光明皇后ってどんな人?人生と人柄について解説

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奈良時代の女性の中で光明皇后ほど高い知名度を誇る人はいません。

光明皇后は東大寺や奈良の大仏を建立した聖武天皇の皇后です。

仏教を熱心に信仰した聖武天皇と同様に、光明皇后は信心深く慈悲深い人物として語られます。

自ら皮膚病患者の体を洗うなど、病人や貧しい人に奉仕したエピソードも残っています。

一体、光明皇后って、どんな人だったのでしょう。

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目次

光明子とその家族

ここでは光明皇后の家族について解説します。

光明皇后は大宝元年(701)に生まれました。

幼名は安宿媛(あすかべひめ)と言い、天平元年(729)聖武天皇の皇后に立てられたのを機に光明子と改名しました。

光明皇后というのは光明子にちなんだ呼び名です。

本記事ではこれ以降、光明子と呼ぶことにします。

藤原氏に生まれてー父・母・兄弟―

光明子の父母はどんな人物だったのでしょうか。

父は藤原不比等(ふひと)、7世紀末の女性天皇だった持統天皇に仕えた能吏です。

現代の私たちから見ると、藤原氏といえば名門中の名門貴族というイメージを抱きがちです。

しかし、光明子が生まれた当時の藤原氏はまだまだ新興貴族の1つに過ぎませんでした。

光明子の母は橘三千代(たちばなのみちよ)です。

7世紀末から8世紀初頭の天皇家に仕える優秀な女官でした。

三千代が不比等と再婚したのも、めきめき頭角を表す藤原不比等の将来に賭けたためなのかもしれませんね。

文武天皇の妃で光明子の夫聖武天皇の母にあたる宮子は姉、武智麻呂・房前・宇合・麻呂の藤原四子も兄弟にあたります。

夫聖武天皇とは幼馴染み

光明子の夫である聖武天皇についても整理をします。

聖武天皇は大宝元年(701)に文武天皇と宮子の間に生まれます。

光明子とは同い年です。

残念ながら母宮子は聖武出産後に精神を病みます。

聖武は祖父の不比等のもとに引き取られ成長し、光明子と聖武とは幼なじみの幼少期を過ごしたと言えます。

ちなみに、宮子の病気が治り聖武と親子の対面を果たしたのは天平9年(737)、聖武が生まれてから実に36年後のことでした。

天平9年といえば、聖武はとっくに天皇になっていますし、光明子も皇后になっています。

聖武の人生の基盤は、藤原氏の庇護の元で形作られたと言っても過言ではないのです。

聖武との結婚、2人の子供について

成長した光明子と聖武は結婚し、生涯で2人の子供に恵まれます。

長子は養老2年(718)生まれの女の子で阿倍(あべ)内親王です。

次子は神亀4年(727)生まれの待望の男子、基(もとい)王です。

しかし後継の男子が生まれたと喜ぶのも束の間、基王は翌年幼くして亡くなります。

光明子はついに、聖武の後継ぎである男の子を産み育てることができなかったのです。

聖武の後継がなかなか決まらなかったことをめぐり、奈良時代の後半は政争の絶えない不安定な時期が続くことになります。

光明子と聖武の筆跡からわかる2人の性格―楽毅論と雑集―

光明子と聖武。

この2人の人柄を知る手掛かりは現代にも意外と残っているんです。

ここでは、光明子と聖武の筆跡をご紹介します。

光明子と聖武のカップルは、夫婦で自筆文字が残っている珍しい奈良時代人です。

今から1300年近く前の手書き文字が奇跡的に残ったのはなぜでしょうか。

理由は聖武が建立した東大寺の正倉院に伝来したためです。

光明子の自筆文字を見てみましょう。

【資料】光明子自筆 王羲之 楽毅論 正倉院蔵

出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/光明皇后

