戦国時代に、中国地方10ヵ国を統治していた毛利元就という戦国大名をご存じでしょうか。
安芸国の小さな領主から、数々の戦いをくぐりぬけ、西国一の大名にまで上り詰めた毛利元就の生き様は、後世に様々な教訓を遺してくれています。
その中でも特に有名なものが、「三本の矢」の教えというものがあります。
今回は、毛利元就が遺した「三本の矢」の教えの内容や背景について解説したいと思います!
「三本の矢」の教え

「三本の矢」の教えとは、毛利元就が大内氏や尼子氏と戦いながら勢力を拡大していく中、晩年となった頃、三人の息子達を集めて諭したという有名な逸話です。
毛利元就は、息子一人一人に矢を渡し、それぞれ折るように促します。三人の息子たちは軽々と折りますが、三本だと折ることができませんでした。
一本ずつの矢はたやすく折ることができるが、三本まとめると折れないことを、身をもって感じさせ、毛利家が戦乱の世を生き残っていくためには三人の息子たちが結束することが大事だということを伝えたのです。
この話は集団で結束することの重要性を説く毛利元就の遺訓として、後世に広く知られていますが、実のところは江戸時代に創作されたものと言われています。
「三本の矢」の教えは創作
三本の矢の教えには、創作される元となった、書状があります。
それは、三子教訓状といわれているもので、毛利元就から長男・毛利隆元、次男・吉川元春、三男・小早川隆景に対して送られました。
次は、その三子教訓状とはどのような内容だったのか、その書かれた背景と合わせて見ていきたいと思います。
三子教訓状
三子教訓状は、毛利元就から三人の息子達に対して送った書状です。
その内容は、「毛利本家を継いだ長男・隆元を、養子として他家へ入った次男・元春と三男・隆景がしっかり助けて、毛利という家を末代まで廃らせないように努力してほしい」ということを記したものでした。
その書状は、長さ3メートルにも及ぶ長文のものであり、その第一条には「毛利と申す名字の儀、涯分末代までもすたり候ハぬやうに、御心がけ、御心遣い肝心までにて候」とあります。
実際の文章では、毛利家の行く末を案じた元就が、何度も息子達に懇願している様子が伺えることから、「教え」というよりも、むしろ「お願い」に近い内容だったと言われています。
この教訓状を書いた元就は、長男・隆元にこの書状を送りますが、隆元を通じて、次男・元春、三男・隆景にも伝えられます。
そして、三人できっちりと父の意向について協議した後に連名による請書を提出させ、教訓状の趣旨に添うことを誓わせるという徹底ぶりでした。
教訓状が書かれた背景
このような教訓状を息子達に送ったのは、毛利家が置かれていた不安定な情勢と関係していました。
弘治三年(1557年)、毛利元就は大内氏を滅ぼし、周防国、長門国を制定した後、周防国の各地で大内氏の残党を鎮圧するために転戦をしていました。
この時、毛利元就はすでに61歳になっており、大内氏を滅ぼしたとはいえ、東には尼子氏が健在であり、諸豪族も心から臣従している状態ではありませんでした。
毛利家は、元就の代で大きく拡大しましたが、まだ盤石な支配権を確立していたわけではない状況だったことからも、自分がいなくなった後の毛利家のことを常に案じていました。
これまでの毛利元就自身が経験してきたことを踏まえ、周囲の敵に対抗していくためには、毛利家内の結束を強くする必要があると考え、毛利家の柱となっていく三人の息子達に対して、「まず信頼できるのは肉親だ」ということを諭します。
毛利家を末永く存続させて欲しいという思いがあったのではないでしょうか。
教訓状による毛利家の結束
毛利家の結束を求めた教訓状が書かれた以降、毛利家はどのようになっていったのでしょうか。
毛利本家を継いでいた長男・毛利隆元は、将来を嘱望されていましたが、病のため早世してしまい、毛利隆元の子・毛利輝元が跡を継ぐことになります。
しかし、家督を継いだ毛利輝元はまだ11歳だったため、次男・吉川元春、三男・小早川隆景が教訓状の内容を厳格に遵守し、後に「毛利の両川(りょうせん)」と称されるように、毛利本家をしっかりと支えていったのです。
また、毛利元就が亡くなった後も、毛利本家と「毛利の両川」が結束し、中国地方の支配を確立していきます。
