足利義輝(あしかがよしてる)という将軍をご存知でしょうか?
応仁の乱以降、幕府の権威は失墜して足利将軍は飾り物となっており、政治に利用されることがほとんどでした。
しかし第13代将軍の足利義輝は、自ら考えて行動しようとしたのです。
また、足利義輝は剣豪将軍と呼ばれており、有名な師匠から指南を受けた剣客(けんかく)でした。
足利義輝は武芸に秀でたことだけでなく、仲裁将軍として武将や民衆からの信頼も厚かったといいます。
歴代征夷大将軍最強ともいわれる足利義輝が、何をした人で、どんな人物だったのかということについて、ご紹介してまいります!
剣豪将軍

室町幕府第13代将軍の足利義輝は、剣豪将軍と呼ばれています。
この章では、足利義輝が剣豪将軍と呼ばれる理由と、歴代征夷大将軍最強といわれる実力について解説してまいります。
なぜ剣豪将軍と言われたのか
足利義輝が剣豪将軍と呼ばれたゆえんは、剣術の達人だったからにほかなりません。
足利義輝は11歳で将軍となりました。
しかし相次ぐ争乱で、平穏な日などないような状況でした。こうした乱世を生き抜くために、武芸を身に着けたのだと思われます。
足利義輝は新陰流(しんかげりゅう)を興した上泉秀綱(かみいずみひでつな)に剣術と兵法を学びました。
また、剣聖と呼ばれた塚原卜伝(つかはらぼくでん)から奥義・一の太刀の伝授を受けたほどの剣客だったと伝えられています。
さらには弓馬を小笠原長時から手ほどきを受けていました。
足利義輝はこのように武芸に励んで優れた剣客だったことから、剣豪将軍と呼ばれるようになったのでした。
歴代征夷大将軍最強!?
足利義輝は、前述の通り剣術をはじめとして武芸に秀でており、歴代征夷大将軍の中で最強と言われています。
すなわち、最も武芸に優れた将軍と称されているのです。
武芸の面だけでなく、足利義輝は応仁の乱以降の他の将軍たちと違い、傀儡に甘んじることなく積極的に政治も行なったと言われています。
それだけでなく、戦乱の世にありながら武将同士の争いの仲介役を進んで買って出ることも多かったといいます。
これは武将たちに認められなければできないことですから、そういった態度もろもろを含めて歴代征夷大将軍最強と呼ばれているのでしょう。
歴代征夷大将軍最強と言われる足利義輝ですが、皮肉にもその実力が実践で発揮されたのは、死の間際だったとされています。
足利義輝がどのような太刀(たち)回りを披露したのかという詳細は、第3章でご紹介いたします。

足利義輝の偉業

足利義輝は若くして征夷大将軍の地位を継承して少年将軍として名を馳せただけでなく、仲裁将軍とも呼ばれ武将や民衆からも人気の存在でした。
この章では、足利義輝が成してきた偉業を紹介してまいります。
異例の少年将軍
足利義輝は第12代将軍・足利義晴(よしはる)の嫡男で、幼名を菊幢丸(きくどうまる)といいました。
父の足利義晴は当時、室町幕府管領の細川晴元と戦の真っ只中でした。しかも負け続きで、敗走しては本拠地であった坂本(現在の滋賀県大津市)まで脱出するということがたびたびでした。
足利義輝は11歳で将軍となり、京に入りました。この若さは異例中の異例でした。
しかし細川晴元の攻撃で翌年には坂本に脱出しました。p
その戦のあと、細川晴元との和睦が叶い、細川晴元も足利義輝を認めて京に戻ったといいます。
こうして足利義輝は、和睦して戦を終結させたと同時に、最大の敵だった細川晴元を配下として取り込むことに成功したのでした。
父親である足利義晴から続いていた戦を終結させたことは、足利義輝の偉業の1つと言えるでしょう。
仲裁将軍
剣豪将軍・足利義輝は、仲裁将軍とも呼ばれていました。
簡単に言えば、戦国武将同士の仲直りを手助けしたのです。
それというのも、父親の代の幼少期から、自身が将軍になってからも戦が続いていたため、早く戦を終結させたいという思いが強かったのではないでしょうか。
足利義輝が仲裁したメンツに有名人が多いというのも、偉業たるゆえんです。
例えば、伊達晴宗(だてはるむね)VS伊達稙宗(だてたねむね)、武田信玄VS上杉謙信、毛利元就(もうりもとなり)VS尼子晴久(あまごはるひさ)、今川氏真(いまがわうじざね)VS若き日の徳川家康などです。
以上のことからわかるように、足利義輝は自身の経験や武将からの信頼により、数々の戦を終結させてきた将軍だったのです。
足利義輝がこのような偉業を作ることができたのは、単に終戦を命じるだけでなく、武将たちとの関係性がなくてはならないものでした。
それゆえ、三好義継と松永久秀が足利義輝を倒したと知り、各地の武将たちが激怒したと伝えられています。
足利義輝の末路
足利義輝は応仁の乱以降の他の将軍とは違い、権力者の傀儡(かいらい)に甘んじることなく将軍主体で政治を執り行なおうとした人物でした。
剣術に励み、必要とあらば戦う覚悟も持っていました。おまけに仲裁将軍と呼ばれ人気もありました。
そのことが逆に権力者たちには不都合だったため、足利義輝は三好義継(みよしよしつぐ)、松永久秀(まつながひさひで)らに襲われて悲惨な末路を辿ることになります。
この章では、足利義輝が辿った剣豪将軍らしい末路についてご紹介いたします。

