だった信長が、道中で物見の目を盗んでいつの間にか髪や着物など、身なりを整えていたのです。
斎藤道三はこのとき織田信長の有能さに気づき、自分の息子たちはいずれ信長の配下になるだろうと言ったと伝えられています。
その後、信長が大うつけと言われるようなことはなくなったといいます。そのため、それまでの恰好や言動は周囲を油断させるための演技だったのではないかと言われているのです。
2人の絆
織田信長と斎藤道三は、ある意味で親子以上の絆で結ばれていたように思われます。
織田信長は斎藤道三のことを「舅殿!」と呼んで慕っていましたし、道三は正徳寺での面会以来、信長に一目置くようになっていました。
織田と今川の争いである村木砦の戦いでは、苦境に立たされた織田信長が頼ったのが、斎藤道三でした。
織田信長からの応援要請を受けて千人の援軍を送った斎藤道三でしたが、信長は居城であった那古野城の守備を任せたのです。
同族でありながら敵対していた清洲城の織田信友が攻めて来られないようにするための対策でした。
しかしそんな重要な役割を、少し前まで敵対していた兵たちに任せたところから、舅である道三への信頼度が窺い知れます。
また、織田信長も斎藤道三も茶の湯が好きだったと言われています。茶の湯の師匠が同じだったという説もあり、共通の趣味によって2人は親交を深めたのかもしれません。
斎藤道三が息子の義竜と対立して窮地に立たされたとき、急いで救援に向かったのが織田信長でした。
結果として織田信長の援軍は間に合わなかったものの、斎藤道三も織田信長に美濃を譲るとする遺言を残すなど、並々ならぬ絆が感じられます。
斎藤道三の末路とそれからの織田信長
斎藤道三は嫡男の斎藤義竜(よしたつ)に討たれ63歳でこの世を去ります。
この義竜の実父というのが、道三が追放した土岐頼芸だと言われています。
美濃の蝮と怖れられ、下剋上の見本のような斎藤道三ですが、悲惨な末路を迎えてしまいます。
その道三を慕っていた織田信長はその後、どのような行動に出たのでしょうか?
この章では斎藤道三の死の様子と、その前後について見てまいります。
斎藤道三の最期
1554年、斎藤道三は剃髪して長良川対岸の鷺山城(岐阜県)に隠居しました。
家督を嫡男の斎藤義竜に相続していましたが、道三は義竜を廃嫡(はいちゃく)しようとしていたと言われており、この親子の仲は険悪になっていきます。
廃嫡を防ぐために先手を打った斎藤義竜は、2人の弟を殺害し、道三を相手に挙兵しました。
家臣たちは美濃を道三に奪われたという意識が強く、味方のいない斎藤道三は孤軍奮闘することになります。
1556年に長良川で相まみえたとき、斎藤義竜の軍勢1万7千余りに対して道三は2千5百、まさに多勢に無勢でした。
2日間ほど血で血を洗う激戦が続いたあと、道三が兵を引いたため一時的に休戦状態となります。
やがて戦(いくさ)が再開されましたが、道三の敗色が濃厚になってきます。わずかな兵を連れて逃げた道三を義竜側の兵が追いました。
追いつかれた道三は、長井忠左衛門(ただざえもん)に組みつかれて小真木源太(こまきげんた)に斬りつけられたと言われています。
斎藤道三はこうして、我が子と戦い家臣に討ち取られるという悲惨な末路となったのでした。
道三亡き後の織田信長
道三が討ち取られたとき、織田信長は舅の窮地を救うために出陣しましたが、途中で道三の死を知り、尾張(現在の愛知県西北部)へ引き返したといいます。
このとき、道三の死を心底悔やんだ信長は自ら殿(しんがり)を務め、鉄砲を使って無事に帰還したと伝わっています。
斎藤道三は享年63歳、斎藤義竜はこのとき30歳でした。
その後、斎藤義竜が病で亡くなると子の斎藤竜興(たつおき)が跡目を継ぎました。
織田信長は美濃を攻略するため、より美濃に近い小牧山城(愛知県小牧市)に移って斎藤氏と戦いを繰り広げました。
それが斎藤道三の弔い合戦の意味があったかは定かではありませんが、織田信長と道三の関係性を鑑みるに、その意味合いも少なからずあったと推察されます。また、美濃の平定は斎藤道三の遺志を継ぐということでもあったのではないでしょうか。
そして1567年、斎藤氏配下の美濃3人衆が織田方に寝返ったことを好機として、織田信長は人質の受け取りを待たずに稲葉山城(岐阜県岐阜市)に攻め込みます。
スピード重視の信長の戦術が功を奏し、美濃を平定することに成功したのでした。
斎藤道三と織田信長の関係性は?親子以上の絆があった!?まとめ
以上、斎藤道三と織田信長の関係性についてご紹介してまいりました。
斎藤道三は荒っぽい手段で下剋上を果たしたがために味方を減らしてしまった印象がありますが、戦国大名として優れた人物でした。
織田信長も斎藤道三との出会いを境にしてうつけと言われる行いをしなくなったと言われており、この2人は互いに実力を認め合った仲だったのかもしれません。
結果として斎藤道三は義竜との争いに敗れて討ち死にしてしまいますが、冷酷非道で名高い織田信長が救援のために挙兵したというエピソードから2人の関係性の深さを窺い知ることができるのではないでしょうか。
ともに戦国の乱世を強かに生きた者同士、ともすれば冷酷なイメージのある両者ですが、このような人間臭い絆で結ばれていたのです。
【参考文献・参考サイト】
『2時間でおさらいできる戦国史』石黒拡親 大和書房
『読むだけですっきりわかる戦国史』後藤武士 宝島社
『戦国武将あの人の顛末』中江克己 青春出版社
『織田信長と斎藤道三』3分でわかる織田信長の歴史