中国の書家王羲之(おうぎし)の書、楽毅論(がっきろん)を光明子が臨書したものです。

末尾の日付は天平16年10月3日とあり、光明子44歳の時の書とわかります。

藤三娘は藤原氏の三女という意味で、まさしく光明子を指します。

全体的にとても力強い筆跡ですね。

多少の歪みや滲みも気にせず堂々とした文字を綴る光明子の筆運びには、皇后としての困難にめげずに突き進む彼女の生き方が重なります。

聖武の筆跡も見てみましょう。

【資料】聖武自筆 雑集 正倉院蔵

出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/聖武天皇

雑集(ざっしゅう)と呼ばれるこの書は、天平3年(731)聖武31歳の時のものです。

筆跡は光明子のものに比べると細く、全長21メートルの巻物の中でどこも歪むことなく端正な文字が綴られています。

筆跡を比較すると、光明子は大らかで堂々とした人柄と想像できます。

聖武は繊細ながらも強い内面を持つ人柄が目に浮かびます。

光明子と聖武のカップルは、正反対な性格の2人が支え合って人生を歩んで行くことになります。

光明子、臣下で初めて皇后となる

光明子の人生のターニングポイントは、彼女が臣下で初めての皇后となったことです。

皇后とは、天皇の正式な妻のことです。

光明子が聖武の皇后になるまでの皇后は、皇族出身の女性だけが選ばれるものでした。

現代から見ると、皇族以外の女性が皇后になるのは珍しくないことです。

しかし光明子が皇后になった奈良時代では前代未聞のこと、歴史を動かす大事件となりました。

ここでは光明子が日本の歴史上初めて臣下から皇后に立てられた意味・影響を解説します。

光明子が聖武の皇后となったわけ

聖武即位当時の光明子の称号は夫人(ぶにん)と言いました。

奈良時代の法律である律令には天皇の妻の身分も定められています。

上から皇后・妃・夫人・嬪(ひん)ですので、夫人は上から3番目です。

聖武の他の妻も夫人の称号を持っており、光明子だけが最初から地位が高かったとは言えません。

それでは他の妻ではなく、光明子が皇后に選ばれた理由は何でしょうか。

結論から言うと、光明子が将来産む男の子の天皇即位に備えて強力なバックグラウンドを形成したかったためです。

これは、光明子の実家である藤原氏と、藤原氏と強い繋がりを持つ聖武にとってのメリットにつながります。

光明子立后前後の出来事を整理しておきましょう。

神亀4年(727)光明子には待望の男子基王が生まれるも、翌年幼くして亡くなります。

満1歳にもならない我が子が亡くなるのは、聖武と光明子夫婦には大変ショッキングな出来事でした。

ただ、聖武の妻の1人としての光明子にとっては、聖武の後継者の男子の母になるチャンスが消滅したことを意味します。

一方、光明子の実家藤原氏では不比等が亡くなり、武智麻呂・房前・宇合・麻呂の藤原四子の時代に移っていました。

藤原氏にとって基王が亡くなることは、光明子の息子を通じて天皇家との縁戚関係を強化するチャンスが消滅したことを意味します。

藤原氏にとってタイミングの悪いことに、基王死去直後の時期に、聖武の別の妻から男の子が生まれています。

男の子の名は安積(あさか)親王、母は県犬養広刀自(ひろとじ)です。

安積親王が成人し天皇に即位したならば、藤原氏を外戚にもたない天皇が誕生することになります。

藤原氏は諦めませんでした。

基王が亡くなった神亀5年(728)の光明子は28歳。

まだ聖武との間に子供を産む可能性に期待できます。

もし、光明子が聖武との間に将来再び男の子を産んだとします。

藤原氏としては安積親王ではなくその子を天皇にしたいと考えます。

ただ先に生まれた安積親王を退けるには、皆が納得する根拠が必要です。

光明子が夫人ではなく皇后の称号を持っているならば、その子の即位には世間の納得を得やすいでしょう。