さらには織田信長と対峙するも互角に渡り合い、豊臣政権においても重要な地位につき、毛利家を存続させていくことに成功していくのでした。
「三本の矢」の教えが後世に与えた影響
毛利元就が遺した教えは、その後の日本の歴史に大きな影響を与えていきます。
「三本の矢」の教え、いわゆる三子教訓状は、ただ単に三人の兄弟の結束を説いたものというだけではなく、毛利家全体を保つために、毛利本家の地位を明確にして、一族の中での内紛を避け、下剋上を防ぐことを目的としたものであるともいえます。
毛利家は、毛利元就が亡くなった後、様々な事件、戦いに直面しますが、毛利本家を守り抜くことを最優先に考え、行動していきます。
その結果、江戸時代においても長州藩としてしぶとく生き残り、明治維新の立役者となっていくのです。
小早川隆景の機転
毛利家は、毛利元就の三男・小早川隆景が外交を主導していくことにより、豊臣秀吉との友好関係を構築していくこととなります。

そして、豊臣秀吉の天下統一に向けた戦いや朝鮮出兵にも従軍し、存在感を高めていきます。
豊臣秀吉としては、自分に対して友好的な毛利家との関係をより密にして豊臣政権に組み込もうと画策し、毛利家当主・毛利輝元に対して、秀吉の甥を養子にしてはどうかと言い寄ります。
毛利本家に秀吉の血が入ることを恐れた小早川隆景は、機転を利かせて、自分にも子供がいなかったこともあり、ぜひ小早川家の養子として迎えたいと申し出ます。
このことで、豊臣家から毛利本家を守ることとなり、適度な距離感を保ちながら政局を乗り切っていくのです。
小早川隆景がこのような行動をとったのは、常に父・元就から教えであった、「毛利家の存続」という思いがあったからではないでしょうか。
「三本の矢」の教え以外の逸話やエピソード
「三本の矢」は、毛利元就の最も有名な逸話ですが、それ以外にも毛利元就の人となりや考えを表すエピソードが言い伝えられています。
その中のいくつかを紹介したいと思います。
百万一心
毛利元就が、居城である吉田郡山城の増改築を命じていた時に、巡礼の女子を人柱にして本丸の石垣に埋める計画があることを知ります。
それを知った元就は反対し、人柱の代わりに「百万一心」と書いた石碑を埋めさせたという伝説があります。
この石碑が後世発見されてから、「百万一心」という逸話が生まれ、毛利元就の偉大さが伝えられてきました。
また、「百万一心」という文字を上から読むと「一日一力一心」とも読むこともでき、「日を同じにし、力を同じにし、心を同じにする」という意味で一致団結することの大切さを伝える言葉として、長州萩や毛利元就の本拠があった広島県安芸高田市吉田町など毛利家ゆかりの地では大事にされています。
実は繊細で筆まめ
毛利元就というと謀略家で戦に明け暮れた戦国武将というイメージがあると思います。
しかし、実は非常に筆まめであり、三子教訓状以外にも家臣や息子達、家族に対してたくさんの書状を遺しています。
息子達に対しては、長文の書状で事細かに指示を送ったり、ときには小言を交えながら、叱ったりするようなこともしていたためか、息子達をはじめ家中では神格化されるほど、かなり怖がられていたようです。
一方で、妻に先立たれていた元就は、晩年になって三子教訓状の中でも、亡き妻への恋しい思いを綴るなど、家族に対して愛情をもって接していた人だったのではないでしょうか。
毛利元就の「三本の矢」ってどんな教え?その内容や背景を解説!まとめ
ここまで、毛利元就の「三本の矢」の教えについて解説してきました。
「三本の矢」の教えは、後世に創作されたエピソードではありますが、その元となった「三子教訓状」で毛利元就が息子達に伝えたかった「一致団結して物事にあたれ」という考え方は、実際に毛利元就が家中をまとめるために非常に重要視したことです。
そして、この考え方は毛利家の中で脈々と受け継がれ、毛利家を存続させていったからこそ、幕末において長州藩が躍動する原動力へ繋がったといっても良いと思います。
また、「三本の矢」の教えは、日本人の「和」を大事にする気質にも合っており受け入れられやすい内容なので、毛利元就の考え方をわかりやすく表現した逸話として、今後も語り継がれていくのではないでしょうか。
【参考文献・参考サイト】
『毛利元就』著:岸田裕之 ミネルヴァ書房
『乱世の智将 毛利元就』著:古川薫 中国新聞社
『毛利元就「名将」の横顔』著:安芸高田市歴史民俗博物館