細川政元はその奇行から、今川氏真と大内義隆とともに戦国3大愚人の1人に数えられています。
細川政元を簡単に言い表すとするならば、魔法使いです。
細川政元は修験道にハマり、奇怪な言動で周囲を困らせただけでなく、跡継ぎを残すことをせず男色に走ったとされています。
修験道と言っても、細川政元が傾倒したのは現代で言うところのカルト教団でした。
とはいえ、細川政元は歴史的にも名のある人物です。ただの魔法使いというわけではありません。
そこで今回は、細川政元が何をして、何をしなかったのか、戦国屈指の愚人の全貌を徹底解説いたします!
細川政元が戦国のきっかけを作った!?
日本が戦国時代という戦乱の時代に突入していったのは、室町幕府の権威が失墜して機能しなくなったからです。
その原因の1つを作ったのが明応の政変であり、細川政元がそのきっかけでした。
この章では、戦国時代のきっかけを作ったとされる細川政元ならびに細川家をご紹介し、明応の政変についても解説してまいります。
細川政元の生い立ち
細川政元は1466年、細川勝元の子として生を受けました。母は山名宗全(やまなそうぜん)の娘です。
細川政元は幼名を聡明丸(そうめいまる)といい、その名に違わぬ聡明な子だったそうです。
父・勝元は「この子がいれば細川家は安泰である」と言い残してこの世を去ったとまで言われています。
細川政元は応仁の乱の最中に父・勝元を亡くし、わずか8歳で家督を継ぎました。
とはいえあまりに若すぎましたので、管領に初めて任じられたのは21歳のときでした。
父・勝元
細川勝元は応仁の乱で東軍の総大将だった管領でした。山名宗全はそのとき西軍の総大将でした。
細川政元からすると、父と、母方の祖父が争ったことになります。
細川勝元は政治手腕に長けるとともに、文化人としての側面も持っていました。
知識人で、貿易港である堺(大阪)の港を領地に持っていたことから中国文化にも詳しく、禅宗にも深く帰依していました。
細川勝元と山名宗全の争いは、どちらが勝利するとも判然としない中、1473年3月に山名宗全が病死してしまいます。
同年5月、後を追うように細川勝元も病死したのでした。
細川勝元が死亡したのが、細川政元が8歳のときでしたので、実質的な執政はもっと大人になってからだったものの、かなり若くして跡目を継いだことになります。
明応の政変
1493年、細川政元はクーデターを起こしました。これを明応の政変と呼びます。
この政変を戦国時代の幕開けとする説は多く、そのため細川政元は戦国の世を作った人物と言われているのです。
細川政元は10代将軍・足利義材(あしかがよしき)を追放し、11代将軍として足利義澄(あしかがよしずみ)を擁立しました。
足利義澄は傀儡(かいらい)とも呼べるお飾りの将軍で、実権は細川政元が握りました。
細川政元が明応の政変で築いた権力者の立場は、後に織田信長などの戦国武将に引き継がれていくことになります。
細川政元は魔法使いだった!?
細川政元の最もユニークなところは、天狗や魔法使いに憧れて修験道に傾倒したという点でしょう。
修験道と言うと、何となく修行したのかなとイメージされる方が多いと思いますが、それは現代で言うところのカルト教団でした。
細川政元は少し特殊な趣味を持った変わった人、というレベルの人物ではなかったようです。
相当にヤバい人でした。権力を持っているだけに、余計に始末が悪いのです。
そしてその弊害は政治的にも現れます。
この章では、細川政元の奇行をご紹介するとともに、そのために出現した悪影響について見ていきたいと思います。
奇行の数々
絶大な権力を握った細川政元でしたが、修験道にのめり込んでいきました。
そのために奇行が目立ち、神出鬼没で人を驚かせるようになったといいます。
例えば空中に飛び上がったり、空中に立ったりする魔法に興じたと伝えられています。
細川政元は、修験者の呪法修行のため、女人禁制と称して、女性を近づけず、変わりに男色を好んだというのです。
そのため細川勝元には実子がおらず、家臣たちからも家督後継者を定めてほしいとの声が高まったのでした。
修験道の弊害
細川政元が政治そっちのけで修験道の修行にのめり込むことで、当然弊害が出現しました。
細川政元は修験道のために山にこもって悟りを開く修行をしたり、天狗になりたくて空を飛ぶ訓練をしたり、魔法の練習をしたりしていました。
特に空飛ぶ魔法にご執心だった細川政元。
細川両家記には「常に魔法を行ひて」と書かれています。これを飯綱(いづな)の法といいます。
一説によると越後の修験道のルートを利用して越後守護の上杉氏のもとへ向かい後援を得る目的だったという見方もあります。
それを差し引いても、細川政元が修験道の修行のために旅に出てしまう度に、幕政は混乱したといいます。そのため家臣を含めて周囲の人間の反感を買った部分は大きいでしょう。
職務放棄の細川政元に、将軍の義澄が帰ってくるよう直々に説得しに行ったというのですから、その混乱ぶりは伝わってきます。
加えて、男色家だった細川政元は修験者の呪法修行のため、女人禁制と称して女性を一切近づけなかったといいます。
そのため実子がおらず、世継ぎを作るという武家の当主としての務めを放棄していました。
家督後継者の決定を迫られた細川政元は3人の養子を迎えるのですが、それが家督争いの引き金となってしまうとともに、自身の命も縮めてしまうことになってしまうのでした。
魔法使い・細川政元の末路
修験道にハマって周囲に迷惑をかけていた細川政元でしたが、最終的には風呂場で暗殺されるという末路を辿ります。
細川政元は確かに迷惑な魔法使いでしたが、なぜ殺されなければならなかったのでしょうか?
