単に藤原氏と言えば、朝廷(京都の中央政権)の貴族を連想する人が多いでしょう。
しかし、東北地方では奥州(おうしゅう)藤原氏も有名です。
岩手県平泉町一帯を本拠地とし、かつては奥州と呼ばれた陸奥国(むつのくに)に属したため、そう呼ばれます。
源頼朝や源義経に興味がある方は、義経をかくまった一族として、ご存知かもしれません。
一般には、清衡(きよひら)・基衡(もとひら)・秀衡(ひでひら)の3代を指し、奥州藤原3代と呼ばれます。
頼朝に討たれた泰衡(やすひら)を含め、4代とされることもあります。
いまだ謎も多い一族ですが、経済的・文化的には朝廷をしのぐ力を持っていたとも言われます。
今回は、そんな奥州藤原氏の繁栄と衰亡について見ていきましょう。
ミイラを作った技術力
ミイラと言えば古代エジプトですが、日本にもあります。
奥州藤原氏の歴代当主の遺体も、ミイラとして残っています。
たまたまミイラ状態になったのか、それとも人工的に処理された結果なのかは、実ははっきりしていません。
しかし、遺体を良好な状態に保つ何らかの方法が知られていたことは、確かでしょう。
そんな高度な文化を育てた奥州藤原氏とは、何者なのでしょうか。
奥州藤原氏のルーツ
奥州藤原氏は、朝廷の藤原氏とは関係がないと言われた時代もありました。
そのため、東北人の対抗心のシンボルのように扱う風潮もありました。
しかし、近年では、それほど近くはないが、全く無関係でもないと言われています。
つまり、東北地方の土着の一族ではなく、朝廷から何らかの役割を期待されて移り住んだ一族ではないかということです。
このように諸説ありますが、朝廷から距離を置き、独立国家に近い統治を実現した、実力派の一族であったことは確かです。
先進地域だった東北地方
東北地方を下に見るイメージは、西日本から見た一方的なものです。
あらためて地図を眺めると、東北地方の上には北海道があり、その上には樺太(サハリン)があり、その隣はすぐ大陸です。
実際、平泉も、複数のルートで大陸とつながっていました。
そうした大陸との交流の中で、ミイラの技術を含む先進的な知識がもたらされた可能性も高いのです。
遣唐使が廃止されて以降、京都を中心とした西日本が閉鎖的になったのに比べれば、奥州藤原氏の時代の東北地方は、先進地域だったとすら言えます。
蝦夷(えみし)と呼ばれた独立国家
東北地方の後進的なイメージは、東北人に対する蝦夷という呼び方に現れています。
要するに野蛮人ということで、西日本の人たちから見て、東北地方は未知の土地でした。
当時、現在の高知県である土佐国(とさのくに)でさえ、京都の人たちから見れば最果ての地だったようなので、無理もないでしょう。
もっとも、そのように恐れられることで、奥州藤原氏は朝廷の干渉をほぼ受けずに済みました。
奥州藤原氏を滅ぼしたのは、あくまで関東地方を拠点とした源氏だったのです。
奥州藤原氏と黄金
地理的条件に守られた奥州藤原氏ですが、繫栄するにはもっと多くの条件が必要です。
奥州藤原氏が3代にわたって独立を保てたのは、財政力によるものです。
奥州藤原氏・繁栄の源
ベネチアの商人マルコ・ポーロが、当時の日本を「黄金の国ジパング」と呼んだのは、あまりに有名な話です。
日本を「黄金の国」とするイメージに大きく影響したのが、今も平泉に残る中尊寺金色堂(こんじきどう)ではないかと言われています。
奥州藤原氏の時代から東北地方にあった金山について、詳細はあまりわかっていません。
ただ、豊かな財源で金を買っていたと考えても、辻褄は合います。
そうした豊かな財源をもたらしたのが、全国的に珍重された奥州駒(ごま)と呼ばれる名馬です。
ですから、黄金そのものと言うより、黄金を買えるだけの財源と言い換えた方が無難かもしれません。
金売り吉治(きちじ)とは?
金売り吉治は、義経を平泉に案内し、当主の秀衡に引き合わせた商人として知られています。
金や鉄、大陸との交易で得た貴重品も扱い、京都との通商を担っていました。
いつの時代にもいるいち商人に映りますが、単なる商人であれば、義経をかくまったり、歴史に名を残したりはしなかったはずです。
金売り吉治は、今で言うスパイだったのだろうと言われています。
黄金とともに奥州藤原氏の繁栄に貢献したものこそ、彼がもたらした情報だったということです。
奥州藤原3代の生存戦略
黄金と情報こそ、奥州藤原氏の100年にわたる繁栄を支えた源でした。
では、それらをどのように使いこなしたのでしょうか?