藤原氏は、まだ生まれていない光明子の次男の即位に備える目的で彼女の立后を強引に進めることになります。

長屋王の変

光明子立后にかけての藤原氏の強引な姿勢は、世間の納得を簡単に得ることはできませんでした。

生まれてすらいない子供の成人後のためにあれこれ準備をするというのは、筆者から見てもちょっと先走りすぎだと思います。

神亀6年(729)2月、政府首班の皇族だった長屋王(ながやおう)が政府により自殺に追い込まれます。

長屋王の変です。

長屋王の罪状は、前の年に亡くなった基王への呪詛でした。

しかしこれはのちに濡れ衣だと判明しました。

長屋王が消された本当の理由はなんなのでしょうか。

事件の直後に天平に改元され、光明子の立后が実現したため、光明子立后に反対する長屋王が藤原氏に排斥されたと推測されています。

皇族の一員だった長屋王から見ると、藤原氏が進める光明子立后は重大な慣例破りとなります。

古代の皇后は、皇族出身の女性だけが選ばれるという慣例です。

古代の常識に則って光明子立后に反対した長屋王を、藤原氏側が自殺に追い込んだと理解すると、現代の私たちにも納得です

光明子の皇后宮、旧長屋王邸に置かれる

長屋王と光明子。

この2人の邸宅について、研究で面白いことがわかっています。

まず長屋王の邸宅は、発掘調査によって平城京左京三条二坊の広大な一角にあたることがわかっています。

【地図】の通り、平城宮のほぼ真向かいに当たる一等地です。

【地図】平城宮と長屋王邸の位置関係

出典:渡辺晃宏『日本の歴史04 平城京と木簡の世紀』(講談社学術文庫 2009年)111頁

神亀6年(729)に長屋王がこの地で自殺した後、邸宅はどうなったのでしょうか。

実は、皇后宮すなわち皇后の住居として使われたと考えられます。

長屋王亡き後の皇后とは、光明子以外に考えられません。

光明子立后のために無実の罪で死に追い込まれた長屋王の邸宅跡に、皇后となった光明子が居住したということです。

前の住人が非業の死を遂げた家に引っ越すこと、筆者なら少し抵抗があります。

しかも長屋王の場合、死の原因は光明子立后をめぐる藤原氏の強引な政治工作です。

光明子は長屋王に祟られないだろうか、心配にならなかったのでしょうか。

自筆文字から垣間見られた光明子の性格、大らかで堂々とした人柄がここでも現れていますね。

光明子、奈良時代の政界不可欠の調整役になる

光明子が古代の常識を破って皇后に立てられた理由は、将来彼女が次男を産んだ場合確実に次の天皇にできるように準備をしたためでした。

しかし、基王の後に光明子が聖武の子を産むことは2度とありませんでした。

聖武の後継者がなかなか定まらない中、天皇家での光明子の役割がどのように変化していくか解説します。

政界の調整役、光明皇太后

天平感宝元年(749)、聖武は娘の阿倍内親王すなわ

天平感宝元年(749)、聖武は娘の阿倍内親王すなわち孝謙(こうけん)天皇に譲位します。

光明子は皇后から皇太后に称号が変わります。

孝謙天皇は生涯独身で子供がいないため、じきに正式な皇統が定まるまでの中継ぎ天皇でした。

問題は、聖武の血を引く男性皇族がこの時誰もいなくなっていたことです。

聖武のもう1人の息子安積親王は、天平16年(744)に17歳で亡くなっています。

聖武はより遠い親戚にまで対象を広げて次の皇統を探します。

しかし、誰を選んでも聖武の子孫ではないことに変わりありません。

皆を納得させる正統性は今ひとつ足りない状況でした。

藤原氏側からも新勢力が台頭します。

不比等の孫で光明子の甥に当たる優秀な仲麻呂(なかまろ)が、政府内で急速に昇進して皇族メンバーを脅かし始めます。

聖武は上皇になったのちも次の皇統を決めるのに苦慮し続け、天平勝宝8歳(756)に亡くなります。