この章では細川政元暗殺の背景と、その死にまつわる詳細について解説してまいります。
3人の養子
細川政元は生涯不犯の上に男色家であったため、血縁関係のある後継者がいませんでした。
そこで細川政元はやむなく、前関白・九条政基(くじょうまさもと)の子である澄之(すみゆき)を養子にしました。
ところが周囲からは、公家の子ではなく細川家の一族から養子を、という声が出たので、阿波細川家の澄元(すみもと)、和泉細川家の高国(たかくに)を養子に迎えたのです。
こうして細川政元は3人の養子を迎えることになりましたが、揉めないわけがありません!
細川政元は内部対立を抑えるために細川政元式条を定めたものの効力はなく、複数の養子を迎えたのが原因で跡継ぎ争いが生じ、対立は深まっていきました。
細川政元の最期
細川政元の異常な振る舞いに業を煮やしたのは、摂津(せっつ)守護代の薬師寺元一(やくしじもとかず)でした。
細川政元を排除し、澄元に家督を継がせようと反乱を起こしたのです。
薬師寺元一の反乱は鎮圧されて元一は切腹しましたか、こうした内紛はその後も続きます。
嫌われ者の細川政元は、京都を追われた足利義材からも狙われていました。
足利義材は越中(現在の富山県)に逃れたとき、そこで畠山尚順(ひさのぶ)畠山義英(よしひで)らを結集し、1506年には北陸から畿内の各地で細川政元に対する総攻撃が始まりました。
細川政元も一向一揆の力を借りて反撃するという展開が続きました。しかし、あらゆるところから細川政元包囲網は敷かれていたのです…。
1507年、細川政元は最初の養子である澄之が放った刺客によって暗殺されました。
風呂場で行水中に、警固にあたっていた竹田孫七らの凶刃に倒れたといいます。当然ながら細川政元は丸腰の無防備で、抵抗するまもなく殺されてしまったということです。
享年42歳でした。
細川政元暗殺の黒幕は、澄之を支持する香西元長(こうざいもとなが)兄弟でした。
細川政元は修験道にふけって幕政を怠り、家督相続についても態度をはっきりしませんでした。
結局、政元は後継者を澄之に決めていたのを澄元に変えてしまい、これを恨んだ澄之派に殺害されたと言われています。
細川政元は魔法使い!?戦国屈指の愚人の全貌を徹底解説!まとめ
以上が、魔法使い・細川政元の紹介でした。
細川政元は半将軍と呼ばれるほどの権力者でしたが、日々の奇行と跡目問題により命を落としました。
細川政元は日本3大愚人の1人に数えられるほどの奇人変人だったことでも有名で、その奇行は後世にも語り継がれています。
愛すべき変な人だったなら良かったのですが、細川政元の場合、あらゆる方面から恨みを買っていました。
細川政元が起こした明応の政変は戦国時代のきっかけを作ったとまで言われる歴史的なクーデターでした。そんな大きなことをやってのけた人物が、政治そっちのけで修験道にハマってしまうというのは実に興味深いことです。
細川政元を見ると、一時(いっとき)権力を握る者は長い歴史の中で何人も現れますが、それを継続して、次の世代やそのまた次の世代に引き継いでいくことの難しさがわかります。
これは会社などの組織に置き換えれば現代にも言えることで、その意味では、細川政元は良い反面教師になるのではないでしょうか。
【参考文献・参考サイト】
『2時間でおさらいできる戦国史』石黒拡親 大和書房
『読むだけですっきりわかる戦国史』後藤武士 宝島社
『戦国武将あの人の顛末』中江克己 青春出版社
『戦国時代の「チェリまほ」?空を飛びたかった細川政元が歴史を変えた』ニュースクランチ
『日本を戦国時代に導いたのは、魔法にハマった男色家?戦国三大愚人、細川政元という男』和樂web