奥州藤原氏の生存戦略を見ると、金融センターとして発展している現在の小国を思い起こさせます。
朝廷への献金
平泉を中心として、奥州藤原氏が統治した土地は、確かに独立国家と呼ぶにふさわしい状況でした。
しかし、奥州藤原氏は、朝廷への贈り物も怠りませんでした。
特に、3代目の秀衡は熱心で、鎮守府将軍や陸奥守といった、比較的上位の朝廷の官職に就いています。
武力だけで国を治めようとする姿勢は、人命や費用の損失といった点で、決して誉められるものではありません。
できれば自ら従ってくれるのが望ましく、そこで威力を発揮するのが肩書です。
秀衡は、そうした権力の効果的な使い方を熟知していたのでしょう。
通商による相互依存関係の構築
自分たちを脅かす存在に対処しようとする場合、2つの方法があります。
1つは、軍備を増強し、いざという時は武力を行使するという体制を構築することです。
もう1つは、普段から仲良く付き合い、いざ争えば失うものの方が多いと相手に認識させることです。
奥州藤原氏の場合、どちらの戦略も並行して採用しましたが、後者の戦略も非常に重視した点で、現在の経済的安全保障にもつながる先見の明があったと言えます。
事実、頼朝も、秀衡が健在のうちは絶対に攻め込もうとしませんでした。
平泉の都市計画
いつの時代もそうですが、特に首都の街並みが美しいと、それだけで国家のイメージを向上させます。
また、壮麗な建造物は、見る者を圧倒し、統治者の権威づけに役立ちます。
そのような効果を知っていたのかはわかりませんが、奥州藤原氏の時代の平泉は、京都に次ぐ日本第2の都市として繁栄しました。
歴代の3当主も、それぞれに仏教寺院を建立し、整然とした街並みを整えました。
平泉の仏教寺院の荘厳さは、攻め入った源氏の武将たちも感嘆させ、その建築様式が日本各地に伝わったと言われています。
仏教思想に基づく計画的な街づくりは、21世紀の世界遺産登録に際しても、大きなメリットとなりました。
傭兵(ようへい)
ここまで、財政・通商・文化という3要因から、奥州藤原氏の繁栄を説明しました。
これだけを聞くと、奥州藤原氏は平和国家を体現したように見えてしまいますが、もちろん兵力も備えていました。
先ほど述べた通り、東北地方は名馬の産地です。
もちろん、販売するだけでなく、奥州駒は奥州藤原氏の騎馬軍団整備にも役立ち、当時は奥州17万騎と言われました。
17万騎というのは、かなり誇張した数字だとも言われますが、少なくとも秀衡の時代には、あの頼朝も恐れた兵力を誇ったことは確かです。
奥州藤原氏の限界
各種の時代劇でも優秀な君主として描かれる秀衡が没し、4代・泰衡の代になると、奥州藤原氏は急速に衰え、わずか2年ほどで頼朝に滅ぼされます。
秀衡に比べ、泰衡は凡庸な当主だったからだと言われがちですが、必ずしもそうは言いきれません。
奥州藤原氏の統治体制(政治制度)が、実は潜在的に欠陥を抱えていたとも言えるのです。
安全保障戦略の欠如
騎馬軍団については先に述べましたが、当時の兵員は、普段は農業で生計を立て、有事の際に兵力となる、いわゆる武装農民の延長だったと言われます。
それに対して源氏軍は、頼朝のもとで結束を強めたプロフェッショナルでした。
それにもかかわらず、秀衡が没するまで頼朝が侵攻を思いとどまったのは、何と言っても秀衡自身を恐れたからです。
武装農民が団結できたのも、秀衡の個人的カリスマ性によるものです。
このように、リーダーの資質のみに頼る統治体制は、現代世界でもそうですが、リーダーを失うと急速に弱体化します。
秀衡は、自分の死に備えて遺言を残しましたが、その遺言がかえって混乱を助長したとも言われます。
当主が変わっても引き継がれる安全保障戦略がなかったことこそ、奥州藤原氏を急速に弱体化させた最大の要因でしょう。
金融国家としての限界
奥州藤原氏の財政力の大きさが、その繁栄を支えたのは間違いありません。
しかし、財政力の大きさだけが国家を支えるわけではありません。
国家の繁栄・持続にとって重要なのは、食糧や資源等を自給自足し、その体制が有事の際にも機能することです。
近年の自然災害でも痛感しますが、金銭が何の役にも立たない非常事態もあります。
奥州藤原氏が統治した領域は、当時から豊かな土地でしたが、通商に頼りすぎた面も否定できません。
奥州藤原氏は、なぜ栄えた?まとめ
冒頭で述べた通り、研究が進むにつれて、奥州藤原氏を朝廷(中央政権)への抵抗のシンボルのように扱う論調は下火になりました。
それだけでなく、様々な欠点も浮き彫りになってきたことは、すでに述べた通りです。
平泉の見事な建造物や庭園を眺めていると、どことなく夢心地になり、質実剛健の源氏を前にして、奥州藤原氏が滅びざるを得なかった理由も、何となくわかる気がします。
平氏や奥州藤原氏が歴史の表舞台から消え、源氏による武家政権が始まったのは、時代の不可避な流れだったのかもしれません。
【参考文献・参考サイト】
歴史編集部(編)『奥州藤原四代 消滅した東北独立王国の実像』世界文化社、1993年
高橋崇『奥州藤原氏 平泉の栄華百年』中公新書、2002年
斉藤利男『平泉 北方王国の夢』講談社選書メチエ、2014年