混乱が続く政界において調整役を務めることができたのは、聖武の皇后だった光明子を除いて他にありませんでした。

彼女の大らかで堂々とした性格なら、役目を務め上げることができそうですね。

光明子の死が与えた影響

天平宝字4年(760)、光明子は60歳で亡くなります。

彼女の死により、当時の政界は調整役を失います。

光明子の甥であることを根拠に勢力拡大に努めた仲麻呂は支持基盤を失います。

仲麻呂の推した淳仁天皇は孝謙上皇と決裂し、天平宝字8年(764)恵美押勝の乱で仲麻呂と共に滅ぼされます。

奈良時代の正史続日本紀の巻が、光明子の死で改められているのにも注目です。

政府公式の歴史書である続日本紀は全40巻で構成されており、天皇経験者が亡くなった時には巻を改めるルールになっています。

光明子は天皇ではありませんが、天皇と同等の政治的影響力を持つ人物とみなされていたのです。

正倉院宝物が語る光明子の聖武への想い

これまでは公的な立場の光明子の人生を解説してきました。

堂々とした強い女性という印象を受けるのではないでしょうか。

最後に光明子の家族への気持ちはどうだったかを解説します。

光明子の人間らしい一面が伝わると思います。

正倉院宝物は、聖武思い出の品

光明子と聖武の自筆文字が伝来していることはすでにお話しました。

東大寺正倉院には自筆文字以外にも奈良時代の貴重な宝物が数多く残されています。

いわゆる正倉院宝物です。

実は正倉院宝物とは、天平勝宝8歳(756)聖武の四十九日に合わせて彼の遺品を光明子が東大寺に献納したことに始まるのです。

 国家珍宝帳に綴られた光明子の想い

光明子は聖武の四十九日に宝物を献納するにあたって、詳細な目録を作っています。

国家珍宝帳(こっかちんぽうちょう)です。

その願文では光明子が亡き聖武への気持ちを綴ります。

資料】国家珍宝帳 願文 大意 

巻首に願文が記されているが、その前文で光明子は聖武の遺徳を述べたあと、いつまでも楽しみをともにしたいと思っていたのについに崩御され、しかし時の過ぎるのは早く、もう四十九日を迎えてしまい、悲しみは募るばかりであるといい、そこで、先帝陛下の奉為に、国家の珍宝たる種々の翫好(がんこう)および御帯・牙笏・弓箭・刀剣、兼ねて書法・楽器などを喜捨して東大寺に入れ、盧舎那仏およびもろもろの仏・菩薩、一切の賢聖に供養せん。

(中略)

生前聖武の好んだ品々をみるにつけ、ありし日が思い出されて泣き崩れてしまうという言葉に、聖武への深い愛情が感じ取れよう。

(出典:瀧浪貞子『光明皇后―平城京にかけた夢と祈り』(中公新書 2017年)205-206頁)

幼なじみ同様に育って長年連れ添った聖武を失ったことへの悲しみが、光明子らしく真っ直ぐに表された願文です。

光明皇后ってどんな人?人生と人柄について解説・まとめ

この記事では光明子の人生と人柄についてエピソードを交えて解説しました。

藤原氏出身の光明子が皇后になることは、天皇の正妻は皇族女性に限るという古代の慣例を破ることでした。

長屋王の変などの政敵排除や、聖武の後継者が定まらない政治不安を夫と乗り越える中で、光明子は天皇家最大の意見調整役として欠かせない存在になっていきます。

彼女の大らかで堂々とした人柄が、重責を務め上げるのを支えたことでしょう。

国家珍宝帳の願文はしかし、長年連れ添った夫を亡くした光明子の悲痛な思いを伝えています。

天皇家の要として、また家族を愛する女性として、光明子の生き様は奈良時代を懸命に生き抜いた1人の女性の姿として胸に迫ります。

【参考文献】

・瀧浪貞子『光明皇后―平城京にかけた夢と祈り』(中公新書 2017年)

・渡辺晃宏『日本の歴史04 平城京と木簡の世紀』(講談社学術文庫 2009年)

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