2023年の大河ドラマの主人公・徳川家康。
豊臣秀吉の死後、天下統一を果たし、江戸幕府を開いた人ということは、良く知られていますが、具体的に何をしてきた人なのかイメージがない方もいると思います。
今回は、徳川家康はどのような人物だったのか、その生涯や功績について解説したいと思います。
江戸時代の基礎を創った人物

徳川家康を開祖とする江戸幕府は、明治維新までの約260年も続く長期政権となり、その期間は江戸時代といわれています。
これは日本の歴史上見ても、非常に稀なことで、政治的に安定した平和な時代として、評価されています。
また、徳川家康は、栃木県にある日光東照宮に「東照大権現」として祀られ、神格化されるほど偉大な人物です。
しかしながら、徳川家康が幕府を開くまでの道のりは、決して平坦な道ではなく、幾多の困難を乗り越えた先にようやく辿り着いたものなのです。
徳川家康の生涯
徳川家康の人物を表すものとして、「鳴かぬなら 鳴くまで待とう ほととぎす」という言葉があるように、様々な出来事を経験して、天下を掴むことになります。
徳川家康が生きた戦国時代は、織田信長や武田信玄といった戦国大名が全国に群雄割拠していました。
そのような中、徳川家康が戦国大名としてどのような生涯を歩んだのか詳しく見ていきたいと思います。
徳川家康の生い立ち
徳川家康は、1542年(天文11年)12月、三河国岡崎に松平広忠の嫡男として生まれました。
幼名は竹千代といい、元服して松平元信、その後松平元康と称し、やがて徳川家康と改名していくことになります。
松平家は、三河国の土豪でしたが、家康の祖父・松平清康が二十歳の若さで三河一国を平定しました。
しかしながら、清康が尾張国守山に在陣中、誤解から家臣に殺されてしまい、清康の嫡男広忠(家康の父)は、わずか10歳で松平家の跡を継ぐことになります。
このことが、徳川家康の苦難の道の始まりとなったのでした。
駿河での人質時代
徳川家康の父・松平広忠が跡を継いだ松平家は、たちまちにして分裂し、実権は親族に奪われ、広忠は流浪の身となります。
その後、駿河国の戦国大名・今川義元の支援を受けて、三河を取り戻しますが、嫡男であった徳川家康は、親元を離れ、人質として今川家に差し出されることになります。
しかも、父・広忠も二十四歳の若さで、家臣に斬り殺されるという事件が起き、三河国は今川家が管理し、支配下に組み込まれることになってしまいます。
徳川家康は、人質という緊迫した状態の中で、6歳から19歳まで駿河国で不遇の時代を過ごすこととなったのです。
三河国への帰還と独立
1560年(永禄3年)、今川義元が織田信長に討たれたことで、徳川家康は、今川家から解放され、三河国に戻ることになりました。
翌年、今川義元を倒した織田信長と同盟を締結し、今川家との臣従関係を解消し、三河国の戦国大名として独立を図っていくことになります。
ところが、1563年(永禄6年)、領内で一向一揆が勃発すると、多くの家臣が一揆側に加担し、家康と敵対することとなります。
ようやく今川家から独立するも、いきなり難しい舵取りを迫られます。
そして、およそ半年間に及ぶ一向一揆との戦いの中で、家康自身も負傷するなど、危機に瀕するも、懐柔策により沈静化させ、なんとか鎮圧することに成功しました。
三方ヶ原の戦い
1572年(元亀3年)、甲斐国の戦国大名武田信玄が織田信長を滅ぼすべく、3万という大軍を率いて、上洛を敢行してきます。
そして、徳川家康の領国である三河国へ侵入し、精強を誇る武田軍と三方ヶ原で激突することになります。
当初、武田軍は家康の居城・岡崎城を通過して、上洛を急ぐ素振りを見せますが、兵卒の士気低下や信頼失墜を恐れた徳川家康は、軍勢8000という寡兵で大軍に挑みました。
家臣達は、籠城を主張しますが、それを振り切って出陣しますが、衆寡敵せず、武田信玄に大敗を喫してしまうことになります。

徳川家康三方ヶ原戦役画像は、家康が三方ヶ原での敗戦直後に自戒のため描かせたとする伝承があります。しかし、合戦当時の作品ではなく後世に想像に基づいて描かれた図との見方が有力です。史料的根拠は存在しませんが、教訓性が多くの日本人から共感・支持された結果、同伝承が広く定着するに至ったと言われています。
ただ、武田信玄が間もなく病気で没したことで、危機を免れることとなりますが、一方で織田信長からの信頼を厚くすることとなり、織田軍の一部のように様々な戦いに参戦していくことになります。
天正壬午の乱
1582年(天正10年)、織田信長が本能寺の変で明智光秀に殺された際、徳川家康は堺に滞在していました。
明智方の追手から逃れるために、家康は命からがら、伊賀国を抜け、領国である三河国へ急ぎ戻ります。
そして、律義者の家康らしく、信長の敵討ちのために出陣をしますが、羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)に先を越されたことを知り、途中で引き返しています。
しかし、この機に乗じて、信濃国や甲斐国など武田家の遺領へ進出を図り、領土を大幅に拡大するというしたたかさを見せています。
小牧・長久手の戦い
1584年(天正14年)、豊臣秀吉が勢力を強大化していくにつれ、織田信長次男である織田信雄が徳川家康に救援を求めてきました。
その結果、徳川家康は、織田家内の争いへ介入することで豊臣秀吉と対峙していくこととなり、ついには豊臣秀吉と小牧・長久手で激突することとなります。
戦いは、豊臣方10万に対し、徳川方2万という戦力差がありましたが、豊臣方の武将が功を焦って、無茶な奇襲を仕掛けてきたのを、徳川方が見事に退け勝利することとなります。
