戦国時代には様々な武将が登場しましたが、蒲生氏郷(がもううじさと)という珍しい名前の人物もまた、戦乱の世に活躍した武将の1人です。
1度聞いたら忘れないほどインパクトのある名前の蒲生氏郷ですが、何をした人物なのでしょうか?
蒲生氏郷は、あの織田信長が気に入り、娘婿に選ばれたほどの男でした。
リーダーシップに長けた勇将で、茶道や和歌などの教養も身につけた文化人でもありました。
豊臣秀吉が天下を取ってからは、東北地方を任されて、野心家の伊達政宗とバチバチにやり合ったとされています。
今回は蒲生氏郷が何をした人物なのかを解説するとともに、謎に包まれた死因についても深掘りしてまいります。
蒲生氏郷の人物像
蒲生氏郷は非常に個性的な武将でした。
武人として数々の武功を挙げ、統治者として今も残る街づくりをし、文化人として和歌や茶道に通じました。
レオンというキリシタンネームも持ちます。
多才にして優秀。その有能さは、あの織田信長に認められ、娘婿に選ばれたほどです。
この章では、個性豊かな蒲生氏郷の人物像に迫ります。
文武両道のキリシタン
奥で指揮をする武将が多い中、氏郷は戦となると先陣を切って味方を鼓舞し戦線で戦う勇将だったのです。
また、彼は同時に優れた文化人でもありました。
時の文化人のトップだった千利休からも非常に愛されたといいます。
その気に入られようは、千利休の弟子となり利休七哲(りきゅうしちてつ)と呼ばれたことからも分かります。
蒲生氏郷は敬虔なキリシタンで、元々はキリシタン大名として有名な高山右近に勧められてキリスト教に帰依したとのこと。
織田信長が認めた男
蒲生氏郷の父親である蒲生賢秀(かたひで)は、当時織田家とライバル関係にあった六角氏の家臣でした。
しかし織田信長によって六角氏が滅ぼされたことで、信長に従うことを誓い、息子の氏郷を人質に出しました。
織田信長はすぐに蒲生氏郷の非凡さを見抜き、実の娘を嫁にして自分の婿に迎えたいと言ったのだとか。
人質として岐阜に行った氏郷は、その間も勉学や武芸を怠りませんでした。
織田信長はそんな氏郷をとても気にいったようで、元服の際には自ら烏帽子親(えぼしおや)を務め、かつて言った通り、自分の末娘である冬姫を氏郷に嫁がせました。
元服後は織田信長配下の武将として数々の武功を挙げた蒲生氏郷。自ら先陣を切って敵に向かうため、部下たちは大将を死なすまいと必死になって戦うのでした。
蒲生氏郷は常々、武将たるもの口先だけの指揮をしてはいけないと語っていたといいます。
その心構えも、織田信長に認められるゆえんだったのではないでしょうか。
優れたリーダーシップ
蒲生氏郷は、統御力にも優れていたと武将と言われています。
統御とはすなわち、リーダーシップとかカリスマといった言葉に置き換えられます。
蒲生氏郷はその時代の頂点にいたリーダーたちから経験とノウハウを学び、当初は寄せ集めに近かった蒲生家家臣団を率いて次々に武功を挙げて行くことになります。
蒲生氏郷は新たに部下として入ってきた武士には、「銀の鯰尾(なまずお)の兜を被って陣の先頭を戦う男がいる。そいつに負けないように励めよ」と声を掛けたといいます。
その鯰尾兜の男が、まさに蒲生氏郷だったのです。
蒲生氏郷は自ら先陣を切って戦うことで、部下たちを鼓舞して、力を引き出していたのでした。
姉川の戦いや長篠の戦いなど数々の戦で武功を挙げて信頼を勝ち取ることができたのも、ひとえに蒲生氏郷の統御力のなせる業(わざ)だったのではないでしょうか。
東北の守護神
蒲生氏郷の大きな功績の1つに、東北地方の統治があります。
豊臣秀吉が天下統一を果たすと、蒲生氏郷は東北の会津に配置されることになります。
当時、東北には天下統一に近いと言われたの伊達政宗がいましたし、豊臣秀吉に反目している勢力による乱の心配もありました。それらを牽制するためにも、豊臣秀吉は信頼できる武将を派遣する必要があったのです。
この章では東北地方での蒲生氏郷の功績や、伊達政宗との駆け引きについてご紹介してまいります。
蒲生氏郷VS伊達政宗
豊臣秀吉が蒲生氏郷に会津を与えたのは、東北の諸大名に対する抑えとして働いてもらうためでした。
特に野心家として有名だった伊達政宗を牽制する役目を任された蒲生氏郷は、政宗との高度な駆け引きをしていきます。
蒲生氏郷の配置された会津の地は、もともと伊達政宗が治めていた所領でした。
しかし伊達政宗が豊臣秀吉の傘下に入ったときに取り上げられてしまったのです。伊達政宗にとっては面白くありませんが、若松城を攻めるほど愚かではありません。