死の背景
足利義輝が18歳のとき、しだいに勢力を拡大してきた三好長慶(みよしながよし)と戦わざるを得ない状況になりました。
2万5千もの大軍を率いて上洛してきた三好長慶に対して、足利義輝は船岡山(現在の京都市北区)に出陣したものの、あえなく敗れてしまいます。
近江の朽木(くつき)での亡命生活は、5年間に及んだといいます。朽木は、現在の滋賀県高島郡朽木村に当たります。
1558年に三好長慶との和議が結ばれ、ようやく京都へ戻ることができた足利義輝でしたが、長慶が死去したタイミングで、長慶の家臣であった松永久秀が義輝暗殺を企てます。
松永久秀は、扱いにくい足利義輝を殺して、義輝の従兄弟にあたる足利義栄(よしひで)を将軍につけようと画策したのです。
足利義輝はその気配を察知して松永久秀を排除しようと考えていましたが、やられる前にやれとばかりに、久秀が先に動くことになったのです。
1565年5月19日の早朝、三好義継と松永久秀は、清水寺参拝と称して大勢の兵を京に入れ、二条御所を取り囲みました。
こうして包囲網を敷かれた足利義輝は、壮絶な最後を遂げることになるのでした…。
剣豪将軍らしい最期
三好義継と松永久秀により二条御所を包囲された足利義輝でしたが、さすがは歴代最強の剣豪将軍。大人しく殺されるタマではありませんでした。
二条御所を取り囲んた三好義継と松永久秀の軍勢は、二条御所に火を放ち、鉄砲の一斉射撃をはじめました。
しかし足利義輝は、謀反と知っても動ずることはなかったといいます。
母の慶寿院(けいじゅいん)は勝ち目のないことを悟って、戦うのをやめさせようとしました。
しかし敵に背を向けるわけにはいかない足利義輝は、「公方らしく一同の面前で戦って死ぬ」と言い切ったのでした。
足利義輝は、近習たちが応戦しているあいだに主だった側近たちと最後の盃を交わし、細川隆是に舞をひとさし舞わせたと伝えられています。
そして足利義輝は、畳に鞘から抜いた刀を次々と突き立てていきました。足利義輝がこのとき使用した刀は、どれも名刀だったといいます。
側近の者たちが斬り込んで敵を何人も倒していきますが、新手が次々と現れます。
足利義輝は上泉秀綱や塚原卜伝に鍛えられた剣の腕前で、縦横無尽に敵を斬りまくりました。持っていた刀が刃こぼれすると、すぐさま刀を取り替えて戦ったといいます。
しかし戸の陰に隠れていた敵兵にやりで足を薙ぎ払われて、不覚にもうつ伏せに倒れてしまいました。その隙に障子を投げかけられた足利義輝は、一斉に刺されて殺されてしまったのでした。
この事件は永禄の変といいます。
足利義輝は剣豪将軍らしく勇敢に戦って散りました。その散り様は立派なものでしたが、足利義輝はそのとき30歳でした。志半ばで命を落としたという点では、悲劇の将軍と言えるかもしれません。
足利義輝は何した人?歴代征夷大将軍最強って本当?まとめ
以上、剣豪将軍こと足利義輝が何をした人物だったかということについてご紹介してまいりました。
足利義輝は11歳の若さで征夷大将軍になり、しばらくは戦のさなかにいました。
その影響か、武将同士の争いの仲立ちをし、仲裁将軍と呼ばれるまでになりました。
歴代征夷大将軍最強と言われる剣術の腕前と、傀儡の将軍であることを拒否した姿勢から、有能で向上心のある人物であったことが伺えます。
しかし、そのために権力者たちにとっては扱いにくく、命を狙われてしまいました。
武芸の達人であったがゆえに、最期は逃げることをよしとせずに立派に戦って散ったという将軍でした。
散り際の大太刀回りなどは後世に語り継がれており、そのため歴代征夷大将軍最強や剣豪将軍といった呼称がついたとされています。
上杉謙信をはじめとした仲裁将軍に仲立ちしてもらった武将たちは、足利義輝が殺害されたことを知って酷く怒ったといいます。
そのことからも、足利義輝が成してきたことの大きさや、勝ち取った信頼の厚さが窺えるでしょう。
30歳の若さでこの世を去った足利義輝ですが、その成してきた偉業や生き様からは学ぶことが多いのではないでしょうか。

【参考文献・参考サイト】
『2時間でおさらいできる戦國史』石黒拡親 大和書房
『読むだけですっきりわかる戦国史』後藤武士 宝島社
『戦国武将あの人の顛末』中江克己 青春出版社