天下取りへの道のり
小牧・長久手の戦い以降、豊臣秀吉は着々と覇権を確立していきますが、徳川家康はしばらく秀吉とは均衡状態を保ちし、服従しませんでした。
その後、最終的には豊臣秀吉に臣下の礼を取り、12年間、豊臣家に忠勤を尽くすことになりますが、政権内部で特別な地位を与えられ、最大の外様大名として君臨することとなります。
このことは政権掌握の伏線となり、秀吉の死後、豊臣政権内部の対立が激化する中、1600年(慶長5年)の関ケ原の戦いで石田三成が率いる西軍に勝利し、天下を取ることになったのです。
徳川家康の功績
徳川家康は、豊臣政権の権力闘争を制し、天下取りを成し遂げます。
そして、江戸に幕府を開き、政権運営の基礎固めをしていくこととなるのですが、どのようなことを行っていったのか、徳川家康の功績について、見ていきたいと思います。
徳川幕府の開祖
1603年(慶長8年)、徳川家康は、朝廷から征夷大将軍に任じられ、実質的に武家の棟梁として覇権を確立することとなったのです。
これが徳川幕府の始まりといわれています。
しかしながら、いまだ豊臣家は健在であったため、複雑な政情がつづいており、徳川幕府としても盤石とはいえない状態でありました。
その後、徳川家康は、1615年(慶長20年)の大坂夏の陣で豊臣家を滅ぼすことで、徳川幕府に対抗する勢力を排除し、安定的かつ長期的な政権運営の基盤を確立することとなったのです。
江戸の開発
徳川家康は、元々三河国や遠江国といった東海地方を中心に領土を持っていましたが、豊臣秀吉に臣従した後に、その実力を恐れられ、関東地方に転封を命ぜられます。
その際に、江戸を本拠地として定め、開発をしていくことにしたのですが、当時は、江戸の周辺は海に面しており、ほとんど開発されておらず、城自体も小さな城に過ぎませんでした。
そこで、徳川家康は河川整備や埋め立て工事を行い、江戸城を中心とした都市計画を一からつくり、街を作りあげていきます。
さらに、江戸幕府を開いて以降は、全国の諸大名を総動員し、大規模な普請を実行することで、現在の東京の原型となる大都市・江戸を完成させたのでした。
江戸には、武士だけでなく商人や職人など全国から様々な人が集まり、全盛期で100万人もの人々が住んでいました。
これは、当時世界的に見ても、これほどの規模の都市は数少なかったといわれており、その繁栄度が伺えます。
幕藩体制の基礎固め
徳川家康は、豊臣家を滅亡させ天下統一を成し遂げた後、政権としての統治ルールを定めていきます。
1615年(元和元年)各地の大名に対して、「武家諸法度」という法令を定めます。
当時の将軍は息子の秀忠が継いでいましたが、実質的には、まだ健在であった家康の命令の元、秀忠が発布した形となりました。
この法令は、文武奨励や倹約などの武士としての規範を示すだけでなく、大名同士の婚姻や城の補修・改築について届出を必要とするルールを定めたものです。
これによって、大名統制が強化され、今後続いていく幕藩体制の基礎ができあがったともいえるのです。
徳川家康の人となり
徳川家康は、「狸おやじ」と揶揄されることもあったように老獪なイメージを持たれている方も多いと思います。
その一方で、周囲からは「律儀者」とも呼ばれていました。義理堅く、まじめで融通の利かない実直な人でした。
これは、徳川家康の幼少期に今川家で人質としての経験において、主家に対して、正直に忠義を尽くすことで身の安全を図っていく中で身につけていったともいわれています。
そのような、徳川家康の人となりがわかるようなエピソードについてご紹介したいと思います。
信康自刃事件
1579年(天正7年)、徳川家康は、織田信長の命令により、武田家との内通を疑われた嫡男・信康を自害させ、正室築山殿を殺害することになります。
自ら家族を殺めてしまうことになるとは、家康としても非常に無念であったと思いますが、圧倒的な権勢を誇っていた織田信長の疑念を払しょくし、徳川家の存続のために苦渋の決断をすることになったのです。
忍耐と我慢の人
徳川家康は幼少期に人質生活を送り、独立後も織田信長に一家臣のようにこき使われ、諸国を転戦するなど、若い頃から苦労を重ねてきました。
また、豊臣秀吉に臣従した後も、関東転封という仕打ちを受けながらも、豊臣政権に対して、実直に忠勤を果たし、その中枢を担ったのです。
このように様々な場面に直面しながらも、耐え忍んできたことにより、「律儀で温厚な人物」としての評価が定着することとなります。
そして、徳川家康が天下取りに臨むにあたって、諸大名から人望を集め、統一政権を樹立することへと繋がったのではないでしょうか。
徳川家康って何をした人?その生涯や功績を解説!まとめ
ここまで徳川家康の生涯や功績をまとめてきました。
徳川家康は、織田信長や豊臣秀吉と並んで戦国時代の三英傑と並び称されますが、「織田がつき 羽柴がこねし天下餅 すわりしままに食うは徳川」という歌があるように、労せずして天下人になった印象もあるかもしれません。
しかしながら、今回解説してきたエピソードにもあるように、たくさんの苦労を重ね、どんなことがあっても耐え忍び、あきらめなかったということが徳川家康の偉大な部分であり、後世においても英雄として、尊敬されてきた所以なのではないでしょうか。
【参考文献・参考サイト】
『徳川家康』著:藤井讓治 吉川弘文館
『家系図で読み解く 戦国名将物語』著:竹内正治 講談社
『歴史がわかる 100人日本史』著:河合敦 光文社