そこで伊達政宗が何をしたかというと、豊臣秀吉の命令によって土地を失った浪人たちをけしかけて乱を起こさせたのです。
これを葛西大崎一揆と呼びます。
豊臣秀吉は蒲生氏郷と伊達政宗の2人に、この一揆の鎮圧を命じました。
しかし伊達政宗は、命令に従う振りをして蒲生氏郷の邪魔をしていきます。蒲生氏郷は伊達政宗がこの一揆の裏で糸を引いていることを知っていたのです。
蒲生氏郷は伊達政宗に手紙を送り、「あなたが鎮圧させないと豊臣秀吉がどう思うか」というようなことを忠告しました。これにより伊達政宗は葛西大崎一揆の鎮圧に本腰を入れなければならなくなったということです。
一揆鎮圧の後も、蒲生氏郷は伊達政宗への警戒を怠りませんでした。
引き揚げる際に伊達政宗に襲われないように人質を2人用意するように要求します。しかし伊達政宗は1人しか送ってきません。ここで妥協しては今後に響くことを見越した蒲生氏郷は人質を送り返しました。
かくして観念した伊達政宗は、次は2人の人質を差し出したということです。
東北の発展に寄与
蒲生氏郷が会津に着任してから最初にしたことは、街づくりでした。
蒲生氏郷は、それまであった黒川城を大改修して名前を若松城と改めました。若松の名前の由来は、旧領であった松阪から取ったと言われています。
蒲生氏郷は城下町をつくるに際して、旧領の近江や松阪から商人を呼び寄せて優遇しました。そのため若松は商業の町として栄えることになりました。
この商業中心の街づくりは、義父である織田信長の影響を受けたのではないかと言われています。
若松城は江戸時代に入ってさらに重要度を増し、江戸幕府における東北の鎮守府となりました。
蒲生氏郷の死の謎
蒲生氏郷は将来を期待されながら40歳の若さで病に倒れたとされていますが、毒殺説もあり、未だにその死は謎に包まれています。
この章では蒲生氏郷の死因と、毒殺説の詳細をご紹介してまいります。
病死?
1592年の朝鮮出兵で、豊臣秀吉に命じられて蒲生氏郷も3千の軍勢を率いて出陣しました。
しかし秀吉から後詰めを指示されたため、九州の名護屋(現在の佐賀県鎮西町)に留まりました。その陣中に蒲生氏郷は吐血したのでした。
当時、蒲生氏郷は37歳でした。
蒲生氏郷の病状は悪化するばかりで、翌年11月には会津への帰国を余儀なくされました。
帰国後も蒲生氏郷の体調は回復せず、上洛して有名な医師の治療を受けたりもしましたが病状は好転しませんでした。
結局、蒲生氏郷は京都伏見の自邸で1595年2月7日に病死したといいます。享年40歳。
死因は特定されてはいませんが、症状などからして直腸癌、肝臓癌、肝硬変などではないかとされています。
毒殺説
蒲生氏郷は実は病死ではなく、豊臣秀吉あるいは石田三成に毒殺されたのではないかとする説もあります。
毒殺説が記されているのは氏郷記という蒲生氏郷の1代記です。これに文禄4年(1595年)に石田三成が豊臣秀吉と謀って氏郷に毒を盛ったと書かれています。
しかし、そのとき石田三成は朝鮮出兵中でしたので、現在では石田三成の関与は否定されています。
豊臣秀吉が犯人とする説も疑わしいとされています。なぜなら、蒲生氏郷が病に倒れたとき、真っ先に医師の手配をしたのが豊臣秀吉だからです。
蒲生氏郷を治すために、複数の名医が輪番で治療に当たったと言われています。
毒殺説が出てきた理由としては、蒲生氏郷が優秀だったために時の権力者が彼を恐れたとするものです。しかし蒲生氏郷の人物像を鑑みるに、彼に豊臣秀吉に取って代わろうとする欲はなかったと思われるのですが…。
蒲生氏郷って何をした人物?謎に包まれた死因も深掘り!まとめ
これまで、蒲生氏郷が何をした人物かをご紹介し、謎とされてきた死因についても解説してまいりました。
蒲生氏郷は鯰尾兜の逸話でわかるように勇猛な武将で、リーダーシップに優れていました。
蒲生氏郷は東北にゆかりのある武将で、独眼竜で有名な伊達政宗と対立していた武将でもありました。
豊臣秀吉が反乱分子の抑えとして会津に配置したことからわかるように、蒲生氏郷は秀吉からの信頼が厚かったことが窺えます。
蒲生氏郷は40の若さでこの世を去りました。彼のような、主君のために働ける武将が長生きできていたなら日本の歴史が変わっていたかもしれないと思わずにはいられませんね。
【参考文献・参考サイト】
『2時間でおさらいできる戦国史』石黒拡親 大和書房
『読むだけですっきりわかる戦国史』後藤武士 宝島社
『戦国武将あの人の顛末』中江克己 青春出版社
『春の風なんか大嫌い!勇猛で優美な武将 蒲生氏郷』ガイドアメディア
『蒲生氏郷は、豊臣秀吉や石田三成に毒殺されたのか。その衝撃的な謎と真相に迫る』戦国こぼれ話